サンクチュアリにて


ふかふかの羽毛蒲団と、いい匂いに包まれて目が覚めた。こんなに深く寝入ったのは久しぶりなような気がした。低く、彼がつけたのであろうラジオからオーケストラが流れている。傍らを見ると、緋襦袢が抜け殻の様に脱ぎ捨てられていた。窓から差し込む、冬の美しい日差しに益田は目を細めた。寝台の白いシーツは日光を照射してまばゆい程だ。榎木津の趣味らしい瀟洒な家具を見るともなく見遣った。
…―本日は十二月二十五日。皆様いかがお過しですか?
第九が途切れアナウンサーが顔を出す。そうか今日は…益田は起きぬけの頭で思う。思いながら、素肌にガウンを巻き付けて寝台を降りた。下着だけしか着けていない。「―榎木津さァん?」とりあえず呼び掛けながら、カーペットの上を歩いて部屋の戸を開けた。暖房が効いた部屋から出ると冷気に体が震えた。それでも、物音がするのを聞き付けて、益田はキッチンに向かう。今日は探偵社は休みで、和寅さんも来ない筈だから、あれは確実に榎木津である。とろとろとした心地でキッチンの戸を開いた。麗人の後ろ姿が見える。「榎木津さん?」
シンクの前で振り返った顔はやはりつくりものみたいに綺麗だった。「お前、バカ、そんな格好で」風邪ひくぞ。顔をしかめて言うのに、なんだかひどく優しい表情で驚く。
「お前昨日終わったらすぐ寝ちゃったなあ」
「そうですかあ?」
「そうだよ」
たわいない会話をしながら、何の作業をしているのかと、益田は彼に近づいた。榎木津は卵を炒っていた。手慣れたような滑らかな動きに再び驚く。気づけばトースターもやわらかな音を立てている。
「榎木津さん料理するんですか」
「まあな」気が向けば。そう、単簡に彼は言った。揺れる髪。目を伏せた横顔。高い鼻梁。何かに似ているなと思って、ああそうだ魔法使いハウルのあのシーンに似ているんだと思い至る。「ベーコン出せ」「、あ、はい」顎で指図されて、何だか嬉しい、新婚とかみたいで。朝の光に塗れてにやけながら、益田は冷蔵庫に向かい扉を開ける。「あとお湯沸いてるからコーヒー入れる」「はい、」ベーコンを持って行って、次に豆を挽いた。卵を皿に盛った榎木津が近付いてきて、インスタントでいいのにと云う。「折角ですからいいでしょう」ふうん、榎木津はいつものようにそう返して、そうして、益田はふと顎を持ち上げられた。唇が重なる。「おはようマスダ」すぐ離し、にっこり笑うさまは文句なしの美男子だ。「お、おはようございます…」挽き器から、挽きかけのコーヒーのえもいえぬ芳香がたちのぼっている。トースターが呆れたみたいに鳴ってパンを吐き出す。


ウールらしいセーターは榎木津によく似合っていた。コーヒーを啜りながらソファで新聞に目を通す姿。ラフな格好なのにバカみたいにかっこいい。なんて。
益田はテレビに目を投じた。画面にはカップルにひしめく東京の街が映っている。榎木津の後ろから肩に手を回してくっついてみる。鼻を彼の髪に埋めるとひどくいい匂いがした。
「何やってるんだ、重いだろうが」「いいじゃないですか、クリスマスなんだし」重さのない柔らかな言葉をかわす。暖かい部屋の中に、さらさらとした時間が落ちていく。「榎木津さん好きです…」「―そういうことは顔を見て言え」思わず口から零れた気持ちを、益田が回収する前に榎木津は言った。「…へへ、」気恥ずかしくなって笑うと、馬鹿マスカマと頭にこつりとげんこつがふってくる。やわらかい戯れ。時間があまりにも恵みを伴って流れていく。かさかさと新聞が鳴り、益田の耳に幸福の音のように名残る。


寝台に引き倒されて気づいた瞬間には唇で贅沢な愛撫を施されていた。触れるだけのキスが顔じゅうに落ちる。榎木津。榎木津。唯一無二のからだの質量。この重さ。このかたち。「どうした泣いて」お腹痛いのか?榎木津の声は睦み合いのときには低くなる。低くなって、声の錆びが増えて、ぐっと艶の増す。涙を堪えて、益田は呻くように言った。ときが、
「ときが、とまればいいと思います、」
「うん」
目尻から流れた涙にすら榎木津は接吻(くちづ)けた。寝台のうえ泳ぐように投げ出された益田の腕を、例えば蝶を留めるみたいに、ぐっと体重をかけて抑える。「えのきづさん」
「ますだ」
前髪が掻き分けられて愛しそうに顔を覗き込まれる。額にくちづけが落ちる。「えのきづ、さん」彼のなまえを呼ぶことが止められなかった。苦しい、こんなにも幸福で、だからこそこんなにも苦しい。「―ますだ」ずるりと衣服越しに彼の脚が益田の脚の上に乗った。重くて、その重さが溜まらなく嬉しいと益田は思う。―「えのきづさ…」「泣くな、ますだ」近くにある。これ以上望むべくもないほど近くに。「ときがとまればいい」湿った息の音を聞くこと。唇の感触を体に染み込ませること。彼の髪の匂いを知ること。それ以上、ああほんとうにそれ以上が、ひつようなんだろうか?ぴたりと身体をくっつける。益田は男で榎木津も男でそれなのに、抱き合うことがこんなにも幸福でならない、世界中で無上の正しいことのようだ。比類ない、揺るぎない。
このまま彼の重さに雨散霧消し一つになってしまえるならそれは幸福そのものだ。「ひとつになりたい」榎木津の唇から零れた言葉だったと思う。もう、判らない。
聖夜にあるまじきせつなさが、聖夜に似つかわしい甘美さで叶えられていく。寝台が愛の重さに耐え兼ねるというように軋んだ。ラジオからは朝とは違う番組の音楽が流れている。音楽の教養なんてひどく浅い益田にでも、その曲名は言い当てることができた。
主よ、人の望みよ喜びよ。


121225




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