殯譚


※グロ注意
※パラレル
※暗すぎる
※続く



びちゃびちゃびちゃびちゃびちゃびちゃびちゃびちゃびちゃびちゃ

死体から血が滴り落ちてシンクにはねる。そのシンクすら、美しいものではない。無数の人間の体液や脂や諸々を浴びて、とうの昔に曇った、不潔なものになっている。持ち主が神経質らしいのかそう目立った汚れは見られないが。細い指に操られたメスが、死体の上を流れるように這い肌に切り込みを入れる度に、ばちゃばちゃと血が溢れ出ていく。作業をする男の表情は前髪で隠れ上手く視認出来ないが、その顔は奇妙にも安らいでいる。死体の性別は男で、だらりと萎びた陰茎が、弛んだ体の中央にぶらさがっていた。凡庸そうな中年の男だった。
解体している方は前掛けに作業着、長靴、ゴム手袋という屠殺場の作業員と変わらないいでたちをしている。
作業台の脇に詰まれた包丁やメス、鋸、薬品、鋏などといった物騒な品々とは対照的に、男は痩せていてそう筋肉もついていなかった。俯いたせいでさらけだされている首から肩の線は痛々しいほどに細い。
男は死体を手慣れた様子で切り開いていった。彼の衣服は血飛沫を浴びて、赤を通り越したどす黒い色にと染まっている。辺りに漂う饐えた匂いも、血のねばつきも、目の前の死体の呈する凄惨かつ醜悪な光景も、何一つ気にかけないというように、その手の動きには躊躇いがない。
内臓を確認し、ゴム手袋を嵌めた手で掴み取り出し、男は、愛しそうにも見える目つきをしながら、血にぬらぬらと光るそれを違う台の上に置いていく。このまま眺めていたなら、いつかはその臓物に接吻してしまうのではないかとさえ思う。
彼は死体の体内を想像を絶する手段と鮮やかな手際で空っぽにした。
次は縫合だった。器用な手つきで肌と肌を再び縫い合わせる。それも終わると、蛇口に繋げた緑のホースで死体を洗った。固まって張り付いてしまった血を、死後硬直を起こした死体の肌から拭いさる。たるんだ肉の襞のあいだ一つ一つをめくりながら丁寧に死体を拭いて――その途中で彼はやっと目を上げ、窓越しに覗く私の存在に気が付いたのだった。


「―…生きた人に会うなんて久しぶりですよ。初めまして。ああ、僕ア益田といいます。まあ見て解るでしょうが、死化粧士です…」
近くで見ると男はまだ若かった。青年といってもいい。しかし、血みどろの格好のまま、濃く死体の臭いを纏い出て来た益田は、一瞥すれば死体のようだった。言葉少なに私は尋ねる。
「生きた人間も、来るんですか、ここ」
「まず来ません。あなたは…生きてるようですね、ええと―」
「青木です」
「そうですか、青木さん」
益田は探るように青木を見る。青木は応じた。
「僕は…来たいと思ってきたわけではない。私は刑事で、犯人に撃たれたんです。気がついたら、こんな…荒涼とした場所にいた。仕方ないから歩いてみていたんです。そうしたら家があったから」
意識したわけではないが、本意ではないのだ、という気持ちが滲んだ、不機嫌な声になった。
益田は感心したように声を上げる。
「へえ、刑事さんですか。じゃあここがどこかは御存じないわけですか」
「…ええ。どうやら、現実ではない場所のようだが……しかし、天国でもなさそうですね」
益田は頷いた。
「天国なんか無いですよ。ここは死者が来る場所です。すべからくのね。いや、しかし、住所はありますよ。他に住んでる人もいます。僕がすべての死体をさばききるわけじゃないですし。ここはまあ…はじの方ですからね。寂れてますが。もっと中央に行けば一応、繁華街みたいなものがあって、食い物屋なんかもありますよ」
ここは何も無いですからね。ご覧のとおり焼け野原のような処ですから。
そこで益田は額を拭う。汗でもかいたのか知れないが、青木にはただ手袋についた血を、額になすりつけるだけの行為に思えた。そのまま、男は俯いて髪を垂らしていた。しかし突然声を上げて、再び話し始めた。
「そういえば聞いたことがある気がしますね。あなたみたいな人、生きてここに来ちゃう人。
街の何処か、役所かな、連れて行けば引き取って、帰して貰えるとか」
「ホントですか!」
青木は思わず声を弾ませる。益田は細い面を再び上げて、ええ、と頷いた。青白い顔だった。
「基本的にここは死人が来る場所ですから。生きた人間はあっちに帰されます。僕、車持ってるんで。時間空いた時にでも連れて行ってあげますよ。良かったらですが」
喜んでと青木は言った。我ながら現金なものだが、益田の血まみれの手を掴んで握手してもいいとさえ思った。
この男、死体を愛しげに裂いている光景は狂人そのままのようだが、話してみると案外愛想のいい、平凡な人間ではないか。益田は普通に笑んでいたが、ふとああいけない、時間が、と言い、「さっきの男に化粧しないといけないんです。失礼します」と告げてまた家の中に入って行った。青木は、少し考えてから益田の後を追う。何と言ったって、彼は現時点で唯一のよすがなのだ。逃げられるわけにはいかない。


「気分悪くなったら出て下さいよ。一応換気扇はつけてますけど、ご覧のとおり殆ど意味はないですから」
部屋に入った青木を取り囲んだのは酷く濃い腐臭と血の臭いだった。職業柄、普通に暮らす人間よりは嗅ぎ慣れているが、やはり辛い。
「あなたは平気なんですか?」
「もう鼻、麻痺しちゃいましてね」
益田は中年の男の顔に筆を走らせながら気安くそう言った。俯いた顔、垂れた前髪。床一面と、壁を染める血。部屋というよりは風呂場か工場のようだ。鼻をつまんで青木は益田に近寄る。彼は男に顔料を塗っていた。女がつけるファンデーションとおぼしきものを、生気を失い白茶けた顔に重ねていく。軽く粉を叩いて、頬や口にも微かな紅色をさしていった。この男で一体何人目なのだろう。手慣れた、淀みのない動きだった。益田は男を抱き起こし丁寧に櫛で髪をすく。もう一度男を寝せて、そっと瞼をつむらせる。
最後に布きれを顔に静かに被せた。
「…終わりです」
振り返り再び益田は笑った。お茶にしましょうか、今日はたまたまクッキーもあるんですが。どうですか。べっとりと体中を血に塗れさせたまま笑う。ぎこちなく笑い返して、青木は良いですね、と言った。


男は普段は二階で生活しているらしかった。通されたキッチンは―狭いながらも湯沸し場と食事のスペースが一応は壁で仕切られている。クリーム色の壁紙と茶のフローリング。一人暮らしの男の部屋らしく殺風景だが、食卓にのった花瓶には枯れかけた花がささっていた。何の花か青木には判らない。家財道具は少ない。シンクには二三枚の皿と鍋が一つ置いてある。テーブルクロスは無地の緑で、椅子は一応二つ置かれているが、一つには埃が溜まっていた。懐からたばこを取り出してから青木は灰皿が置かれていないことに気付いた。益田はたばこは吸わないらしい。いちいち検分まがいのことをしてしまうのは、やはり青木が刑事だからだろうか。益田がシャワーを浴びている音が漏れ聞こえてくる。
ここは死後の世界だと―そのようなことを益田は言った。言ったと思う。ならば、何故あの男は生きているのか。どうして死者の国で普通に生活しているのか。しかもあの口ぶりだと、そのような人間は彼一人ではないらしい。まあいずれ考えても埒はあかない。
もしかしたら。
これは重傷を負い昏睡している自分が見ている夢なのかもしれない。だってふつう、こんなことはありえない。そうだろう。しかしグロテスクな夢を見るものだ。
ふと改めてたばこを見れば、それはいつも青木がすっている銘柄で、しかも、撃たれる前に残っていた本数と一致していた。


風呂から上がった益田は、洗髪料の芳香を漂わせていた。屍臭は未だにする気がするが。もう染み込んでしまっているのだろう。鼻をかすめる甘い匂いはばらだ。女のようだと、青木はぼんやりと思う。
薄いシャツに着替えた益田はますます華奢だ。細い脛がハーフパンツからは覗いている。
「青木さんもシャワー使っていいですよ」ご自由に。
気安く言って、彼は流しの前に立ちやかんに水をいれた。肩にかけたバスタオルで乱雑に伸びた髪を拭いている。換気扇を回し、ガスをつける。
「これは金払ってるんですか」青木のふっと口をついてでた疑問に、益田は
「ええ。水道もガスも電気も通ってます。僕ア毎日、朝に運ばれて来る死体を昼に整えて、夕方の回収でまた渡すんです。そのときに、金ももらえるんです」
「どのくらいなんですか、給料。ぶしつけですが」
「一人で一日暮らせるくらいです」
「計算が簡単でいいですね」
「そうですね」
細い背中を眺めながらだらだらと会話をした。益田があまりにも淡々と話すので、そういうものなのかと納得してしまいそうになる。
「一日に…どのくらい、するんですか」
「多くて三、四人ですね。疲れますし」
「よく―」青木はそこで一度躊躇い、そして「気が狂いませんね」と続けた。
それは益田にとっては予想外の意見だったらしく、驚いたように青木を振り返った。目が合う。沈黙が降り、それは、益田の皮肉げな笑いで終わった。
「―もうとっくに狂っているのかもしれないですけど」
青木は何も言えなかった。禁句だっただろうか。しかし、益田はまた正面に向き直り、何事もなかったように話し続けた。ぺらぺらと。饒舌はその職業には不似合いなのに。
沸いた湯をまほうびんに移し、茶葉を入れたティーポットに注ぐ手の動きは滑らかだった。死体の臓腑を取り出すあの動きと同じ様に。青木はただ彼が紅茶を注ぐのを見ていた。聞きたいことは山ほどあった。だが、この不可思議な男のことがよくわからないから、何をどれほど聞いてもいいものか推し量ることが出来なかった。益田は俯くと前髪が鼻までを隠す。意識して伸ばしているのだろうか。如才なく慣れた手つきで茶を注ぐ益田は薄い、横によくひらく唇をせわしなく動かしていた。
「青木さんはクッキーお好きですか? いや、これね、こないだ町に出た時に貰ったんですよ。男一人暮らしだとあまり食わないじゃないですか、クッキーなんて。あ、青木さんもしかして結婚とかされてるんですか、ならお門違いでしたね」
男はまるで沈黙を恐れるように舌を回す。次第に青木はそのことに気づきつつあった。
テーブルクロスには目立った汚れは見られない。花瓶もまた、地味で安そうなものだった。
「僕はクッキーは嫌いじゃないし、恋人もいませんよ。…この花も、クッキーと一緒に貰ったんですか」
益田はその時、ティーカップに交互に紅茶を注いでいるところだったが―再び呆気に取られた顔をした。青木は密かに、またおかしなことを言ったかと焦る。
「この花は、ずっと前から飾ってありますよ」
「――? だってこれ、枯れかかってるじゃないですか」
「そうですけど」
ティーカップからは湯気が立ち上る。ミルクとか砂糖とか、青木さんは入れますか? そう聞くのと全く同質の自然さでもって益田は言う。
「ここには、生きるとか、時間が過ぎるとかいう概念はありません。ここは、死者のくにですから」
「――はい?」
意味が解らない。あなたの考えていることは大体分かりますよ。益田はそう言いながら椅子を引き青木の向かいに腰をかけた。ティーカップを両手で持ち、何も入れない紅茶を少し啜る。
「この世界には、勿論朝も昼も夜もある。時計も。僕はこうして呼吸し、ものを飲み食いし、寝る。しかしそれは…生きるということとは違うんです。ただ無為の箱庭で、その行為を繰り返しているだけに過ぎない。ここには、生きているものは、あなた以外ない」
「は…? だったらあなたは、何ですか? 幽霊…ですか」
どうも、説明下手なものですみません。僕ア人と話すの久しぶりなもんで、益田は少しはにかんで言う。その表情は全く生きている人間のように自然だ。青木は気味の悪さを覚えている。一体。
“一体この男は何で、この世界は何なのだ?”


120729 文字数が残量ゼロまでいったのはじめてだ




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