「君、煙草吸うの絵になるよねぇ」

 いつの間にか目覚めていたらしい臨也が、ベッドに頬杖をつきながら上機嫌に笑った。剥き出しの肩には鬱血痕のみならず歯形までくっきりと残されている。あんなところ噛んだか? と思うが、昨夜ひん剥いた時にはなかったものなので、やはり俺が噛んだのだろう。考えてみれば背後から揺さぶる臨也の背中の白さに堪らなくなって噛み付いた気もする。
 開け放った窓からは冷たい朝の空気が入り込んでくる。部屋の中に煙が流れていかないよう、窓の外に向かって煙を吐き出した。灰皿に煙草を押し付け、窓を閉める。

「手前、煙草は嫌いだとか言ってなかったか」

 いつだったか、臨也の寝室で煙草を取り出したときに理屈と皮肉を盛大に交えながら散々文句を言われた覚えがある。

「煙草の煙は嫌いだけど、君が吸ってるところを見るのは悪くない」
「……そうかよ」
「そうだよ」

 何がおかしいのか、臨也は小さく笑う。こうまであからさまに機嫌がいいのは珍しい。余程気分がいいのだろう。原因は思い当たらないが、臨也の機嫌が上下する原因が理解出来ないのはいつものことだった。臨也の思考は複雑で面倒だ。頭が良いせいかぐだぐだと考えて勝手に結論を出す癖に、無理矢理聞き出してみればしょうもないことばかり考えていたりする。理解しようとするだけ無駄なのだ。
 立ち上がって、臨也が寝転ぶベッドに腰掛ける。何気なく白い肩に触れれば、案の定というか、俺がベッドを出たときにはしっかり布団に包んでやったはずの肩はすっかり冷え切っていた。いつから起きていたのか知らないが、身体を冷やさない程度の配慮は出来ないものか。機嫌の良さを表すようにゆらゆら揺れる足も、恐らく肩と同じ程度には冷えているのだろう。冷え性だなんだと言って、普段は寝るときまで靴下を履いているくらい気を遣っている癖に、何故こう不意に無頓着になるのか。

「布団くらい被っとけよ」
「なに、心配してくれてる?」 

 目を細める臨也の頭に乱暴に毛布を被せた。「うわっ」と無防備な声が聞こえて、そのまま毛布越しに頭をくしゃくしゃと撫でる。布団から白い腕が覗き、続いて俺の手を振り払うように毛布から丸い頭が出てきた。雑だ乱暴だと文句を言いながら、乱れた髪を指で梳いて整えている。

「手前冷えるとくっついてくんだろ」
「だってシズちゃん子供体温だからさあ」

 言いながら、臨也は先ほどと同じように頬杖をついて俺を見上げた。楽しげに細められた目が俺の様子を観察するようにじっと向けられる。

「もしかして、俺にくっつかれると何か不都合なことがあるのかな? 散々いろんなことしといて、今更くっつかれるのは気持ち悪いとか言っちゃう?」
「普通に冷てぇんだよ。ほら」

 ベッドに投げ出された臨也の右手を取ると、やはりというべきか、ひんやりと冷たい。頬杖をつく左手も、同じくらい冷えているに違いない。

「やっぱり冷えてんじゃねえか。冷えやすいの分かってんなら、俺で暖取る前に冷えないように気ぃ付けろ」

 俺の家に暖房器具が少ないことは分かっているので、口先だけならともかく、指先や爪先が本当に氷のように冷えてしまっている臨也が俺で暖を取るのをいまいち拒みきれない。ナイフを振り翳さず、俺をキレさせるようなことも言わない臨也には、俺も普段より若干甘くなる。

「……」

 何かしら憎まれ口を叩くだろうと思った臨也が沈黙を保っているので、冷えた白い指先から目を離して視線を臨也の顔に向ける。臨也はむすっとした顔で黙り込んでいた。その頬は何故か仄かに赤く染まっている。

「シズちゃんって、ほんと、時々さぁ……」
「何赤くなってんだ手前」
「なってない!」
「分かった分かった」

 どう見ても赤いが、臨也は赤くなってないと言う。そういうことにしたいならそういうことにしておいてやろう、と珍しく臨也に対して優しさを発揮してやったのに、臨也は「ムカつく!」と枕を俺の背中に叩き付けてきた。

「暴れんな」
「むぐっ」

 叩きつけられた枕を臨也の顔面に押し返す。身体を支えていられなくなった臨也がベッドに仰向けに倒れ込んだ。枕をどけた臨也が下から恨めしげに睨み上げてくるのを無視して、布団から飛び出したままの足に戯れに触れてみる。指先と同じくらいか、もしかしたらそれ以上の冷たさに思わず顔をしかめた。

「冷てぇな」
「ちょっと、くすぐったい」

 足の甲を撫でる俺の指から逃れるように、白い足がシーツを滑っていく。掴まえて体温を移すようにその爪先を包んでやると、温かさを求めてか大人しく手の中に落ち着いた。もう片方の足も、温めろと言わんばかりに手の甲に押し付けられる。ひんやりと冷たい感触を与えてくる臨也の足は、冷えているせいで普段より白く見えることもあって、どこか作り物めいている。外見がいいのは知っているが、爪の先まできれいなのだからこの男は卑怯だ。中身はとんだクソ野郎だというのに、外見ばかり過剰なまでにうつくしい。

「つか手前なんで今日靴下履いてねえんだよ」

 そういえば普段履いているものを履いていないことに気が付いてなんとなしに訊ねてみると、臨也は頬の赤みを増しながら眉をつり上げた。

「シズちゃんが昨日脱がしたんだろ! 舐めたいとか変態くさいこと言って!」
「そうだっけか?」
「ほんと最低だな! 散々噛み痕だらけにしてくれたくせに……」

 文句を言う臨也の脚には、確かに覚えのある噛み痕がちらほらと残されている。そういや脱がした気もするな、と昨夜のことを思い返して納得した。

「手前見てるとなんか噛みたくなるんだよな……」
「それはシズちゃんが獣だからだろ。俺のせいみたいな言い方しないでくれない?」

 心底不本意だという風に臨也が言うが、俺だって誰にでもそんな衝動を感じる訳じゃない。臨也を前にしたときだけだ。臨也にしかそう感じないのだから、やっぱり臨也のせいだろう。臨也のくるぶしにうっすら残る歯形をなぞると、手の中で臨也の足がびくりと跳ねた。

「シズちゃん、」

 咎めるような声で名前を呼ばれる。先ほどよりは若干温かみを増した臨也の足を毛布で包んでやって、ベッドに身体を投げ出したままの臨也に覆い被さるように顔を近付けた。警戒するように僅かに身体を強張らせた臨也に、笑う。人のことを獣だ化け物だと呼んで、こうして覆い被されば警戒するのに、逃げないのは臨也の方だ。笑って、そのまま耳元に唇を寄せる。

「……噛まれんの、好きなくせに」
「――っ!」

 耳朶に息がかかるように声を吹き込んで、ついでにやわく噛みつくと、びくりと臨也の肩が跳ねた。

「っ、誰が! ちょっ、シズちゃん……!」

 下から臨也の両手が俺を押し退けようとぐいぐい押してくるが、仰向けに寝転がる臨也の上に俺がのしかかるように覆い被さっている今の体勢では、押さえつけるまでもない非力な抵抗だ。無視して舌で耳のかたちをなぞるように舐る。途端に臨也の両腕から力が抜け、上擦った声が吐息と共に漏れた。素直な反応に、再び笑みが漏れる。臨也はびっくりするほど耳が弱い。

「手前、ホント耳弱ぇな」
「っ、うるさ……、い」

 ひと通り舐めて噛んで満足したところで、顔を上げて真上から臨也の顔を見下ろすと、すっかり真っ赤になった臨也が涙目で睨みつけてきた。臨也にとっての耳と同じくらい、俺は臨也のこの表情に弱い。弱いというか、臨也がこうして俺の下で、あるいは腕の中で、こんな風に涙に潤んだ瞳で睨むことしか出来なくなっているのを見ると、なんとも言えない気分になる。泣かせてやりたくなるし、もっと嫌がればいいと思うし、その反面、どうしてか優しくしてやりたいとも思う。それらがごちゃ混ぜになって、最終的には『ぶち犯してぇ』、というところにまとまるのだが。
 今日も例に漏れずこのノミ蟲をどうにかしたいという気持ちにまとまり、その気持ちのままに触れるのに邪魔な布団をひっぺがした。突然冷たい空気に晒された臨也は一度ぶるっと身体を震わせたが、噛み痕だらけの身体をなぞるとその動きから俺がその気になったことに気が付いたのか、ぎょっと目を見開いた。こういう関係になって長いというのに、ああして睨めば俺がその気になることを、臨也はいつまで経っても学習しない。

「シズちゃん? まだする気なの?」
「まだって今日は何もしてねえだろ」
「昨夜散々しただろ!」

 引きつった声をあげた臨也が再び手近な武器である枕を取って、俺の顔面に叩きつけてくる。痛みはないが不快にはなったので、取り上げた枕は足元に放り投げて強引に唇を塞いだ。行動を阻むほどではないが鬱陶しくはある抵抗を封じる為、臨也の両手は同じように両手を使ってシーツに押し付ける。絡めた指が温かくなっていることに気が付いて、心配事がひとつ消えたような気分になった。こうして触れる臨也の肌が冷たいと、何故か妙に気になってしまう。
 どうにか抵抗しようともがいていた臨也も、舌を絡める内に大人しくなった。文句は多いし抵抗もするが、臨也も快楽には弱いらしい。気持ち良いことには結局流される。今までの経験上、今日のように休日で予定もない日には多少しつこくしても本気で嫌がられたことはない。本気で嫌がっているときは妥協案を提示してくるか、あるいはもっと本気で抵抗してくる。それをしないということは、流されてもいいと思っているということだ。それでも嫌味や文句を言ってとりあえず抵抗しておかないと気が済まないらしい。渋々受け入れているのだという意思表示なのか、ただ受け入れるのは臨也のプライドが許さないのか。行為の最中に無理矢理押さえつけて揺さぶるとやたらと反応が良いことを思うと、嫌がってるのに無理矢理されるというシチュエーションが好きなだけかもしれない。とんだドMノミ蟲だ。
 それなら期待に応えてやるよ、と声に出さずに思いながら、すっかり抵抗を忘れた臨也の身体を掌で撫でた。






 臨也とこういう関係になったきっかけはなんだっただろう。喧嘩の最中に臨也が突然その気になったことだったような気がする。臨也がなんの気紛れか突然キスしてきて、至近距離で睨み合っていたはずが気付けば互いに何かを奪い合うようにして唇を合わせていた。
 それからは度々、臨也に触れるようになった。睨み合いから、ふと空気が変わったとき。殴ろうとして勢い余って縺れ合うようにして転んだとき。回数を重ねると、最初からそのつもりで人気のないところに引っ張り込むこともあった。その逆に、人気のない場所に誘い込まれることも、三回に一度くらいの頻度で。
 初めは唇を重ねるだけだったのが、その内それだけでは足りなくなった。普段数メートル先を軽やかに逃げていく背中が俺の腕の中にある。確かめるように背中や腰をなぞれば、その身体の薄さにも否応なしに興奮させられた。どんな怪我をさせても澄ました顔で笑っている臨也が、制服越しに背中や腰を撫でるだけでびくりと身体を震わせ、顕著な反応を返してくることにも。
 触れる場所はどんどん増えていって、臨也はどこを触ってもいちいち反応した。何をしても何でもないような顔で笑ってナイフを構えていた折原臨也はどこに行ったのかと思ったほどだ。それでも言葉と表情だけはいつも通りで、しかし震える身体と汗ばんで赤く染まった頬で何を言われても強がりにしか見えなかった。実際、ただの強がりでしかなかっただろう。
 絡み合っている内に捲れ上がったシャツの中に手を突っ込んで、直接その肌に触れたときも、臨也は抵抗しなかった。抵抗しなかったので俺も遠慮せずに撫で回して、臨也はやっぱりびくびく反応して、その内に止まらなくなって最後までやった。臨也が抵抗しなかっただけで、ほとんど強姦と変わらない強引な行為だったと思う。臨也は終始痛みを耐えるように眉を寄せてぎゅっと目を閉じていて、やっとの思いで繋がったときは浅く息をしながら声も漏らさずに泣いていた。俺はといえば、涙を流すところなど想像もしたことがなかった臨也が目の前で泣いているのを見てますます興奮してぐちゃぐちゃにした。我ながら、臨也相手でもさすがに最低だったと思うが、興奮したんだから仕方ない。それぐらい暴力的な光景だった。臨也の赤みがかった瞳からぽろぽろ涙が落ちて、真っ赤な頬を伝っていくのは。
 一度目があれば当然のように二度目があって、しかもその二度目を誘うように挑発してきたのは、確か臨也の方だった。相手が臨也とはいえ、抵抗もしないまま泣くほどの痛みを堪えている人間に興奮して余計に手酷く犯したことはさすがに俺の胸にしこりになって引っ掛かっていて、さてどうしたものかと手を出しかねていたところをいつものように人気のない場所に誘い込まれた。逃げ込んだくせにそれ以上逃げもせずそこに佇んでいた臨也が俺をその気にさせるには、微笑みを湛えて黙って立っているだけで充分だった。いつもの饒舌さも、情欲を誘うような仕種も触れ合いも、何一つ必要ない。いつものような身軽さでもって俺の前から逃げ出さないという、ただそれだけで俺の衝動を爆発させる厄介ないきものなのだ。折原臨也というノミ蟲野郎は。
 二度目三度目と回数を重ねれば、お互いに要領を掴んで、最初ほど酷いことにはならなくなった。更に回数を重ねると、臨也の身体はすっかり受け入れることにも慣れて、身体を重ねる頻度も増えていった。顔を合わせてはいがみ合って、臨也がぺらぺらと淀みなく喋る度に苛立っては殴りかかって、追いかけては時にそのまま情事にもつれ込む。そんな風に、いつかは飽きるだろうと思いながらも同じことを繰り返した。


 そんな関係のまま何年か経ったある日のことだった。寒い冬の日の夜だったと思う。
 家で寛いでいたところに、見知らぬ番号から電話がかかってきた。見覚えのない番号ではあったが、俺はそれが臨也だと半ば確信に近い気持ちで感じていた。

「……はい」
『やあ、シズちゃん。こんばんは』

 電話を耳に当てれば案の定、聞こえてくるのは臨也の挑発的な声で、俺は反射的に携帯を握り潰しそうになるのを堪える羽目になった。

「臨也くんよぉ……俺は手前に番号を教えた覚えはねえんだけどな」
『俺も君から直接聞いた覚えはないなあ』
「じゃあ何で俺の番号知ってんだ? あぁ?」
『君の番号を調べるくらい、俺には朝飯前なんだよ? ……と言いたい所だけど、今回は新羅に聞いたんだよ。恨むなら君の番号を俺に漏らした新羅を恨むんだね』

 笑みを含んだ声は、いつもなら苛立ちを増長させるだけのものであるはずだ。それがそのときは、何故だかいつもと違って聞こえた。その違和感が、苛立ちを霧散させる。

「手前……何で電話なんかかけてきやがった? 今まで電話なんかかけてきたことねえだろ」
『そりゃあねえ。俺がシズちゃんに電話する用事なんてないし、用事もないのに電話をかけるような仲じゃないし』
「じゃあ今日は用があるってのか」

 臨也は電話の向こうでふ、と息を漏らすように笑った。

『……ないよ、そんなの。ただの嫌がらせさ』
「……」

 嘘だ、と思った。
 折原臨也は嘘つきだ。平気な顔で嘘をつくし、嘘をつかないまでも本当のことを言わない。自分自身にすら嘘をついているんじゃないかとさえ思う。そうやって、のらりくらりとその饒舌な言葉の中に本音をすっかり隠してしまうような、そういうところが嫌いだった。嫌いだからこそ、目に付いてしまう。
 だが、電話越しでは分かるものも分からない。どんな顔でそれを言っているのかも見えないし、力尽くで本音を吐かせることすら出来ない。
「手前、今どこに――」


『――くしゅんっ』
「――くしゅんっ」


 電話越しに聞こえたくしゃみが、別の場所からも聞こえた。自慢にもならないが、うちの壁は薄く、防音性に優れているとは言い難い。それは例えば、外に居るノミ蟲のくしゃみが聞こえてしまうほどには。
 まさか、と思いながら、玄関のドアを開ける。
 その日の気温はお世辞にも高いとは言えず、寒さには強い俺もさすがに暖房器具を引っ張り出してこようかと考えるほどだった。そんな寒空の下、ノミ蟲はいつもの薄っぺらいコートを一枚羽織っただけの姿でそこに立っていた。寒さのせいで頬を赤くして、口元を押さえながら、『しまった』という顔で俺を見上げている臨也の姿を、今でも鮮明に覚えている。それでも一瞬の内にいつもの余裕たっぷりな顔に戻った臨也は、わざとらしい仕種で首をかしげて、『入れてくれない?』と笑って見せた。堪らなくなって、細い指先を引っ掴んで部屋の中に引っ張り込んだ。よく覚えている。氷のように冷え切って僅かに震える指先が、微かな力で握り返してきたことも。


 それまではあくまで喧嘩の延長線上にあった行為が、その日をきっかけに独立し始めた。今までは殺し合うような喧嘩から転げ落ちるように触れ合っていたのが、それだけの為に会って、殴ることも刃物を持ち出すこともなく別れるような日も多くなった。喧嘩による互いの昂ぶりをぶつけるような荒い行為ばかりだったのが、比較的乱暴さを潜めていったのもこの頃だった。
 俺は臨也に触れたくなれば臨也の事務所まで出向いたし、臨也の方が俺の家の前で俺を待っていることもあった。俺が訪ねていくと臨也はいつでも事務所に居て、余裕のある態度で俺を出迎えたが、俺の方はそういう訳にもいかない。初めに臨也が訪れた日のような寒い日にまで、臨也はたいして厚着もせずに俺の帰宅を待っているので、見かねて合鍵を渡した。臨也は初めて俺の家を訪れた翌日、身体を冷やしたせいか風邪を引いている。また風邪を拗らせるようなことになったら寝覚めが悪い。
 臨也に部屋の鍵を渡すことについて、不思議と不安はなかった。臨也は自身の中で喧嘩と触れ合いを明確に分けている節がある。触れ合いの延長線で得た合鍵を、殺し合いや嫌がらせのために使うことはしないような気がした。そもそも、その気になれば鍵などなくてもあっさり部屋に侵入できるはずの臨也が、今までそれをしなかったのだ。それが根拠で、理由でもあった。喧嘩や嫌がらせをする為でなく、触れる為に俺の部屋を訪れる臨也が部屋の中で待つには、鍵が必要だったのだろうと思う。物理的な意味以上に、俺が折原臨也に手渡した鍵が。






 そんな風に少しずつ関係を変化させながら、結局俺と臨也の関係は十年近くも続いている。学生時代の気紛れ、あるいは過ちとして早々に飽きるだろうと思っていたのに、随分と長く続いたものだ。

「あー……朝からひどい目にあった」

 朝の運動を終えて、臨也はベッドで喋る死体になっていた。ベッドのシーツも変えて、臨也も今しがたシャワーで身体を清めてきたばかりなので、石鹸の香りのする死体だ。

「いい思いしたの間違いだろ」
「シズちゃんがね……」

 昨日脱ぎ散らかしたままだった衣服は洗濯機に突っ込んだので、臨也には俺の服を着せた。煙草くさいとかサイズが合わないとか散々文句を言うので、もう一回脱がせてやろうか? と笑顔で問いかけたところ黙ってぶんぶん首を振った。最初からそうやって大人しくしてろ。下着は以前臨也が持ち込んだ新品のものがいくつかあったので、そこから引っ張り出してきた。服が汚れる可能性が高いことは最初から分かっているのだから、俺の服を着るのが嫌なら下着だけではなく着替えも一着か二着置いておけばいいのにと思うが、口に出したことはない。俺の服を着て俺の部屋でごろごろしている臨也を見るのは嫌いじゃない。

「あーあ、昔は可愛いところもあったのになあ」

 余った袖口を捲りながら、臨也があからさまに残念そうな声を出した。

「だれが」
「君が。すぐ余裕なくしてがっついちゃって、可愛かったのに」

 いつの間にこんなケダモノになっちゃったんだか、と布団に包まってノミ蟲ならぬ蓑虫になっている臨也はわざとらしくため息をつく。

「手前としかしてねえから、変わったとしたら手前のせいだな」
「……そうやってなんでも俺のせいにするの、よくないよ?」

 呆れたような視線が向けられるが、言葉とは裏腹に僅かながら機嫌が上昇している気がする。相変わらずコイツのツボはよく分からない。
 臨也は蓑虫になったまま満足げに転がっている。俺の部屋で、俺の服を着て、俺の言葉で気分をよくして、俺の布団でごろごろ寛いでいる。こんな状態なのに、『手前は俺のもんか』と聞いたら臨也は違うと答えるのだろう。『俺が化け物のものになんかなると思う?』とかなんとか言って、憎らしい『ノミ蟲』の顔で笑うに違いない。
 組み敷いて揺さぶっている最中は、シズちゃんシズちゃんとうるさいくらい名前を呼んで、動きにくいくらい縋り付いてくるくせに。

「……手前は逆に可愛くなったよなぁ」

 昨夜も、それからつい先ほども見せていた臨也の痴態を思い出して、しみじみと思う。

「……はあ?」

 数秒の沈黙の後、臨也は信じられないものを見るような顔で俺を見上げた。その表情からは困惑が透けて見える。
 この薄っぺらい身体を抱くようになったばかりの頃、臨也はいつも身を硬くしていた。あの頃の臨也が可愛くなかったのかと言えば、俺の腕の中に居るときに限ってはやはり可愛くなかったと言えば嘘になるが、今言いたいのはそこではなく。あの頃の臨也は、触れ合うとき、快楽も痛みも一人で抱え込んで処理しようとするように、いつも身を縮こまらせて耐えていたような気がする。それがいつの間にか、快楽も、ついでに痛みや羞恥も、丸ごと投げ出すみたいに晒すようになっていた。気持ちいいときは蕩けた表情で縋り付いてくるし、痛いときは表情を歪めて泣く。そのまんまの反応を返す臨也は、やはり、あの頃よりずっと可愛くなったと言わざるを得ない。

「可愛くなった」

 確かめるように改めてもう一度繰り返すと、臨也はぽかんと口を開けた。間抜けな顔だなと思って見ていると、見る見るうちにその頬が赤く染まる。あっという間に真っ赤になった臨也がきゅっと唇を噛んだ。

「……シズちゃんって、ほんと……ほんっとに……」
「なんだよ」
「君のそういうとこ、ほんと嫌い……」

 普段ならムカつく言葉だが、赤くなった顔を隠すように丸まる臨也に言われても、苛立つどころか逆の感情がわいてくるばかりだ。普段から何かと優位に立ちたがる臨也のそんな姿に、嗜虐心が刺激される。

「んだよ臨也、手前照れてんのか? 可愛いって言われて?」
「うるさい」
「手前、こういうときはほんと可愛いなぁ」
「君が! らしくないこと言うからだろ!」

 臨也が布団を跳ね上げるようにして勢いよく起き上がって叫んだ。しかし身体が重いのか、あるいは羞恥に耐えかねたのか、しおしおと萎れるようにまた丸くなる。その背中に臨也が跳ね飛ばしたばかりの布団をかけ直してやると、布団の中でもぞもぞと動いた臨也が目元だけを布団から出すようにしてこちらを見た。

「……やっぱり変わったね、シズちゃん」
「ああ?」
「時の流れは偉大だ……とでも言うべきかな」
「……」

 半分以上が布団に隠れていて、臨也の表情は窺えないが、その声音に寂しげな色が混ざっている気がして、眉を寄せた。きっとまたしょうもないことを考えているに違いない。

「さっきも言っただろうが。俺が変わったとしたら手前のせいだ」

 不本意ではあるが、このノミ蟲の一挙手一投足に、俺は反応せずには居られない。そんな相手と何年もこうして同じ時間を過ごせば、否が応にも変わらざるを得ないだろう。そのノミ蟲が、こんな風に変わっていくのなら、尚更。

「……すぐ飽きると思ってたのによ……」

 ぽつりと呟けば、臨也は目を細めてくすりと笑った。

「酷いなぁ。あれからずーっと、俺としかしてないくせに」
「うるせえよ。手前だって俺としかしてねえじゃねえか」
「分かんないよ? 君の知らないところで、他の誰かと同じことをしてるかもしれない」
「してねえだろ」

 確信を持ってそう言うと、臨也はわざわざ布団を引き下げてつまらなそうに口を尖らせて見せた。

「何でそんな自信満々なの、シズちゃん」
「手前が他の誰かのにおいさせてたことねえし」
「なにそれ、嗅覚で判断してんの? シズちゃんってほんと獣みたい」

 嫌そうに眉を寄せる臨也の頬でもつねってやろうかと考えたが、それを察知したらしい臨也が「こわーい」とふざけて布団で顔を隠したので、その気をなくした。すぐに顔を出した臨也が、楽しげに笑う。
 正直に言えば、においだけですべてが分かる訳もない。臨也とは割と頻繁に会っているが、それでも互いの仕事の都合や、臨也の気紛れや悪巧みのせいで長い期間会わなかった時期もある。そういう時期には、さすがに臨也が何をしていても気付けないだろう。
 それでも、確信を持って臨也が俺以外とはしていないと言える。根拠と言えるものは特にない。しいて言うなら、それこそ勘だ。臨也に言えば馬鹿にされるだろうが、それでも俺にとっては何より確実な根拠だった。こういうところが、臨也が俺を獣呼ばわりする所以なのかもしれない。

「けど、合ってんだろ」
「まあ、確かにしてないけど」

 こんなこと、君以外としようとは思わないし、と何気なく口にする臨也は、普段よりどこか気が抜けている気がする。普段の臨也なら、こんなことを素直に口にはしないだろう。不覚にも可愛く見えたノミ蟲の頭を、わざとぐしゃぐしゃに撫で回した。

「……ねえ、」

 抗議しても無駄だと思ったのか、恨めしげな視線をひとつ寄越しただけで黙って髪を整える臨也が、ふと零すように問いかけてくる。

「シズちゃんはさあ……他の誰かを抱こうとは思わなかったの?」
「はあ? んだよ突然」
「だってさぁ、君だって恐がられてるけどモテないわけじゃないし、実際何度か声かけられたことあるでしょ?」
「……」

 何でそんなこと知ってやがる、とは、聞くだけ無駄なのだろう。

「あるにはあるが、全部断った。どうせそれも知ってんだろ」
「断ったことは知ってる。だけど、その理由までは知らない」

 聞きたいのは理由の方だと暗に口にする臨也に、溜息をつきたくなる。そんなこと、言わなくても分かれよ、と思う。なんでしょうもねえことはぐだぐだ考えるくせに、そういうことには頭が回んねえんだよクソノミ蟲。心の中で毒づいて、こんなときばかり物分りの悪いノミ蟲にも分かるように、言葉を探す。

「手前が居るのに、他のヤツ抱く意味もねえだろ」
「どうして? 俺達別に恋人って訳じゃないし、男を抱くより女の子とやったほうがいいだろ」

 手前はそうなのかよ、と意地の悪いことを言いたくなって、飲み込んだ。臨也の身体はすっかり抱かれる方の快楽に慣れていて、そうなるまで執拗に触れて抱いたのは俺だ。その俺がそれを聞くのは、さすがに臨也の矜持を傷付けるだろう。そうなると話がややこしくなりそうだ。

「男だろうが女だろうが、手前より興奮する相手なんか居ねえよ」

 だから手前以外は要らねえ、と素直に口にすれば、臨也は初めてなにかを見た子供のように、きょとんと無防備な顔で目を瞬かせた。しかしそれも一瞬で、俺が瞬きする間に無防備さは消え、どこか気まずそうな顔で眉を寄せている。

「……さっきはすぐ飽きると思ってたとか言ってなかった?」

 合わない視線の先を辿り、臨也がただ俺から目を逸らしているだけだと知る。気まずそうな表情は作り物ではないようだと考えながら、気のせいかうっすら赤く染まっているように見える臨也の頬を眺めながら訂正する。

「飽きるのは、手前の方だろ」

 少なくとも、俺はそう思っていた。

 初めて臨也と身体を繋げたあの日、腕で顔を隠すようにして泣く臨也を見下ろしながら、湿った荒い呼吸を聞きながら、普段よりずっと高い体温を感じながら。臨也を手に入れたような気分になった。今まで怒鳴っても殴ってもぶっ飛ばしても、いつだってへらへら笑っていた折原臨也を、ようやっと掴まえたと思った。
 だが、それは勘違いだったとすぐに分かった。翌日学校で顔を合わせたときには、臨也はもう既にいつものノミ蟲に戻っていて、いつもの顔で俺を挑発して見せた。いつもの、ムカつくノミ蟲野郎の表情で。それを前にして、俺はようやく気が付いた。身体を暴いた程度では、泣かせたくらいでは、折原臨也は手に入らないのだと。臨也にとって、俺と身体を重ねることは俺に殴りかかられることとさほど変わりがなくて、ただ気紛れに受け入れてみただけなのだろう、ということも。
 臨也が何かに気紛れに手を出すのは珍しいことじゃなかった。人でも物でも、臨也が色んなものに手を出したりちょっかいをかけたりしているのを何度も見かけている。ただし、そのほとんどへの興味が長続きしない。気が多い上に飽きっぽいのかよと呆れながら見ていたそれが、まさか自分もその対象に入るなどと考えたこともなかった。
 俺に触れられるのを許容したのも、誘うように受け入れたのも、臨也の気紛れでしかないのなら、今までの気紛れと同じようにすぐ飽きるのだろうと、あの頃は思っていた。
 関係の変容と共に、その認識も少しずつ変わっていったのだが。

「俺が飽きるって? ……君じゃなくて?」
「俺は手前と違って、何にでもすぐ飽きたりしねえ。……そもそも、飽きるとか飽きねえとか、そういうもんじゃねえだろ、こういうのは」

 俺の言葉に、臨也はゆっくりと瞬きをした。

「……君にとって、俺って『そういうの』なんだ?」
「はあ?」

 今更何を言ってるんだこのノミ蟲は。眉を寄せるが、臨也は口に出しただけで答えを求めていなかったようで、俺をじっと眺めてから小さくひとつ溜息を吐いた。

「なんだよ」
「……いや、別に。シズちゃんの厄介なところを改めて思い知らされただけ」
「なんだそりゃ」

 珍しく歯切れの悪い臨也の表情は、複雑そうではあるが悪感情を抱いてるようには見えない。臨也が何を考えているのか分からないのはいつものことなので、特に追及することもしなかった。臨也が考えている複雑で細かくて面倒なすべてを、理解しようと思ったことはない。今目の前で何かを耐えるように口元をむずむずさせている臨也が、たぶん喜んでいるんだろうな、ということが分かるだけで、俺にとっては充分だった。

「……飯にするか」

 充分に眠って、満足いくまで臨也を抱き潰した身体は、素直に空腹を訴えていた。出かける気分にはならないし、そもそも臨也が外出したがらないだろうから、今日は適当に作って食べようと決める。冷蔵庫には何が入っているんだったか、と考えながら立ち上がれば、臨也が「誰かさんが朝っぱらから元気に盛ったせいで、朝ご飯も食べてないのにもうお昼どきだしね」と嫌味ったらしく口にした。じとりと睨み上げてくる視線が何を求めているのか、察することが出来る程度には同じようなやり取りを繰り返している。

「何が食いてえんだよ」
「んー、チャーハンの気分かな」
「材料あったらな」

 背後で臨也が文句を言うのを聞き流し、台所へ向かう。冷蔵庫の中に、臨也がよくリクエストしてくるいくつかのメニューなら作れる材料が揃っていることなど、確認するまでもなく分かっていたが、そんなことをわざわざ教えてやる必要もない。
 俺と臨也の間には似つかわしくないような、甘ったるい空気と、穏やかなやり取り。それを当たり前に受け入れられるようになっても、『手前は俺のもんか』と聞けば、臨也は否定するだろう。『化け物のものになんかなる訳ない』と鼻で笑うのかもしれない。
 俺のものではなくても、臨也は俺に触れることを許している。薄っぺらい身体に触れ、隣で眠り、こうして食事を共にする。
 臨也は、他の誰にもそれを許さない。今までも許していないと言い、そして恐らく、これからもきっと俺以外には許さない。

 臨也が俺のものじゃないとしても。
 臨也が、俺以外の、他の誰のものにもならないなら。

(そんなの、俺のもんだってのと同じだろ)

 臨也が認めようが認めまいが、俺にとっての事実は変わらない。
 そもそも、嘘つきなノミ蟲の否定など、いちいち真に受けていられるか。臨也の否定の言葉は、本心からの拒否でないことの方が多いくらいだ。ベッドの上では特に。
 臨也の口先だけの拒否や否定なんかは重要じゃなかった。このノミ蟲は言葉がうますぎる。嘘も誤魔化しもいくらでも言葉に出来てしまうし、それですべて煙に巻いてしまう。そうやって臨也に振り回されて破滅する人間を、高校時代から散々見てきた。臨也の薄っぺらい言葉ばかりを追いかけるのは、身軽すぎるこの男を捕まえようと思うのならたぶん間違いだ。
 昨夜臨也は俺のベッドに寝転んで、俺が触れることを拒まなかった。揺さぶれば縋るように腕が背中に回って、行為が終われば文句を言いながらも俺の横で眠った。身体中につけた痕にも、昔は散々文句を言ったのに、今では慣れたのか時折苦言を呈すだけだ。この後だって俺が作ったチャーハンを食べて表情を緩ませるだろうし、キスをすればからかうようなことを言いながらも微笑むだろう。臨也自身も知らないようなやわらかい表情で。
 ――やっぱり口先だけじゃねえか、と思う。
 臨也は言葉がうますぎる。言葉を操ることに長けすぎているせいで、ひとつひとつがひらひら軽くて、その軽い言葉に時折織り交ぜられる本音を探し出すのにも苦労する。臨也の表情や仕種の方が、薄っぺらい言葉よりずっと雄弁だ。
 だからそれが、俺にとってのほとんどすべてだ。
 臨也は拒まない。俺以外のものにならない。
 俺は他の誰を見ても臨也以上に興奮することはないし、臨也が訪れる日には臨也の好物の材料を揃え、臨也の為に飯を作る。
 それ以上に何か必要だとは思わない。少なくとも俺は。
 臨也にとっては違うんだろう。口先の否定と誤魔化しを手離そうとしない臨也にとっては。
 好きなだけ誤魔化せばいい。どれだけ誤魔化したって、手前は俺のものだ。いつか臨也が誤魔化し切れなくなって逃げ出したとしても、それでも。

「……そう簡単に逃がすかよ」
「え? ……シズちゃん、何か言った?」

 ベッドでごろごろ寛ぎながら、朝食兼昼食が出来上がるのを待っている臨也が問いかけてくる。

「なんでもねえよ。出来たら運んでやるから、大人しく待ってろ」
「はいはい」

 ぶん殴っても酷い怪我をさせても、俺が抱く欲に気が付いても、挙げ句の果てにはそれをぶつけても。逃げ出さなかったのは臨也の方だ。
 ――今更、逃がせる訳なんかねえんだよなあ。
 まだ逃げ切れるつもりでいる臨也は、のんきな顔で昼食を待っている。






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先に宣言しておきますがたぶん似たような話あと2〜3本書きます

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