小説 | ナノ






 誰が彼を見ただろうか。



 真昼。
 さびれた街角に、少し塩気を含んだ風が吹く。涼しげに風鈴が鳴り、木々がさざめいた。全てお構いなしにセミが喚き立てる。
 誰かの、夏だな、という呟きも何もかも、陽炎につられて空に漂い、消えていく。
 静かだった。音もなく降り注ぐ日差しが全てを焼くようだった。
 ただ、のたのたと歩く御手杵の靴音だけが、アスファルトにこびりつくようにして残っていた。
 手にはいかにもな人工色が輝かしい、安くて人気のソーダアイスがある。それをぺろぺろと舐めながら、御手杵は緩やかな坂道を下る。
 彼はこの道を知らない。そもそもこの街を知らない。どうやって来たかもわかっていなかったけれど、その歩みに迷いのようなものはなかった。先に走る逃げ水を目指すように、彼は自分が行きたいところに行っているだけだ。
 溶けて指をつたい、手首までを汚したアイスの最後のひとかけを一気に口に含み、そのまま飲み込む。のどを焼くような冷たさとドロついた甘みの余韻もなしに、どこかにゴミ箱はないかとあたりを見回す。
 そして、道端にでも捨てるかと手元に残った棒を見て、それが当たりだったことに気がついた。
 少し前に通りかかったコンビニで、買い食いでもしてみるかと思って買った、初めての棒アイス。包装に当たりがどうのと書いてあったが、本当に当たるとは思っていなかった御手杵は、ふふんと小さく笑った。
「なんだ。俺でも当たることがあるんじゃないか……」
 しかしどうするか。確か、この当たりは買ったところでしか引き換えられなかったのでは? わざわざ戻って同じ味を味わいたいと、御手杵は思わない。そもそもこれは、買い食いをしてみたくて買ったのだ。夏の買い食いはアイスだと、そして種類はこのソーダじゃないといけないという思い込みで。
 少し考えて、御手杵は意味のない当たり棒を片手に、また歩き出した。
 真上から少し傾いた日差しが、棒と手を濡らしていたアイスの液を乾かす。
 べたつきを不快に思いながらぷらぷらとしていると、視界の端に子供の集まりを見つけた。公園の入口で座り込み、何かを見ているようだ。
 何も言わずに上から覗きこんでみると、突然出来た影に驚いたのか、子供達が一斉に振り向き、御手杵を見た。
「……何かよう?」
 御手杵はんぁ、と返事をして、子供達に聞いた。
「何でそんなもん見てんだ?」
 子供達が見ていたものは、鳥の死骸だった。カラスに突かれたか、ネコになぶり殺しにでもされたか。ぼろぼろの羽根と骨肉の大きさでなんとか雀だと分かるそれは、ウジもわかないほどカラカラに乾いていた。見ていて楽しいものでもないだろうと、不思議に思ったのだ。
 子供達は、不気味なものを見る顔つきで黙っていたが、御手杵が引かないのを見て、中でも大きな男の子がぼそりと答えた。
「……珍しいから」
 それを聞いて、御手杵はさらに不思議に思った。
「鳥なんてそこら辺で死んでるぞ。特に珍しくもないだろ」
 答えた男の子が、「キモ」と呟いたのをきっかけに、子供達は立ち上がり、我先にとかけ出していった。
 残された御手杵は子供達が去った後を見ていた。そしてすぐに飽きて、死骸をそっと手に取り、公園の中に入った。
 少し見回して、入り口から離れた場所にある大きなイチョウの木陰まで行く。落ちていた枝を広い、しゃがんで穴を掘り始めた。枝で穴を掘るのは難しいということと、木の根はとても固いということを知らなかった御手杵は、木陰が自分から離れるまでのんびりと手を動かしていた。
 やがて出来た穴は小さく、土をかけても、雀の羽根が少し見えた。これではあまりにも不格好だと思ったので、足で踏み固める。しかし羽根がさらにぼろぼろになっただけだった。
「戒名は、当たり、か?」
  持っていたアイスの棒を墓に突き立てる。雀に手を合わせ、そして、どうして自分はこの所作を知っているのだろうと考えた。戒名という言葉だってそうだ。誰に教わったわけでもなく、何かを埋葬したことも、死を悼んだこともないのに。神にも仏にも祈ったことなんてなかった。槍の自分には必要がないことだからだ。
 御手杵は立ち上がって、公園の水飲み場で手を洗った。元来た道に戻って、下りだした。
 歩いている道が大きな道に合流するのが何度か。人通りが増えてきたところで、広告チラシが貼られていた跡で汚れきっている電話ボックスに入った。
 アイスを買った時のお釣りを投入し、指を彷徨わせながら番号を押す。呼び出し音が何度か鳴り、機械音声が流れた。
『ただ今電話にでることができません……ピーっという発信音の後にメッセージを録音して下さい……』
 発信音が鳴り響く。留守電。これもやってみたかったことの一つだ。
「御手杵、です。初めて電話をかけてみました。これでいいのかなぁ。あ、俺、これから自殺するんだ」
 電話ボックスから出て、先程よりもしっかりとした足取りで御手杵は行く。
 下りに下り、日もすっかり暮れた頃、ようやく御手杵は道の終点に辿り着いた。
 暮日で燃える地平線が、どこまでも広がっている。本で見た通りの姿だったので、それが海だとすぐに分かった。
 砂浜に軽く足を踏み入れ、海を見つめる。御手杵は、『輝く海は全ての母であるのだ』と、本に書いてあったのを思い出した。その時に嘘だと思ったことも。
 唇を舐めて潮を感じ、あの時の自分は正しかったと確信した。
 こんなものが俺を産めるものか。持つ手も踏ん張る足も、敵を見る目も叫ぶ口もないのだ。鋼を錆びさせる、ただの塩水だ。
 もしこれが母ならば、俺は生まれることもなく朽ちていた。
 俺たちの、いや、全ての母は、あの業火だ。
 溶かし、焼き、生きるための何もかもを奪う。悲鳴と怒号が生まれて、いずれ消える。
 だからこの世は地獄と呼ばれる。御手杵は、知っていた。
 浜とはこうも歩きにくいものだったのかと驚きつつ、波際を目指す。その途中、またも座り込む子供を見つけた。しかし今度はひとりきりだった。
「どうしたんだ、そんな、一人で」
 声をかけると、子供は御手杵に顔を向けて、睨みつけた。頬に殴られたような痕がある。それと、泣いたような痕も。
「一人でいちゃ悪いの」
 御手杵は小さく笑った。
「いいや。でも、早く帰ったらどうだ。もうすぐ暗くなる。危ないんじゃないか」
 この世がいくら地獄とて、この時代は、御手杵が知っているあの苦しみとは比べ物にならないほど平和だ。子供が海で攫われようと、犯されようと、殺されようとも、平和だった。
 平和な世に、自衛の道具はいらない。この子供もきっと、膝を抱えて閉じこもる自衛の方法しか知らないんだろう。
 だったら家に帰った方がいい。
 そう思って御手杵は忠告してやったのだが、子供はますます縮こまる。
「……家に帰ったら、死ぬからやだ」
 御手杵は、今度ははっきりと笑った。
「なら帰らなくてもいいや。死ぬのは怖いもんな」
 んじゃ、それで。
 御手杵はまた歩いた。子供は居心地悪そうに身を捩って、ふと気になることがあったのか、御手杵を呼び止めた。
「ねぇ、あんたさ、何で汗かいてないの。暑くないの」
 子供は汗だくだった。御手杵は、今まで見かけた人々の全てが、汗をかいていたなぁと思い返した。
 振り返って、笑う。
「俺は生きてないからだよ」
 潮騒がひときわ大きく響く。後ろから子供の声が聞こえるが、今度は止まらず、波に足を踏み入れた。
 ざぶりざぶりと入っていく。足を、腰を、胸を、そして頭まで。なんの躊躇いもなく御手杵は海の中へ沈んでいった。
 誰かあの留守電を聞いただろうか。誰か探しに出かけただろうか。
 なんであれ、縁もゆかりも無い子供だけが、名前も知らない男の消失を見た。それだけが確かだった。

 



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