すんと少し深めに息を吸うと、古畳の匂いが勘右衛門の鼻孔を擽った。木下は彼など目に入っていないように平然と服を脱いでいる。忍び装束を街行きの着物に着替えるあいだを、勘右衛門はごろりと寝転びながら待っていた。今朝は授業が午前で終わったのだ。
 横目で木下の広い背中を見つめていた勘右衛門は、はたと目を瞬かせた。その右肩から背中に掛けて走る痛々しい傷痕を、彼は初めて見たのだ。あれは新しいものだろうか。腕に残る細かな傷は生物委員で扱う生き物によるものかもしれない。それらを確かめる間も無く、彼の体中に刻まれた地図の様な傷痕たちは地味な色の着物に覆い隠された。視線を感じていたのか、振り向いた木下は訝しげに勘右衛門を見下ろした。
「なんじゃ」
「いいえ、別に」
 誤魔化すように笑った勘右衛門に、ふんと木下は鼻を鳴らした。勘右衛門の考えたことなどとうに見透かされているのかもしれない。まずったなあと耽る間もなく、勘右衛門は大きな足に背中を柔らかく蹴られた。
「美味い店を紹介するんだろう」
「あ、奢ってくれます?」
 畳から起き上がった勘右衛門は愉しげに瞳を輝かせてみせる。木下は厳つい顔をしかめながら懐の財布を確認した。一杯だけだぞというぶっきらぼうな答えだけでずいぶん勘右衛門の気持ちは軽やかになった。





 二人分のざる蕎麦が運ばれてくるなり、外に面した腰掛でずるりと麺を啜った。やはり此処の蕎麦は美味い。無心に食べ続けているところを見ると、木下もどうやら気に入ったようだ。わずかに安心して、勘右衛門はまた蕎麦を喉に通した。そのまましばらくとめどない話をして、木下の低い相槌や笑い声に勘右衛門も頬を緩めた。
 そうして、ふと彼はできるだけさりげない風を装って、先の疑問にも触れることにした。出門表に記名する間も、此処までの道中も、蕎麦を待った間も、他愛ない話をしていたときですらも、彼の頭の片隅にはあの右肩の傷が残っていたのだ。
「最近も、任務などには着かれているのですか」
「儂がそれを言うと思うか」
 ずずと蕎麦を啜りながら木下は苦虫を噛み潰した。怒鳴られなかっただけマシだったのだろう。五年にもなってこんな初歩的な質問を改まってするなど、自分でも情けないことをしたと思う。また彼を失望させたかという思いもある。勘右衛門の箸を運んでいた手は止まった。
「先生、おれ」
「伸びるぞ、勘右衛門」
 窘めるように言われ、勘右衛門は言葉に詰まる。まだ半分以上残っている蕎麦に箸を戻しながら、まだ喉元に抱えたわだかまりは彼を悩ませていた。このわだかまりを、吐きだすまでもないと木下は叱るだろうか。抱えて然るべきものであると律するのだろうか。無闇な憶測は蕎麦を通す喉にさらなるわだかまりを植えつけるばかりだった。
 ふいに、視界が悪くなり、ぼんやり眺めていたそばつゆの黒い水面すらよくうかがえなくなった。
 隣からぐしゃりと前髪を潰されて、勘右衛門は木下の太い指の隙間から彼の表情をうかがおうとした。彼は勘右衛門の思うことなど既に八割方手中に納めているものか、少年の視線に背くように空を見た。
「……心配なぞ、十年早いわ」
 十年後は奢れよと、木下はまた財布を確認した。


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