「また会えるかな、先生」

 卒業の日、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。たとえそれを実際に形にしたとて、どんな意味があるだろうか。
 結局また、困らせるだけだ。思い返してみれば彼を知ってから六年、困らせてばかりだったのだから、何を今更とも言われるかもしれない。それでも、これきりだと思ったのだ。もうきっと会わない。
 ああ先生それでも、後生だから。

忘れないで、ね






 *






「お久しぶりです」
 青年の声に、木下は聞き覚えがあった。また幾らか低くもなって大人びたが、その声のうちにある柔らかさは変わらないようだ。青年の姿をその目に認めるや、木下は団子鼻をふんと鳴らした。
「背だけは伸びたようだな」
「背だけって…先生は、相変わらずっすね」
 太い眉を下げて笑った様子にはやはり、五年の月日を経ても未だ優しさを捨て切れぬ彼の性格が見えた。
「ずいぶん元気にやっておったようだな――竹谷」
「はは、お陰様で」
 軽く肩をすくめて竹谷は、畳に腰を落ち着けた。めっきり蒸し暑いですね、と彼は手のひらで顔を扇ぐ。確かに、そうまで世が憎いかと問いたくなるほどに蝉の五月蝿く鳴く日だった。
「なんか俺って話とか伝わってたんすか?」
「お前はわかりやす過ぎていかんくらいだ。巨大な銀狼を遣う若い忍など、お前以外にあるものか」
「おほー、ちょっとかっけえ」
「ばかもん!忍が目立って良いわけがなかろうが!」
 木下の声は、びりりと木々までをも揺らした。うへえと思わず息を漏らした竹谷に、木下は益々眉を吊り上げた。どうやら容赦の無いことは、卒業しても変わらぬらしい。
「それで、今回はただの顔見せか?そうも仕事が暇なのか?」
「いやいや、だからお陰様で職には困りませんで」
 暇なわけでもないのだと教え子は苦笑した。木下は、胸に薄暗い雲が掛かるのを感じた。ほんの暇つぶしに、彼が訪れただけなら良いと願う気持ちはあった。忍である者の急ぎの用など碌なものが無いのは、この学園に勤めて長い彼もよく知るところであった。
 竹谷は、その顔に柔く広がっていた笑みを消した。蝉の声ばかりが耳に痛い。俺の用件は只一件きり、と彼は畳の目を見た。先に比べて、彼の唇はずいぶんと重い。
「勘右衛門のことです」
 これもまた、五年振りに聞く名だった。懐かしくも、苦くもある。そして、木下も彼も忍だった。竹谷の告げるであろう言葉も、既に予測はついた。恐らくは最も耳にしたくないものだ。いよいよ蝉は、急き立てるようにけたたましく哭き叫んだ。胸の薄暗い塊がどろりと溶け出す。
「――勘右衛門が、どうかしたのか」
「あいつ、ヘマ踏みやがって……もうじきに、息を引き取ると思います」
 唇を噛むようにして竹谷は告げた。俺が知ったときにはもう、遅かった。彼の言葉を胸に砕きながら、どうにも喉がからからに渇いていくのがわかる。木下先生、と竹谷は彼のごつごつとした手を取り、紙きれを渡した。
「ここが今勘右衛門の身を隠している場所です。良ければ――いいや頼みます。どうか最期に、あいつに会ってやってくれませんか」





 *




 ひっそりと佇むそのあばら屋は、やけにしんとして人の気配すらも感じられない。建て付けの悪い古びた戸に手を掛け、ひとつ唾を飲んだ。悪ければ、此処にあるのは彼の亡骸かもしれない。じくりと薄暗い靄が胸に滲んだ。
 小屋の中は、実に簡易な造りだった。光の余り入らない構造で薄暗いが、其処に在ったものが木下の目にはしっかりと映った。
 煎餅布団が一組、おざなりに敷かれている。それだけだった。布団の上は空だったのだ。亡骸は無い。木下が眉をひそめると同時である。ぎい、と先の戸の鳴る音がした。そうして振り向いた木下は今度こそ、目を剥いた。
「……勘右衛門」
「木下、先生…?」
 松葉杖に寄りかかりながら、ぽかんと両の目も口も円くしていたのは、彼の人に間違い無かった。







「確かにヘマはしましたけど、死ぬようなもんじゃあないですよ」
 幽霊でもなんでもないでしょ?そりゃあちょっと、動けないけど。 おどけるように笑って、尾浜はどうやら折れているらしい足を示してみせた。木下は巌のような顔を動かさず、何も言わなかった。
 ううんと尾浜はかぶりを振る。なんでこんなこと、竹谷は。理由は少しだけわからいでもないが、それでも納得はし難かった。
 しかし旧友を責めるより、今は目の前の巌が問題である。ちらと盗み見た顔はやはり頑として譲らぬように押し黙っている。怒っているのだろうか。それとも呆れ果てたか。どちらにせよ自分には芳しくない状況のように思われる。ためいきは自然と重くなった。
「……すみません先生、こんなとこまでわざわざご足労、」
「ばかもん」
 頂いて、とはついに継げなかった。ぎゅうと両腕を圧迫する固さには、覚えがあった。自分の今より小さく更に愚かだった頃、こうして抱き締めてくれたのも、この太い腕だった。尾浜は恐る恐る視線を横にやる。首までは動かせなかったので、木下の顔は伺えない。
「あの……もしかして、心配してくれました?」
「心臓が潰れるかと思ったわ!」
 久しぶりに聞く怒鳴り声は鼓膜をきいんと震わせた。その懐かしさが体にじわりと染み渡るのを感じてから、その台詞を胸に噛み砕くと、勘右衛門ははてと目を瞬かせた。
「先、生?」
 おれは喜んでしまっていいのかな。つい浮かれてしまった心臓は、軽やかな拍を鳴らしている。ああだめだな、もう頬が緩んでいる。
「ありがとうございます」
「何を笑っとるか、バカタレ」






 ***





「上手くいったか?」
「さあ…怒鳴り声は聞こえたけど」
「八左ヱ門の演技も捨てたもんじゃないみたいだな」
「そりゃあこの私がみっちり指導したからな」
「まあ先生もまさか、あの八左ヱ門に嘘がつけるとは思わなんだろうな」
「おい兵助てめえ」


このあと四人もしっかり木下先生のげんこつを頂いたとかそうでないとか

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