カタカタとキーボードを叩く音と、時折雑誌をめくる音だけが響く事務所。時刻は夜六時を回ったところで、波江さんは「仕事がないようなのでお先に失礼するわ」と一言残し昼過ぎには帰ってしまったので、ここには俺と……それから、三十分程前に訪れたシズちゃんが、ソファーで暇を潰しているだけだ。
 シズちゃんが俺の事務所に来て大人しくしてるなんて、と、俺達を知る人間なら驚くだろう。一ヶ月前の俺も信じられなかったと思う。だが、一月前と今とでは俺達の関係は正反対と言えるほど丸っきり変わっていた。殺し合いをする仇敵から、初々しくも甘い空気の恋人、という関係に。
 シズちゃんの告白によって関係が変わってから早三週間。恋人として会うのは三度目だ。昼に届いた『夜そっちに行ってもいいか』という短いメールに『どうぞ』とそれ以上に短く返信して、メールの通りに至って平和的に事務所を訪れたシズちゃんを迎え入れた。
 充分すぎるほど心構えをしていたはずなのに、よう、とどこか恥ずかしそうに挨拶をしたシズちゃんを目前にしたら、俺までどうしたらいいかわからなくなった。わからなくなって、ついうっかり「まだ仕事残ってるから少し待ってて」などと口走ってしまった為、俺は今こうしてシズちゃんの様子をこっそり窺いながらPCに向かっているというわけだ。本当は波江さんが早々に帰宅するくらい暇なのに。バカか。
 仕事が残っているというのも最初から嘘なので、俺が覚悟を決めてこの嘘を終わらせなければ、いつまで経っても終わらないし始まらない。くそ、こんなことなら最初から大人しくシズちゃんとあのむず痒い空気という耐えがたい組み合わせにも立ち向かっておけばよかった。
 しかし今更後悔しても遅い。シズちゃんはソファーに座って暇そうに雑誌をめくっている。暇潰しに買って放置されていた雑誌は、シズちゃんにとっても特に面白いものではないだろう。俺の仕事を待つ間、手持ち無沙汰に読んでいるだけ。シズちゃんは特に興味もない雑誌を大人しく読んでいるのだ。俺の仕事が終わるのを、待ちながら。
 ――なにそれシズちゃんのくせに。思わずキーボードを叩く指が荒くなる。その音の違いを察知したのか、シズちゃんがちらりと視線を寄越したが、気付かないふりで一心不乱にキーボードを叩いている間に視線はまた雑誌に戻っていった。
 いつまでもこうしている訳にはいかない。あまりに急激な関係の変化についていけていないものの、今のシズちゃんは俺の恋人なのだ。恋人がせっかく家に来てるっていうのに、嘘の仕事で時間を無駄にするなんて勿体ない。そうだ、こんなつまらない情報の整理なんか今はしてる場合じゃないだろ折原臨也! シズちゃんは雑誌を眺めながら欠伸を噛み殺している。このままだと退屈で眠ってしまうかもしれない。それはそれで見たい気もするけど……いや、でも俺達まだ付き合ったばっかりだし、今は寝顔を眺めるより恋人という関係に慣れるのが先だ。寝顔はこの先の楽しみにとっておくべきだろう。
 自分の背中を押すようにPCの電源を落とす。意識していない風を装いつつ立ち上がった。若干失敗して椅子がガタンと音を立てたが、それも気にしない。俺の仕事が終わったことを察したらしいシズちゃんが、雑誌を閉じた。

「終わったのか?」
「うん、終わったよ。待たせて悪かったね」
「いや……」

 べつに、とシズちゃんが目を逸らす。やめろそういう初々しい感じ。シズちゃんがそんなんじゃ、俺まで引きずられて恥ずかしくなってくる。普段通りに振る舞おうとする俺の努力を無駄にするつもりか。いつものシズちゃんはどこに行ったんだよ! ……とは言っても、俺たちの関係性が恋人へと名前を変えた今、以前と同じように顔を合わせるだけで殺気立たれてしまってはさすがに俺も傷付かないでもない気がするけど。いやどうだろう。俺もいつものようにナイフを取り出して終わりかもしれない。
 そわそわと落ち着かない様子のシズちゃんの隣に、拳二つ分ほどの距離をあけて腰掛ける。つい一月前までは殺し合いの喧嘩をするような仲で、こうして暴力も暴言もなく顔を合わせるのはまだ三度目。まだキスもしたことがないような清いお付き合いだ。さすがにぴったりくっついて隣に座る度胸はなかった。

「……」
「……」

 気まずくもどこか照れ臭い沈黙が場を支配する。シズちゃんとの付き合いは長いが、考えてみれば暴力もなく嫌味も言わずに会話したことなど数えるほどしかない。俺はシズちゃんの情報をたくさん持っているけど、それはシズちゃんとの会話で得たものではなく、一方的に俺が知っているだけのただの『情報』に過ぎない。残念なことに、俺を相手に暴力も振るわなければキレもしないシズちゃんへの接し方というのは知らなかった。シズちゃんの方も、この沈黙をどう崩そうかとそわそわしているようだ。落ち着きのない様子はこんなに分かりやすいのに、どう振る舞えばいいのかはまったく分からない。恋は人を馬鹿にするというのは本当だったらしい。

「……あー、臨也」
「なに?」

 いつも通りを装って短く答える。声が裏返るんじゃないかと思ったが、杞憂に終わって内心安堵した。とはいえ、この俺がシズちゃんに声をかけられるまで沈黙していたという時点で、いつも通りなど装えていなかったのかもしれない。時に動物的な勘の鋭さを見せるシズちゃんの、恋愛面への鈍さに期待するばかりだ。

「……あのよぉ」
「うん?」
「あのとき、手前、『うん』って言ったろ?」
「……、」

 『あのとき』とは一体いつのことを指してるんだろうか。疑問系も含むのならたった今も『うん』とは言ったけど、多分違うだろう。お付き合いを始める前ならば主語がないよシズちゃん化け物には人間の言葉を扱うのは少し難しかったかな? とでも言ったかもしれないが、今の俺の口からは考える必要もないくらい言い慣れた厭味の数々が飛び出していくことはなかった。代わりに、シズちゃんが言いたいことを少なすぎる言葉から拾い上げようと頭を回転させる。
 俺の頭に引っ掛かったのは、三週間前の会話だった。






◇◇◇






「……で、こんなところまで連れてきて何の用? 人目のないところでゆっくりぶん殴る……って感じでもなさそうだけど」

 池袋での用事を済ませた俺は、シズちゃんに捕まって人気のない路地裏に連れ込まれていた。

 その日もシズちゃんの動向はチェックしていたし、勿論周囲を警戒もしていた。それでもシズちゃんに捕まってしまったのは、腹立たしいことではあるが、シズちゃんが俺を確実に捕まえる為に立てていた策にまんまとはまってしまったと言うほかない。策とも呼べないような単純なものではあったが、引っ掛かってしまった以上あまり馬鹿にも出来ない。
 シズちゃんが俺を捕まえる為にした行動はたった二つ。バーテン服を脱ぐことと、俺に殴りかからないこと、その二つだけだ。
 シズちゃんの目印とも言える金髪とバーテン服の組み合わせは、そのどちらかをなくすだけであっさりと周囲に『平和島静雄』を認識させなくなるらしい。『平和島静雄』の目印を失った人々の目はシズちゃんを捉えることなく、その目撃情報のなさは俺に休日だし家にこもってるんだろう、という安易な発想を抱かせるに至った。
 とはいえ、相手はあのシズちゃんだ。油断すれば痛い目を見る。下手したら痛い目を見るだけでは済まないかもしれない。
 いつも予想外の行動を取り、居ないと思っていた場所にも現れるシズちゃんのことだから、いくら休日で目撃証言がなくても安全とは言い切れない。俺は警戒を怠ったつもりはなかった。
 なかったが、それは第一声より前にポストやら街灯やらをぶん投げてきて、いつもの不機嫌な低い声で怒鳴り付けてくるシズちゃんの話だ。
 ポンポン、と人並みの力で肩を叩かれ、振り向いた途端にでこピンを食らわせてくるシズちゃんの話ではない。
 俺相手に普通に肩を叩いて呼び止めるような真似をシズちゃんがする訳がない! と混乱した一瞬の隙に、でこピンと呼ぶのも躊躇われるような強烈な一撃を額に食らい、眩暈を感じてくらりと身体が傾ぐ前に肩に担がれる。そうして少々人目を浴びつつも、普段の喧嘩よりずっと静かに、俺はシズちゃんに路地裏まで拉致されたのだった。

 まだ痛む額をさすりつつ、シズちゃんを見上げる。街中で肩を叩かれて振り向いたときにも感じたことだが、今日のシズちゃんには驚くほど怒気が感じられない。シズちゃんの大嫌いな俺が池袋に足を踏み入れているにも関わらず、だ。
 それどころか、どこか落ち着かない様子でそわそわしているようにすら見える。何をするつもりなんだ? と俺が眉を顰めてしまう程度には、今日のシズちゃんは挙動不審だった。

「ノミ蟲、……いや、臨也」
「えっ? あ、いや、うん。なに?」

 シズちゃんがいつもの失礼な呼称をわざわざ改めたのに驚いて、思わず聞き返してしまう。それにもシズちゃんは何だよと言わんばかりに視線を寄越すだけだったので、内心にどんどん混乱が広がっていくのを自覚しつつも先を促した。

「一回しか言わねえからよく聞けよ」
「うん?」

 え? 一体何を言うつもりなんだシズちゃんは?
 嫌な予感を感じつつも、俺が対処法を考えることが出来る程度の冷静さを取り戻す前に、シズちゃんは口を開いてしまう。

「お前が好きだ。俺と付き合ってください」
「…………えっ」

 俺はゆっくりと瞬きをした。ゆっくり目を閉じてからまた開いても、シズちゃんはそこに立っている。どんな悪夢かと頬をつねってみても、痛む箇所が額と頬の二ヶ所に増えただけだ。
 不機嫌な低音と怒りと殺意に満ちた怒鳴り声を吐き出すはずの唇から、敬語が飛び出してきたような気がする。いや違う、俺に対して敬語を使うこともかなりの珍事ではあるが、最大の問題点はそこじゃない。その前だ。シズちゃんは何て言った?

 おまえがすきだ。おれとつきあってください。

「…………えっ?」

 数秒かけて、ようやく頭が言葉の意味を理解する。告白の定型文みたいな台詞だな、というのが最初の感想だった。現実逃避だ。そのお決まりの告白台詞を言ったのがシズちゃんでなければ特に動揺することもなく受け止めただろう。そう、問題はそれを言ったのがシズちゃんだということだ。

 定型文みたいな、誤解のしようもないような告白を。
 俺に。
 ……シズちゃんが?

 いや、そんなまさか。ようやく頭の中で点と点が繋がったところで、頭を振って否定する。
 シズちゃんが俺のこと好きだなんて言うはずないじゃん! ハハハ、馬鹿だなぁ俺も。疲れてるのかな? そうだ、疲れてるんだ。だから聞き間違ってしまったに違いない。

「、」

 ねえシズちゃん、俺の聞き間違いだよね? 言いかけて、結局何を言わずに口を閉じる。見上げた先、シズちゃんの仄かに赤く染まった頬と焦れているような強い視線が、聞き間違いなどではないことを証明していた。

「臨也」

 シズちゃんが返事を急かすように名前を呼ぶ。その表情からも声からも余裕のなさが透けて見えるが、それを面白がっていられる状況でもない。
 大体返事なんか決まっている。シズちゃんと付き合う? 何それ有り得ない、気持ち悪い。そもそも今まで散々殺し合いの喧嘩を繰り返してきて、嫌いだ死ね殺してやる等々の言葉をぶつけ合ってきて、それが今更『好きです付き合ってください』? いやいや、どう考えても有り得ないだろ。
 答えは勿論、

「……うん」

 ノーに決まってる! ……あれ?
 しっかりハッキリきっぱりとお断りするはずだった俺の口からは、何故か反対の言葉がこぼれ落ちていた。ご丁寧にしっかり頷くというおまけ付きだ。
 何で頷いてるんだ俺は? 自分から告白しておきながら、まさか俺から素直にイエスの返事が返ってくるとは思わなかったのか、驚いたように目を見開くシズちゃんを見ながら思う。

 そういえば俺、シズちゃんのこと好きなんだった。




◇◇◇





 そうだ。三週間前のあの日、俺は確かに『うん』と言った。半ば無意識だったりしたが、シズちゃんからしてみれば関係のない話だろう。
 シズちゃんに告白された日? と一応確認を取ってみれば、シズちゃんは羞恥からか少々心地悪そうにしながらも頷いた。

「だから……手前が俺のことを好きかどうかは知らねえけど、付き合っても良いとは思ってるってことだろ?」
「うん、そうだね」

 好きじゃなきゃシズちゃんみたいな暴力的で短気で更には今まで殺し合いまでしてきたような仲の男となんか付き合うはずないだろシズちゃんじゃなかったら男なんかごめんなんだよシズちゃんはどう思ってるか知らないけど! と思ったが、つまり手前も俺のこと好きなのかなんて言われたりしたら恥ずかしさと苛立ちと居たたまれなさで爆死しかねないと思ったのでそれは言わずに頷く。
 シズちゃんは俺の複雑な胸の内になど気付くはずもなく、目に見えてソワソワして落ち着かない。
 俺もかなり調子を狂わされているが、こうして落ち着かない様子を見ていると、シズちゃんの方も随分とらしくない態度を取っている。俺を相手にキレていないというだけで既に大分らしくないが、それを抜きにしても、シズちゃんがこのように言い淀んだりするのは珍しい。言葉がうまい方ではないが、シズちゃんはどちらかというと何でもストレートに口にするタイプだ。
 恋人という関係に戸惑って調子を狂わされているのは、シズちゃんも一緒らしいと気付いて少し気が楽になった。シズちゃんが目に見えて落ち着かないこともあって、俺の方は逆にいつもの調子を取り戻し始めている。

「それで、だな……」
「うん。なに?」

 落ち着いてくると、落ち着かないシズちゃんがなんだか可愛く見えてきた。あのシズちゃんが俺に対して、照れて落ち着きをなくしてしまうような、特別な好意に溢れた態度を見せている。それだけで俺は優越感すら感じて、心の奥が満たされてしまう。
 シズちゃんの一挙手一投足に振り回されるというのは複雑な気分ではあるけど、それ自体は、悪い感覚ではなかった。
 俺がそんな風に感じていることなど知りもしないシズちゃんは、照れを誤魔化すように自分の髪をクシャクシャと掻き回した。ふー、と長く息を吐いて顔を上げたシズちゃんは、頬の赤みは残っているものの、何やら覚悟を決めたような表情で俺を見た。

「あー、まどろっこしい聞き方すんのはやめる」
「うん」

 頷くと、シズちゃんが身体を俺の方に向けて座り直した。真っ直ぐにぶつけられる視線の強さに、どくんと心臓が脈打つ。
 嫌な予感がする。嫌な予感と言ったら真剣な顔をしているシズちゃんには悪いかもしれないが、そう表現するのが最も俺の心情に近い。シズちゃんに振り回されるだけでも複雑な気分だというのに、そのせいで冷静さを失う自分など、俺にとっては最悪としか言いようがないのだから。

「手前にとっての、『付き合う』ってのは、どこまでだ?」
「……うん?」

 シズちゃんの言葉に、俺は少しずつ頭の回転が鈍くなるのを感じていた。端的に言えばテンパっていた。
 背中がムズムズする。落ち着かない空気だ。むず痒くて、じわじわ冷静さを奪われるような……こんな空気を作り出しているシズちゃんは、何を言おうとしているのだろう。なんとなく察しがついてしまうだけに、制止したくてたまらない。

「……だから、なんつーか、ハッキリ言うと」
「え」

 待って心の準備が、と口にする間もなく、シズちゃんは照れからか頬をほんのり赤く染めたまま、見られているだけで恥ずかしくなるような熱のこもった目で俺をじっと見つめ……いつのまにか、場の空気が完全に、俺の苦手とするあの柔らかくも痺れるような熱を孕んだものに変わっていることに気が付いた瞬間。

「いざや」

 シズちゃんの唇が動いて、低く掠れた声が、熱を持って囁いた。

「キス、してぇ」
「……!」

 息を呑んだのが先か、一気に頭に血が上ったのが先か。シズちゃんが口にした言葉の意味を理解した瞬間、俺の頭には羞恥と、戸惑いと、それからあまり認めたくはないけど、シズちゃんが俺に対してそういった欲求を感じていたのだという事実に対する歓喜が一気に駆け巡り――。

「……じ、」
「じ……?」





「地面とでもしてれば?」





 あっ、これは終わったな。
 見たこともないような穏やかな笑顔に、見慣れた青筋が浮かぶのを見上げながら、俺は随分と久しぶりに血の気の引く音というのを聞いた。
















「うわぁ、それはまた……随分と酷いこと言ったね。照れ隠しにしても酷い。折角いいムードになったところでそれなんて、静雄もキレて当たり前だよ。僕だってセルティにそんなこと言われたら……いや、アリだな! 女王様みたいなセルティもイイ!」

 シズちゃんが俺の事務所を訪ねてきたあの日から数日後。
 反省と後悔と自己嫌悪でどうしようもなくなった俺は、新羅の家を訪ねていた。セルティが仕事で居ないのは確認済みだ。セルティが在宅であれば話をする間もなく追い返される可能性も高いし、そもそもシズちゃんと仲の良いセルティの前で今回の話など出来るはずもない。
 そういう訳でセルティの留守のタイミングで押し掛け、事の次第を話し終えた直後の新羅のコメントがそれだった。
 一人盛り上がる新羅をじとりと見遣り、出されたコーヒーに口をつける。温くなり始めたコーヒーを一口飲み、放っておいたらいつまでも話を戻しそうもない新羅に向けて口を開いた。

「新羅の性癖には興味ないんだけど」
「僕だって君に性癖を晒す趣味はないよ。僕がすべてをさらけ出すのはセルティにだけだからね!」

 言いながら新羅が自分のコーヒーに口をつける。一息ついて、ようやく話が本題に戻ってきた。

「……話を戻すけど、君達まだキスもしてないんでしょ? あれだけ派手に喧嘩してきて、急に素直になるのが難しいっていうのは分かるけど、今回は全面的に君が悪いよ。静雄もガッカリしてるんじゃない?」

 新羅の言葉がぐさりと胸に刺さる。
 非が俺にあることは重々に自覚していた。シズちゃんは悪いことはしていない。恋人にキスをしたいと言っただけだ。恋人との初めてのキスに夢を見る年頃でもなし、早急すぎるということもない。完全に、恋人に対するものとは思えない言葉を返した俺に非があった。分かっている。
 しかし、俺とシズちゃんの交際をシズちゃんから知らされていたらしい、それどころか時折相談までされていたという新羅の口から改めてそう告げられると、罪悪感や後悔が俺の心に更に深く突き刺さる。

「……言うなよ、分かってるから。俺だって反省してるんだよ……なんであそこであんなこと言っちゃったのかなってさぁ……」
「で、どうだったの? 静雄の反応は。やっぱりキレられた?」

 俺の脳裏にシズちゃんの初めて見るような笑顔が甦る。右手で頭をガッシリ掴まれたときには死を覚悟したが、掴む力はキレているにしては優しすぎる程度のものだった。直後に床に顔面を叩き付けられたけど。
 強打した額と鼻をさする。シズちゃんを怒らせてあの程度だったと考えれば軽すぎる痛みだったが、それでも痛いものは痛かった。

「『手前がしてろ』って俺が床とキスさせられた」
「うわあ。君も大概だけど静雄もなかなか……いや、まあこれは臨也の自業自得かな?」
「うるさい」
「自分から押し掛けてきておいて……。それでその後、静雄と連絡は?」

 また痛いところを突かれた。半分以上コーヒーの残ったカップを眺めながら答える。

「……取ってない。あの後シズちゃん怒って帰っちゃったし、こっちからは連絡取りにくくてさ……あんなこと言っちゃったし……」
「あんなこと言っちゃったからこそ、臨也の方から連絡するべきじゃないかな。本気じゃなかったんだろ? 本気で言ったんなら、それこそ君の方から連絡して二人で相談するべきだと思うけどね。性癖の不一致は離婚や不倫の原因になるって言うし」
「本気じゃないってさっき言っただろ。俺は新羅みたいに変態じゃないんだよ」
「何年も喧嘩し続けてきて、今まで何度も大怪我させられたような相手と付き合うっていうのも、なかなか理解されにくいことだと思うけどね」

 新羅の言い方は少しばかり腹立たしかったが、言っていることはもっともだ。人に話したことでようやく落ち着いて考えられるようになってきたこともあり、とりあえずシズちゃんに連絡を取ろうという方向で俺の意思は固まっていた。

「俺はそろそろ帰るよ。運び屋も帰ってくる頃だろうしね」
「そうしてくれると嬉しいね。セルティとの二人きりの時間を邪魔されるのは耐えられない!」

 いつも通りすぎる新羅を放置して立ち上がる。新羅の頭の中は既にセルティのことでいっぱいなのだろう。新羅の家を出ながらシズちゃんに送るメールの文面を考えている俺も、人のことは言えないかもしれない。















『この間はごめん。本気じゃない。』
『俺も悪かった 怒りすぎた』

 そんな短いメールのやり取りで、俺とシズちゃんの付き合い始めてからは初めての喧嘩は収束した。
 この数日間気が付くとシズちゃんのことを考えていて、波江さんに冷ややかな目で見られた回数は数えきれない。シズちゃんとの喧嘩でこんなに神経を磨り減らせたのは初めてだ。シズちゃんから返ってきたメールを見たときには柄にもなくホッとしてしまった。短すぎるくらいの言葉のやり取りにこうも振り回されるのは、シズちゃんを相手にしているときくらいじゃないだろうか。
 メールで仲直りは出来たが、シズちゃんはきっと基本的には大事なことは直接会って話すべきだと考えているだろうし、今回の件は恋人という関係にヒビが入りかねない事件だった。入りかねないというか、もしかしたら既に手遅れなレベルの亀裂が入ったかもしれない。修復を試みる為にも、近い内に直接会って、改めて本気で言った訳じゃないんだということを説明すべきだろう。そう考えた俺は、即座にシズちゃんと約束を取り付け、シズちゃんの次の休みに合わせて自身の仕事にも休みを入れることにした。
 休みを告げたときには何故か波江さんの冷ややかな視線に晒されたが、それ以外は特に問題なく予定を調整できた。あとは当日までに心の準備を済ませておくだけだ。改めて顔を合わせたらシズちゃんもやっぱ別れようってなるかもしれないし。想像したら何故か心臓がギュウっと苦しくなったが、けしてシズちゃんと別れたくないとか、そういうわけではない。ただ、シズちゃんにフラれたりした日には、俺の全力でもってシズちゃんの生命と幸福と平穏を奪いにかかるだろうなとは思った。




 何事もなく数日が過ぎ、あっという間に迎えた休日。シズちゃんを俺の事務所に呼びつける形になったのは、シズちゃんの部屋でうっかり騒いで男同士の痴情の縺れがご近所さんに響き渡ったりすることがないようにという配慮だ。その点俺の事務所ならお隣さんを心配する必要もないし、仮に階下の住人に知られたとしても全く問題ない。シズちゃんと別れることになったら引っ越す予定だから。
 気まずそうな顔で訪れたシズちゃんを、出来る限りいつも通りの表情をつくって出迎え、ソファーへと促す。「お茶でもいれようか?」と問いかければ「いや、いい」という返事が返ってきたので、俺も覚悟を決めてシズちゃんを追うようにソファーの方へ向かった。L字型のソファーの、シズちゃんが座るのとは別の辺に座ると、コーナー部分を挟んで斜めに向き合う形になる。
 冷蔵庫に入っているプリンを出すべきだろうかと考えたが、謝罪の前に出しては物で釣ろうとしているのかと逆にシズちゃんの不興を買う可能性もある。謝罪を済ませてからだめ押しにプリンでもてなす方が無難だろう。

「シズちゃん」
「……何だよ」
「俺達は話し合うべきだと思うんだ」

 シズちゃんが無言で眉を寄せた。

「何を」
「この間のことだよ」
「あれはもう解決したんじゃねえの」
「メールではお互いにああ言ったけど、シズちゃんだって、あれで完全に解決したとは思ってないんじゃない?」
「……まあな」

 シズちゃんが苦々しい表情で頷く。やっぱり、メールではああ言っていたものの、心底から俺を許せてはいなかったに違いない。それはそうだろうな。シズちゃんが何をとち狂って、今まで散々嫌がらせという言葉では済まされないようなことをし続けてきた俺とお付き合いを始めたのかもよく分からないっていうのに、その俺にあんな対応をされて、表面上とは言え許す気になったことすら不思議なレベルだ。

「……シズちゃんも色々言いたいことはあると思うけど、俺から話していいかな」

 弁解するなら早い方がいい。別れ話をされた後では弁解をする余地もなくなってしまう。
 だが、下手に出ようとした控えめな聞き方が裏目に出たらしい。シズちゃんは首を横に振って、「その前に言いたいことがある」と俺の言葉の続きを遮った。
 言いたいことというのは、十中八九別れ話だろう。そもそも俺とシズちゃんが甘ったるく平穏にお付き合いなんて出来るはずがなかったとはいえ、交際期間約1ヶ月で終了か。その間恋人として会ったのは今日を含めてもたった4回、セックスどころかキスもしないまま別れることになるとは。機会を潰したのは俺自身だったとはいえ、これはきっといずれ起こることだっただろう。シズちゃんの中で何がどうなって俺と付き合うなんてことになったのか知らないが、結局俺とシズちゃんはどこまで行っても合わない。それに気付くのが早いか遅いかというだけの話だ。ただし一時とは言え俺に告白なんかして付き合って振り回してくれた以上、そう簡単に他の誰かと幸せになれると思ったら大間違いだから。
 一瞬の現実逃避を終え、俺は眉間に皺を寄せたシズちゃんに向き直る。その表情は不機嫌そうにも見えるし、何かを耐えるようにも見えた。耐えるのは俺の方だと思うんだけどね。
 「どうぞ」とシズちゃんの言葉を促し、俺は静かに息を吸って呼吸を整えた。シズちゃんが口を開く。

「……手前が、何を言い出すかは分かってるつもりだが」
「うん」

 さすがに別れた後にまで無様に言い訳を並べ立てたりはしないから安心しなよ、と言ってやりたかったが、この静かな口調から察するに、これはシズちゃんの優しさなのかもしれない。反省の気持ちは受け取った、とか、そういうつもりの発言なのかも。そう思った俺は黙って頷くに留めた。苛立つ気力もない今、半端な同情や優しさには傷付くばかりなのだが、シズちゃんはそんなこと気付きもしないだろう。
 告白してきたのはシズちゃんの方だっていうのに、蓋を開けてみれば溺れていたのは俺の方だ。この、シズちゃんの一時の気の迷いを、引きずるのも俺だけ。いつもそうだ。被害者面のシズちゃんに、俺がつけた傷が残ることなどない。身体にも心にも、傷が残るのは俺ばかりだった。だから今回のこれも、いつもと同じことなのに、何故こうも心臓を締め付けるような痛みがあるのだろう。
 無意識の内に視線を落としていた。シズちゃんの表情を見ないように、何を見るでもなく逸らされていた視線が、シズちゃんの指先を捉える。背の高さに比例するように大きな掌は、今は俺を殺そうとするときの暴力的な様子など思い起こさせないほど大人しい。
 この手が、俺に優しく触れることも、もしかしたらあったのだろうか。そんなことを考える自分が滑稽で、視線を上げる。虚勢くらいは張っていたい。そう思って真正面から受け止めた視線が、あまりにも予想と違う色をしていて、思わず身を引いた。

「だけどな、臨也」

 ――なんか……、ギラギラしてない?

「俺が、素直に分かったって別れると思ったら大間違いだ」
「……。……は?」

 シズちゃんの視線の強さに戸惑う暇もなく、放たれた言葉の意味が呑み込めずに眉を寄せた。
 別れ話をされるのはシズちゃんではなくて俺だし、それに頷くのも頷かないのも俺だ。言う予定もつもりもないが、その台詞が放たれるとしたらシズちゃんの口ではなく俺の口からだろう。

「え、何? 予言? 俺そんなこと言わないけど」
「何で手前が言うんだよ。俺だろ、どう考えても」

 『何を言い出すかは分かってるつもりだ』だというあれは、俺の言葉を予測するという前振りだったのだろうか。おそらく違う。
 シズちゃんの様子を見ていると、どうも話が噛み合っていない気がする。

「……一旦、話を整理しよう」
「……そうだな」

 シズちゃんも話が噛み合っていないことに気付いたらしく、冷静に頷いた。相変わらず眉は寄せられたままだが、目のギラギラは薄れている。

「まず確認したいんだけど……シズちゃんは俺が何を言うと思ったの?」
「別れ話だろ?」

 シズちゃんは当たり前のように答えた。何でそんなこと確認すんだよ、と言わんばかりの表情だ。どうしてそうなった? 俺が思わず首を傾げると、シズちゃんも俺が困惑している意味が分からないのか僅かに首を傾げて見せた。身長180センチ越えの成人男性が首傾げてかわいいってどういうことだよ。これも惚れた弱味というやつか。

「俺は、シズちゃんに別れ話をされると思ってたんだけど」
「はあ? ……俺から言い出すように仕向けたつもりだったのか? 言っとくがあの程度で別れるくらいなら最初から手前に告白なんかしてねえぞ」
「そういうつもりでもなかったんだけどね」

 シズちゃんが不機嫌そうに眉を寄せる。

「つまりなんだよ。ハッキリ言え」

 予想していた言葉ではあったが、俺はシズちゃんから目を逸らして天井を仰ぎ見た。
 出来ることなら言いたくない。言いたくないが、俺のハッキリしない物言いに苛立つシズちゃんが、言わずに済ませてくれるとも思えない。俺は覚悟を決めた。

「臨也」
「……だから。俺は、君と別れる気は、なかった……んだけど」

 別れ話をされれば受け入れる気ではあったわけだが、それと自分から別れ話をするつもりがあるのとは全くの別物だろう。そして俺にその気はなかった。
 それ以上口を開く勇気も気力も俺にはなく、またシズちゃんも口を開かないので、防音設備のしっかりした事務所に沈黙が落ちる。

「……」
「……」

 …………なんか言えよ。
 シズちゃんが黙ったままなので、沈黙は続く。耐え切れずに顔ごと逸らしていた視線をシズちゃんの方に向けると、シズちゃんの視線は痛いほどまっすぐ俺に向けられていた。居心地の悪さに身じろぐ。

「別れる気なかったのか」
「二度も言わせないでよ」
「じゃあ、手前には、俺と付き合う気があるってことだな」
「……もう一回言おうか、シズちゃん。二度も、言わせるな」

 これだから嫌だったんだ。シズちゃんにはデリカシーの欠片もない。溜め息を吐いて片手で顔を覆った。

「臨也」
「なに」
「キスは?」

 唐突な問いかけに顔を上げる。
 いつの間に距離を詰めたのか、シズちゃんの顔が思っていたよりずっと近くにあって、近い距離から見上げてくる鋭い目にぎくりとした。離れたいのに、その鋭い目線が動くことを躊躇わせる。

「キスはって、何が」
「付き合う気はあるんだろ。キスは?」

 シズちゃんが何を聞きたいのかを理解し、息が詰まった。頭がぐらぐらする。答えるのに抵抗のある質問ばかりぶつけてくるのは偶然だろうか。故意だったら許せない。
 故意か偶然かはともかく、シズちゃんの真剣な表情を見るに本気でそれを知ろうとして訊ねているのは確かなようだった。あまりにも真剣に見詰められて落ち着かない。シズちゃんに敵意を含まない視線を向けられることには、未だに慣れられていなかった。

「いざや」

 生まれたときから付き合ってきた自分の名前が、どろりと甘い。甘ったるいココアに更に溶け切れないほど砂糖を入れたくらい甘い。マグカップの底に残る、溶け切れなかった砂糖のざらりとした感触すら伝わってくるようだった。

「……本気じゃないって書いたと思うけど?」
「本気じゃないなら何だったんだよ」

 デリカシーのないこの化け物は俺にどこまで説明させる気なんだろうか。
 お互いに殺してやろうとしていたような仲の男を、こうして自宅に迎え入れて、こんな風に近い距離で向かい合っている。しかも冷蔵庫にはそんな男の機嫌を取るためのプリンまで入っているというのに、これ以上何が必要だというのか。

「これ以上、何を言わせたいの?」
「キスしたいって言わせたい」

 言えるか!!!!!
 ぐわっと頭に血が上ってくらくらした。シズちゃんのあまりにもデリカシーの欠けた台詞に言葉も出ない俺を正面から眺め、シズちゃんはにいっと笑う。嫌な予感に背筋がぞくっとした。

「まあ、言わなくてもいいけどな」

 頬を両手で柔らかく挟まれる。
 逃げる間もなく、まっすぐすぎる視線が近付いて、

「その顔色見れば分かる」
「――!!!!」

 反論すら飲み込まれてしまえば、なす術はない。
 














「手前に伺いたてる方がバカだったな。これからは勝手にやることにするわ」
「すけべ! ケダモノ!! 単細胞!!!」
「うるせーよまた塞いでほしいのかノミ蟲くんはよぉー」
「うわっ最低寒っこっち来ないで」
「……よしまともに喋れなくしてやる手前歯ァ食いしばれ」
「すぐ暴力だよこれだからシズちゃんは」
「手前の方こそちょっとは素直になれねえのか」
「俺はいつも素直だよ」
「いつか手前の方からねだらせてやる」
「……変態」








===
以下あたまわるめのおまけ会話文


「ところで、なんで突然告白してきたの?」
「自覚したら黙ってられなかった」
「それも分からないんだよねえ。何で突然? ついこの間まで憎悪100%って感じだったじゃない。きっかけは?」
「……夢に手前が出てきて」
「夢?」
「起きたら手前が俺の家でエプロンつけて朝飯作ってるっつう……」
「へえ……。シズちゃんらしいような、相手が俺という時点ですべて台無しなような……あっ鳥肌」
「それで終わりじゃねえんだよ」
「え? そうなの?」
「俺を起こしに来た手前がおはようのちゅーしてきて」
「おはようのちゅーって……シズちゃんの妄想気持ち悪……」
「ムラッときてベッドに引きずり込んだところで目が覚めたんだけどよ」
「台無しですけど?!!」
「そこで目覚めることねえだろ? あと一時間あればぐちゃぐちゃにしてやったのに……」
「よかった! 目覚めてくれてよかった!」
「あんなの生殺しじゃねえか。朝起きて一人虚しく手前をオカズに抜いた俺の気持ちが分かるか?」
「分からないし分かりたくもない」
「そういう訳で黙ってらんなかったんだけどな。断られたら身体から落とそうと思ってた」
「さらっと言ってるけどそれレイプだよね? もしかして俺にはシズちゃんの告白を断る余地はなかったのかな!?」
「恋人になった以上は大事にしてえし段階を踏んで進んでいきたいと思ってるけどそういう訳であんまり待たされると反動が」
「脅迫?! 今大事にしたいって言ったばっかりなのに舌の根も乾かぬ内に脅迫する?!」
「今回の一件で手前は恋人である以前にノミ蟲だってことを思い出した」
「……俺、選択間違えたかな……」


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