「――おい!」
 声を掛けられて、自分かと肩を震わせて、下げていた視線をあげると、そこにいたのは―当然のように彼だった。目があって、一秒、
「――幻覚?」
と益田は言った。もう一生直接口を交わすことはないだろうと思っていたが。半袖短パンと、クラスごとに色の違うビブスをその上からかけて、青木文蔵が立っていた。酷く厭そうに顔を歪めている。
「変質者。バスケに選手登録してたんじゃないの」
その手元を眺めれば確かにひらひらと風に靡く紙があった。益田は煙草を手に持ったまま、煙を吐き出す。
「ああ。僕、欠席で」
「ふざけないでくれる、君だけだよ、マジメに参加してないの」
「僕だけならいいじゃないですか別に」
煙草のフィルタに指をあてて視線を逸らし、益田はそう返した。
「はぁ?」
まじめな彼は、その言葉が信じられないとでもいうように目を眇める。
「どっかの誰かさんはそこのトイレでハメてますけど」
「――!?」
色の白い丸顔が微妙に赤く染まっていくのを横目で眺めた。どかん、擬音をつけるならそんな感じだろうか。他人は関係ないだろ、弱くそう言った青木は、漸く見とがめたのか、
「おい、タバコ校則と法律違反だろ」
「…あんたもね」
益田は不愛想にそう返した。
「見ちゃった。こないだ部屋にオジャマしたとき、は・い・ざ・ら」語尾にハートマークがつかんばかりのノリで教えて、そして反応が多分鬱陶しいものだと予想がついたので、また視線を外した。青木は少し固まってから一つため息をついて、そしてまた冷たい口調に戻って言った。
「調子に乗ってあることないこと言わないでくれますか、僕はただ君を呼びにきただけで」
「あ、そ。じゃあ帰って代理たててれば。それとも掘られたいんですか?」
一瞬呆気にとられた顔をしてから意味を把握した彼はまた鬼のようにわめきたて始めた。うっせえな。ああもう、うっせえ、なあ。手元のサンドイッチを投げた。
ビニールに包まれたそれは、意外とコントロールよく飛んで行って、青木の頬にびしゃっ、と当たって落ちた。
「…――っな…っ!」
まともに傷ついた顔は初めて見るものだったので益田は少し溜飲を下げる。頭を掻いて視線を下げながら言った。ついでにタバコも吐き捨てた。
「それあげますからどっかいってくれません」
 気づいた時には胸倉をつかまれてねじりあげられていた。その力の強さにちょっと驚いた。顔が近い。前髪が触れるか触れないか、そんな距離。キスできるかできないか、そんな距離。そう大脳が状況を言語として把握したとき、顔を思い切り殴られた。
びっくりした。
階段に思い切り倒れこんで、尻とか腿の裏とか背中とかが角にあたって痛かった。顔の真ん中とか、口のあたりとかの感覚がない。不快だった。ぬるぬるぬる、肌がそんな粘性の感触を、舌が血の味を感知し始めてようやっと鼻血が出ているのだと気付いた。いたいなあと言おうとしたが、口がじょうずに回らなかった。
「…何考えてんの、きみ」
階段に腕とか足をもたせて倒れこんだ益田の足の方に立って、青木はそう言った。
俯いている為、それと角度的にも表情は分からなかった。ちょっと遠くの方に、投げたサンドイッチが転がっているのが見えた。何だかひしゃげてしまっていた。頭がショックで展開に追いついていない。
「…ほんと、意味わかんないよ」
だんだん頬が腫れてきているのがわかる。着崩した制服から飛び出すパーカーのフードに血が垂れていた。ああこれ白いのになあ。青木の声は何だか聴いたことがないほど掠れていて、益田にはそれがどういう意味なのか図りかねた。彼はそして驚いたことに、逆にゆっくりと益田の上に四つん這いになるように、体を折ってきた。
「なっ――!」
仰天したのは益田の方だ。何となく本能的な恐怖に益田は身をもがく。青木は何だか泣きそうに顔をゆがませていた。鼻の頭があかい。
「ひっどい顔」とそう青木は、益田の顔を覗いて言った。あんたが殴った所為なんだけど? それと同時にああこれならキスできんじゃん、と益田は思う。別にする気は無かったけれど。彼の目をまともに見つめ返した。いざとなればそれしかできない。潤んだ瞳はずいぶんと美しかった。
「殴られなきゃ泣けないなんて、間違ってるよ」
――随分低い声だった。低い声でそれだけ言って、青木は立ち上がった。
何だそれ、と思った。別に泣くつもりはない、もし泣いているとしたら、生理的な現象だろう? 言い返したくて無理やり身を起こした。顔の半分ぐらいの感覚がない。ああもう、彼はかなり全力で殴ったに違いなかった。
青木は一、二歩、こちらを見たまま下がったが、奇妙にも再び足を止めて、束の間そこに佇んだ。どうしてこいつさっさとどっかいかないんだろうと益田は思う。はらり、と花弁のように、その顔から零れ落ちたものがあって、それに今度こそ仰天して益田は動きを止めた。
青木は自分でもぎょっとしたようにそこに手をやった。かつて益田がほじくろうとした目だ。だがやはりあれは欲しがるべきものではなかった、ようだ。益田の為に、そんなことをするなんていじらしい器官は。傷つけようとするべきではなかった。青木はばっと身を翻して階段を下りて行った。駆けていく足音がこだましてだんだん遠ざかる。
益田は多分ひどいことになっているだろう顔の、痛みとか、気持ち悪さとか、そういうのを全部無視して、のそ、と這うように階段を下りた。彼が立っていた踊り場(と言ってもいいのだろうか?)の床までたどり着く。
 一滴の跡がまだ乾かずについていた。益田は四つん這いのままそこを少しの間見つめた。ゆっくりと瞼を落とし、そっとそこにくちびるを落とした。
自分の為に初めて落とされた泪をひどく愛しいと思った。


120823


続くのかなあ
深夜にドバっと殴り書きしたもの




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