緊張感の張り詰めた、人の行き交うスタジオの中。ミクは、胸元を押さえながらゆっくりと深呼吸をしていた。

吸って、吐いて。吸って、吐いて。その動作を、何度もゆるく繰り返す。

けれど、それでも思ったようには緊張が取れないでいたミクは、代わりに今の心情をそのまま呟いた。


「うう…、緊張する……」
「大丈夫よ」


そんな彼女の様子に、隣に居た姉のメイコがそっと声を掛けてやる。


「あんたはちゃんと、本番に強いタイプなんだから」


落ち着いた調子で、彼女はミクにそう告げた。――さすが、姉のメイコは場数を踏んでいるだけのことはある。華やかな赤い衣装を身にまとい、堂々とした佇まいでミクの隣に並んでいた。そうして立っているメイコは魅力的で、綺麗だ。

そんなメイコに、ミクはしっかりと頷いた。自分もいつか、姉のようにならなくては。そう、思いながら。

ミクとメイコは、テレビで放送される歌番組の収録に来ていた。ゲストトークなどは後回しということで、先に2人で歌の撮影を行うという手筈なのだ。
今回、ミクとメイコのデュエットである新曲のお披露目ということで、2人揃っての出演である。

その本番直前、スタジオの中で待機している間のこと。堂々と構えているメイコに比べ、ミクはそわそわと、少しばかり落ち着かない様子でその場に居た。

デビューからしばらく経っているものの、彼女はいまだ、収録の現場には慣れてない。

人前に出るのが嫌な訳ではなかったし、歌を唄うのだって、もちろん好きだ。けれどまだ、スタジオで歌を唄うのとはまた別の、独特の緊張感のようなものが取れないでいたのだ。

本人も、このままではいけないと自覚しながら。


「まあ、そのうちに、慣れるわよ」


と、メイコがミクを諭してやる。これも、みんな一度は通った道よ、と。みんな――というのは、ミクよりも前のVOCALOIDたちのことだろう。メイコや他の兄妹たちも、こんな風に悩んだことがあるのだろうか。


「ぼんやりしてたら駄目だけどね。何か、気が紛れるようなことでも少しは考えてみたら?」


まずは、肩の力を抜くのが大事なのよ。そう微笑みながら、メイコがミクにアドバイスをする。


ああ、そうか。と。それに再び頷き、ミクは何か別のことを考えることにした。
何か、気の紛れること。気の紛れること……。

そう言われて、ミクの頭に最初に浮かんだのが、家で留守番をしている兄の顔だった。
仕事に向かう自分を「頑張っておいで」と暖かく送り出してくれた兄のカイト。

兄――とはいえど、本当に血の繋がった家族という訳ではない。ただ姉と呼んで親しんでいるメイコと同様に、これまで本当の家族のように過ごしてきたし、不思議と、そう呼ぶことに違和感がなかったのだ。

そうして、普段は少しばかりシスコン気味で、ちょっと抜けている所もあるけれど、ミクが仕事に向かう時、素直に緊張していることを漏らしてみれば「ミクなら大丈夫だよ」と笑いながら背中を押してくれた。「ていうか、俺がバッチリ応援してるからさ」と、明るく送り出してくれたカイト。

……ああ、そうだ。そういえば、そんな兄は今、家で何をしているのだろうか?
今は時刻は、大体昼間の12時を過ぎている頃。カイトはちゃんと、昼食を食べているだろうか。簡単なもので済ませてないか、など。そんなことを考えつつ。

その時、だった。

隣に居たメイコが、急にはっとした声を上げる。


「ねぇ、ミク?あれ、もしかしてカイトじゃないの?」
「ええっ?」


まさか出てきた単語に、ミクは弾かれるようにメイコに言い返した。


「まさか。お兄ちゃんは、家で留守番してるはずだよ?」


今朝は、事務所に用事があったメイコが先に家を出た。自分が家を最後に出た時に、カイトは何も言っていなかったはずだ。

それどころか、「俺、今日は暇だしテレビでも見てのんびり過ごしてるよ」とか呑気に言っていた兄だ。こんな所に、居るはずが無い。
それはカイトに似ている別の誰かなのでは、と、ミクがそう口を開こうとした時だった。


「いいえ……、あれは間違いなくカイトね」


ひきつったような、しかし確信めいた口調で、メイコはそう告げる。脳裏に疑問符を浮かべながら、ミクもその視線の先に目を向ける、と。

……その姿を見た途端、ミクは驚きを隠せなかった。
ああ、あれは兄だ。間違いなく兄だ。だが、しかし。そう考えた時に、慌てて駆け出していた。


「お、お兄ちゃんっ」


声を掛ける。青い髪に、白いコート。首元には、いつものマフラー。そこに居たのは、確かにカイトだった。


「あ、ミク!」


家で留守番をしていたはずの兄が、目の前で爽やかな笑顔を浮かべている。……が。

その様相が、いつもと違っていた。


「お兄ちゃん?どうしたの、その格好……」
「ああ、暇だったから、俺もミクの応援に来ようと思ってさ」


にっこりと、とカイトが笑ってそう言った。


「やっぱりさ、妹の晴れ舞台の応援には駆け付けないとね」


そう言われて、ミクは思わず頬が赤くなる。

……ええと。お兄ちゃん?


「そうじゃなくて、そういうことじゃなくて」


ミクが赤面しているのには、訳があった。照れていたのではなく(それもあったかもしれないが)、第一に、カイトのその格好が原因だった。

カイトの額には、気合いの入ったハチマキ。そして、その手に持っている無駄に大きなうちわ。

それに大きく書いてある『愛LOVEシスター』の文字と、描かれているのは、ミクの大きなイラストだった。
肩からは、『頑張れ初音ミク』のタスキが。
それはさながら、人気アイドルを応援するファンの姿。ちなみに、そんな浮わついた格好をしているのは、カイト以外に、この場に居ない訳で。

同時に、回りから好奇の視線をひしひしと感じていた。
普段、ファンの人たちが自分の応援のためにそういった格好をして盛り上げてくれることはあったけれども、それを身内がしているというのは、感じる印象がだいぶ違うもので。

もう、異常に、恥ずかしい。


「お、お兄ちゃんっ!帰ってっ、今すぐっ」
「えっ?」


顔から、火が吹くかと思った。わざわざ来てくれたのは嬉しい話だが、こんな兄の姿を、他の誰かに見られたくない。何故だか、見ているこっちが恥ずかしすぎる。しかしカイトの方は呑気に笑いながら、


「まあまあ、良いじゃないか。せっかくなんだし」


そう言って笑っていた。何がせっかくで、何が良いというのだろう?


「わ、私が良くないの!」


カイトには、まるでミクの言いたいことが伝わっていなかった。ただ、その恥ずかしい格好を何とか……そう、告げようとした時だ。


「初音さーん、本番でーす!」


タイミング悪く、自分を呼ぶスタッフの声。い、行かなくては。けれど、最後にどうしても、これだけは伝えないといけない。


「お、お願いだから、居るならそのハチマキとか色々外してよねっ」
「えー?」
「えー、じゃないよっ」
「でも、一生懸命作ったんだぞ?」
「だから、そういうじゃ問題じゃないでしょっ」


悪目立ちしちゃうから止めてっ、と言えば、カイトは回りを見ながら「誰もそんなの気にしてな「見てなくてもっ」」そこまで言えば、カイトは不服そうにしながら、その身に纏っていた変なオプションを外してくれた。

……ああ、良かった。と、ミクは胸を撫で下ろす。

ただでさえ最近のお兄ちゃんは、変なお仕事が舞い込んでいるのだから、これ以上、体裁を勘違いされたら困るのだ。


「それじゃあ私、行ってくるからね?」
「ああ、頑張って行っておいでよ」
「何も、変なことしないでよね」
「変なこと?何だよ、そんなの俺がする訳ないだろう?」


自信満々に言うカイトに、ミクは脱力してしまう。
もう一度だけ兄に釘を差し、ミクは本番の撮影に向かった。

兄は観覧用の客席で見るらしく、どうしても気になって最後にチラリと視線を向けると、何と回りに居た人達に話掛けていた。よくよく耳を澄ませてみると、『あの子、初音ミクっていうんですよ。どうです?最近デビューしたばっかりなんですけど、可愛いでしょう?』とか何とか回りに言い広めていて。

……あああ……、何もしないでって言ったのに……!


「初音さん?どうしました?」
「い、いえ、何でもないんです」


セットの確認をしていたスタッフの人に、不思議な顔をされてしまった。その横では、メイコが呆れるように笑っていた。







「昔は、ミクの方がカイトにべた惚れだったじゃないの」
「変な言い方はしないでよ、お姉ちゃん」


無事、撮影が滞りなく終わった後の控え室。帰る準備を早めに終わらせたミクが、メイコの控え室にやって来た時のことだった。
先ほどのカイトの話をしていたら、話が思わぬ方向に行きかけて、慌てて修正をする。


「そりゃあ、昔は私の方がベタベタしてたけど、今ではお兄ちゃんの方が、私にベッタリしてる気がする」


ため息を吐く。

ミクがこうして過剰に反応するのには訳があった。実は度々、今日と似たようなことがあったのだ。

メイコの言う通り。昔は自分の方がカイトに甘えていた。けれどカイトの方も、昔はあんな風なシスコンじゃあなかったはずだ。
もう少しだけ格好良くて、今よりも、もうちょっとだけ、頼り甲斐のある兄なはずだった。

先ほどの、カイトの姿を思い出す。

……それがどうして、あんな風になってしまったんだろう?

「だけど、あんたの緊張は飛んでいって良かったじゃないの」
「それは……あんなの見たら緊張どころじゃないよ」

何かこう、もっと別の片鱗を見つつある、ような。

メイコが、そんなミクを見て笑っていた。

「まあ、それならあいつも、願ったり叶ったりってことじゃないの?あんたも、随分と緊張していたみたいだしね」

そんな姉の発言に引っ掛かりを覚えて、ミクは首を傾げた。

「どういうこと?」
「あれが、あいつなりの応援だってことよ」
「うーん、あの格好はちょっとなあ」
「そうじゃなくて、あいつがわざわざあんなことするなんて」
「……わざとやってるって、こと?」


どういうことだろうか。姉の発言がいまいち飲み込めなくて、首を傾げる。


「……違うと思うよ。あれは何ていうか――」

そこまで言ってから、先ほどのメイコの「あんたの緊張は飛んでいって良かったじゃないの」という言葉を思い出した。いいや、まさか。
私が緊張してるって言ったから――それを、忘れさせるために?

かぶりを振る。

「だけど、リンちゃんやレンくんも居て、私はもう立派なお姉さんだよ?昔みたいに、もう、甘えたりする訳にはいかないもの」

そう。昔は自分も泣き虫で、よくお兄ちゃんに泣き付いてた。けれど今じゃもう、そんなことはないのに。言えば、お姉ちゃんが、苦笑いを浮かべていた。


「それが、寂しくもあるんでしょうね」
「……え?」


それって、どういう意味だろう。


「あいつも、素直じゃないから」

その言葉にはどこか呆れたようなニュアンスが含まれていたのだが、今のミクにはすべて伝わってはいなかった。目の前の机に置かれた、紙コップに口を付ける。緑茶の味が、余計に渋く感じる。

「でも、あれはさすがに止めて欲しいよ」

だから、お兄ちゃんも最近はリンちゃんとレンくんにからかわれるんだ。

そんな兄の威厳を取り戻そうと考えるのだけど、そうする為にはどうしたら良いのか。

(まず、私がお兄ちゃんから離れた方が早いんじゃ――)

そんな答えが頭を過ってから、首を振った。

ううん、それはやっぱり出来そうにない。何故かと言われたら、それは私が、お兄ちゃんのことを――

「……お姉ちゃん。私、重症なのかもしれない」

そう言えば、メイコは「そんなの、知ってるわよ」と笑いながら可愛い妹の頬をつねって遊ぶのであった。



2010/06/16
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