夢にはさせない


あまい言葉で誘って、蠱惑的な香りで惑わして、優しい瞳でこちらをみつめて。

あいしてるよ、上質な酒精を傾けてかれは言う。みみが溶けてしまうとおもうほどその響きは甘くて、益田龍一はおもわず頬を紅潮させる。よくセットされた栗色の髪が、バアの照明に照らされて光を放っていた。
鼻筋の通った、マヌカンのような男は言った。映画スタアのような男だと益田はつくづく見蕩れてしまう。
整ったくちびるで、かれは愛の言葉を紡いだ。
「龍一」
どくどくと胸が鳴る。
このまま死ぬんじゃないかと思うくらい緊張してそれと同時に嬉しくて、探偵助手は為す術もなかった。
美しい指がグラスを弄び、熱っぽい眸が益田をじっと見つめていた。
何だか壊死してしまいそうだと益田は思う。心臓が壊れてしまいそう。唇がひくひくとうごくのを他人事のように感じていた。
「りゅういち?」
微かに潜めた低音で彼が尋(き)く。キャパシティなどとっくに限界を迎えており益田はただ顔を真っ赤にして、―――を見つめた。
彼はくすくすと笑っている。そうして、何気ないように益田の後頭部に掌を宛がった。(あ、大きい、あった、かい。)そして益田の顔をゆっくりと引き寄せた。
(え、うわ、)
キスされるんだ、と思う。酒精と―欲と、愛情に潤む目。その視線は痛いくらいにぎりぎり、と益田の目を捕らえて離さなかった。近づく長い睫毛、高い鼻、薔薇色の唇、
(え、う、わあ)

「―――っわあああ!!」


汚くて狭い下宿の一部屋で、本日午前十時三十二分、探偵助手を職とする益田龍一・二十六歳はばちりと目を覚まして飛び起きた。
百メートルを全力で駆け抜けた後並に心臓がばくばく波打っている。顔が熱い。顔のみならず体中がほてっている気がして布団から這い出した。冗談抜きに死ぬかと思った。喉はからからに渇いていたからまず益田は水を飲みに台所に立った。
(なんだあれなんだあれなんだあれなんだあれ)

頭はパニック状態である。こんなにどきどきするのは異常なのだろう、がなってしまうものはどうしようもない。水を立て続けに三杯飲み―そして益田はずるずると床に座り込んだ。
熱い吐息酒精の匂い長い睫毛、やわらかな、しっとりとした――
「…っぎゃあああッ」
頭がおかしくなったかと自分で思う。わけがわからない、何であんなにリアルな夢を見なければいけないのだ、しかも何だあの自分の乙女度数は、気持ち悪い気持ち悪い!バアにかかった瀟洒な音楽、―――の端正なスウツの着こなし、しかもあろうことかあの夢の中の彼は実物よりかっこよかった気がする、それにあれは、あんなオジサンの唇があんなに気持ちいいわけないじゃないか、バカだろおまえ、手当たり次第夢に突っ込みを入れまくっていると(何て鮮明な記憶なのだろうか!)、ふとあの言葉が蘇った。
生々しく想起してしまう自分を益田は馬鹿じゃないか馬鹿じゃないか馬鹿じゃないか馬鹿じゃないか馬鹿じゃないかと幾度も罵った。
ふと時計が視界に入ってそこで漸く、探偵助手は時間という概念を知覚する。
只今午前十時四十三分、益田はまたもやギャアアッと喚く羽目になった。

(ああ彼に、ああ彼に、どんな顔で会えばいいのか、というか、どんな顔をして会えるというのだ!)
僕のバカヤロウ神様のバカヤロウ、と益田は心中で口汚く毒づいた。もういっそ休もうかと思ったがそれを思い付いたときにはもう電車に乗っていた。
(というかあの人、見えるんだよな記憶…)
忘却するまで休む?とんでもない、それに記憶というものは、失われることはない、のだそうだ。単にどこかに紛れていったり、取り出せなくなってしまっただけで、残ってはいるらしい。今の益田にとっては何とも都合の悪い話だ。(ぐああどうしよう)いっそもう死にたい、電車のなかにも関わらず頭を抱えて益田は唸った。ぐんぐんと神田は近付いて来た。



世界唯一の探偵・榎木津礼二郎の朝は優雅である、何しろ午後に起きるのだから当然の話だ。陶磁器の肌に朝日を浴びて麗人は睡っている。ぱちり、とその目が開き虚ろに虚空を見たのはいつもと同様昼下がりのことだった。大きな眼が衣服の山を辿り、彫像のような体が緋色の襦袢を脱ぎ捨てる。今日の服装は十分ほどで比較的すんなりと決めることができた。ブラウスにダークスーツ、青のリボンを胸元に結んで革靴を。気まぐれに櫛で髪も梳く。鏡を見ると何だかひどくめかした恰好になっていた。外出する予定も特にないのに。たまにはこう云うのもいいだろう、そう結論づけて榎木津は応接室に繋がる扉を勢い良く開いた。

寝癖をつけたマスカマが和寅に怒られている。
「…―わはははッ愉快だカマがゴキブリに叱られている!しかも今日は随分変な髪だなおまえ―」
記憶が視界になだれこんできた。情報制御は不可能である。展開されてゆく順序もとりとめもない虚像。
それらの渦中で益田がくるりとこちらを向く。和寅が云う。「あぁ起きられましたか先生」「ええええのきづさ、」「本当にバカオロカだなおまえは、僕は榎木津だ、言えないのかカマがッ!」
ひどいですよう、軽薄に嘘泣きをする振りをする男の記憶のなかで、一つ、自分の顔が映ったのが見えた。
「んん?」
「え、うわ、わッ」
目を細めて近づくと遠ざかろうとするので肩を掴んだ。「逃げるな、見せなさい」展開され続ける溢れる記憶、本当に人間の脳は奇驕なものだ。益田の顔が一気に赤く染まった。同時に、情景が揺れるのをやめた。

榎木津は彼の記憶に今の自分と同じ恰好をした己を訝しく思う。訝しく思って、更に顔を近づけて目を懲らす。「…ヒッ、や、」悲鳴じみた声をあげて性懲りなく距離をとろうとする益田をぐいと寄せる。記憶の背景はどうやら何処か、酒場のようだ。自分はなんだか優しく笑んでこちら(益田側)に顔を向けている。
「うっもっもっもうほんと死んじゃいますから離してくださいゆるしてください!お願いします見ないでください、」僕ァもう死んでしまいます―
益田のあげた声は珍しく常の演技がかった哀れっぽいものでもなく、本気で周章狼狽して懇願していた。
でも榎木津は見てしまう、自分の顔が近付いてくる情景。
「―なぁんだお前、」「や、あの自分でもなんて夢を見たんだろうと思います、気持ち悪いですよね、それはわかって、わかってるんですよ、いやそうだ僕あのそう、調査、行かなきゃなんないんですよ、あのですからこれで、ていうかほんとちょっと顔離してくれないですか、」「ごちゃごちゃよく動く口だなあ」
黙りなさい。
益田はそういうとひくっと水を浴びせられたように固まった。唇までは少し近づくだけでよく、実際榎木津はそうした。薄いそこは、思ったよりも柔らかで。掴んだ肩は見かけにまして華奢だった。
「――、な、に」
細い吊り目がぎりぎりまで見開かれてたその初めての表情に、榎木津は出来る限り甘ったるく微笑んで、夢の続きはまた今夜と囁いたのだった。



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