永日白夜


※捏造あり






「榎木津さんは」
そこで皮肉げに笑み煙草を吸って
「棄てないでとか云う奴を」
視線を浮かせ少し考えて
「憐憫以外で拾うような人間じゃないすよ」
最後にまたさみしげな道化の笑みを貼った。あおきは同じく煙りをくゆらしながら益田のその変遷委細を眺めていた。
べつに何の言葉を差し挟む権限も無いと承知している。擦った燐寸の側面の傷が気に懸かる。煙草をくわえて、青木は目元を険しくしながら、ただ、
「そう」
と云った。散弾の様だ。
益田は一瞬くっと喉に何か詰まったような表情をしてから、老成したふうに口を歪めて
「えぇ」と顎を引いて頷いた。青木の下宿部屋の窓のさんに尻を乗せた探偵の助手がにやりと笑む。青木の指先が煙草を辿る。ふうん、そう云ったら、益田はふっとまぶしげな、或いは苦しげな表情を浮かべて、「青木さんは偶に」そこからは語調を弱め口早に「似ていますね榎木津さんと」――夜の群青は息苦しかった。むせ返る紫煙が互いの口から肺を詰まらせる。哀しいことに火蓋は切って落とされている。暗闇にほのあかるい益田の煙草の火は、青木には蛍のように見えた。冬の蛍。間違いではなかった、彼は取り残されている。以上も、以下も、なく。煙草の火に集まるなんてつくづく馬鹿な蟲だと自分達を笑った。

(いつも
ねえ、
空は
遠すぎる)


「行くな」…精悍な顔に睨まれていた。益田はいつもどおりへどもどと、こそこそ卑怯者らしく探偵の視線も存在も曖昧にはぐらかしていたはずだった。ひとたびこうなれば蛇に睨まれた蛙で決定権も拒否権ももしかしたら生存権も益田は持ち合わせない。全ての価値は神様が決める。
記憶を見られているのだと判った、その途端心臓が滑るような、胃の腑が絞られるような感覚を益田は覚えた。榎木津に記憶を見られるのが益田は何より辛かった。罪を瀝々と披露している気がする。こわい。実際こわかった。探偵事務所の片隅の壁に追いやられて榎木津の体に逃げ道を塞がれている。出掛けるのだろうか、如何にも仕立てが良い白スーツを着ていた。滅びのときがくるのなら。それはこんな紫の夕焼けの時である気がした。わけもなく恥ずかしかったけれど、わけがないはずはなかった。そのことは益田自身がよくよく承知していた。益田はそっと上目遣いで榎木津の顔色を窺う。その途端燃えるような榛(はしばみ)の眸にばしんと打たれた感覚があった。益田は居心地が悪く、少し体をずらして、目線を窓の方に遣った。
(空は、まるで、燃えるようなムラサキ)
(嵐が、くるよ)
「この」
ぎらりと眸が燃えた気がした。その途端益田はひッと息を呑んでいた。「ごめんなさ、」身を縮めて頭を庇う。前髪が乱れる。
「赦してください」
くちは、
自分のものではないようだった。実際これは彼のものだった。益田はとうの昔から自分のだいたいのものは彼に差し出したいという欲求を抑えられていなかった。全く独りよがりの頭の悪い献身だった。「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、赦してください」
「赦さないよ」
清烈な怒りすら目に秘めて榎木津礼二郎は云った。しかし声は色も無くさらりと耳に抜ける類の調子だった。一瞬空っぽになった益田の臓腑に、探偵はその言葉をじわりと落とし込んだ。
「おまえなんか要らない」
探偵は嘘をつかない。その必要もなく、だから益田は、何も考えられなくなった。頭が動かない。口も。目が開く。
「―ッ、榎木津さ、」
「要らないよ」
繰り返して榎木津はくるりと踵を返した。断罪の二文字が頭に浮かぶ。「―っ」何も考えられず、ただ
痺れたようにうずく腕を益田は彼の腰に伸ばした。翻ったスーツの、その裾を、よわく掴む、ことができた。榎木津が表情に空白を浮かべて振り向く。「あ」涙が出てきた。「ごめんなさ、い、でも、す、」
「すてないで」
お願いです――その自分よりもひどく高い顔を見上げた。縋る。腕を曲げて彼に近づく。益田という存在の榎木津における象徴のように服には皺が寄り、それは世界でいっとう哀しいことに思えた。
「見苦しいな。カマだけあって女々しい」
指はあっという間に振り払われた。
「棄てるも何も僕はおまえを拾ったおぼえはない」
長い足はとても早い速度で遠ざかる。滅びは神様の断罪で齎されるものではなかった、それは神様の不在によるものだった。テンペスト。崩壊、益田はそんなの望んでいなかったけれど、自らの虚無はとうにそれを孕んでいたと確信に近いものを覚えている。窓の外を仰いだ。頬を涙が伝っている。
(空は、まるで、
燃える様なムラサキ
あらしが来るよ

そしていってしまう

いつも、ねえ、そらは遠すぎる)

溺れるようで、しかし、溺れることが出来るならそれは富んだことだと想う。そこには間違いなくみずが、あるのだから。強い薔薇の匂いに骨まで軋むような。その、戀。
――百年、待っていてください。
煙草をくゆらし目を細めた。それは、戀というのだろうか。懸想という詞がまだ近い。そこまで人を乞うるようになってしまう。最早それ自体が、ひとつの罪悪であるように、青木には思えた。
――きみ、戀とは罪悪ですよ。
…あれも漱石だったか。そんなことを考えている。考えながらころもを剥いだ。茫洋とした目で益田は青木を眺めている。むせ返るような、彼らの関係の密度がうざったかった。うざったく、なのに白い膚の上に指を滑らしていた。くちびるをおとす。感情を落とすように。身中に渦巻く感情を、口からその膚に吐くように。憐れみも哀しみも不足して、男はどこまでも寂しかった。癒しえない疵はそれゆえにどこかあだめいて、居た。存在の証明にも、その確固とした疵は似るだろう、その疵をたどって、この男は魂の形を知るのかもしれない。「青木さん」自分は弱く呼ばう声に青木は頭をあげた。「人が来ます、」彼に縋った腕で押し返される。「誰も来ないよ」「来ます、」泣き声に似ていた。青木は煙草を噛んだ。「記憶なんて。そんなの、隠しようもないでしょう、神奈川に帰ったら、如何です、か。いっそ、実家にでも帰ったら」「僕の」親はもういません、ひっそりと益田は云った。青木は鼻を鳴らした。珍しい話ではなく、しかし彼に対してどうしてこう自分が冷徹になりきれるのかわからなかった。「ともかく君はもう居ない方がいいよ、榎木津さんの傍に」「…いや、」「―いやでも、」俯いて仕舞った顔を覗き込んだ。垂れて顔を覆う前髪のそのうちに顔を近づけた。子供を宥めるようだった。「いやでも…」「…あの人の傍じゃない場所で生きて行けると思えないんです、」涙が青木の顔に滴り落ちた。したたかに熱い。これが僕の持ち得ぬ熱だろうか。「そう」青木は溜息をついて云った。ならばどうしようもないと言外に含ませて。益田は震えながら頷く。瘧(おこり)のようだった。「はじめ、あの人の隣なら生きていける気がしたんです、でももう、あの人の傍じゃないと生きていけ、ないんです」
その二つの間の距離がどれほどなのか、近いのか遠いのかも青木にはわからない。しかし、徹頭徹尾、それは彼の望みなのだ。前も今も嘘偽りなくそう思っているのだろう。
「あの人の傍なら、どこまでもいけるような気がしてました、でも、駄目なら、…ここは寒くて、とても寒くて、歩けない…」
ならば熱を零すのをやめればいい、それなのに益田は更に泣きながら云った。だから榎木津は益田を愚かだと云うのだろうと、小さな頭を撫でながら青木は思った。三角に座って泣き出す男はこっけいで、憎めない惨めさがあった。

(動けないのは、
あなただけじゃない)
(君だけじゃないんだ)

空は朝焼けの、紫にこごった。ドアノブは無防備にも開いていた。寝台に横たわる榎木津は聖人の遺体に似た神々しさを放っていて、益田は潜りこませた体をそこまで運んだ。冬の早朝の空気を衣服がしめやかに裂く、音がする。どこか啜り泣きの音にも似ていた。欷歔、というのだったか、あれは。榎木津の傍らに立って、その口許に手を広げた。微かな寝息に安堵した。榎木津さん。えのきづさん。睫毛は瞼の壮麗な額縁にみえる。固くそこを閉ざしたまま、美しい紅のかたちが動いた。
「――戻ってきたのか」
「――はい」
起きて、たんですか。そっと瞼を震わせて榎木津は何でもないことのように云った。
「お前が消えたくらいでぼくが死ぬわけがないだろう」
「え
え―…、」
知ってますよ。
(全て欲しくなる、無樣な火傷)
目を伏せて益田はそっと前髪を揺らした。指を榎木津の顔の上にさまよわせる。息が白かった。榎木津は珍しく何かを決めかねているらしく、茶色く濁った目を滑らせていた。益田は結局その彫像のような手をとった。
「…百年でも待ちます」僕ァ、何度追い出されても、あなたの傍に居ますから、だから…
(ねえ言って)
(ちゃんと言って)
(聞こえない振りをしないで)

(此処に居たいの
私は此処に、居るのよ)

「あなたも、人間なんですね」
榛が弾かれたように覗いた。それからぐしやりと顔が歪められて、指が益田の手を外し、そっと益田の頭を抱き寄せた。
「――…いなさい…」
傍に。
命ずることに馴れた筈の榎木津の声は酷く震えてわなないていた。顔を押し付けられた先の、うわかけ越しの彼の胸は温かく、鼓動すら聞こえる気がした。

(抱いて)
(ちゃんと抱いて)
(このからだに残るように)
(強い力で)
(もう泣かなくて)
(いいように――…)



121112


cocco焼け野が原
夏目漱石夢十夜
自分の抱いている榎益像に正直になってみようと
思って…




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