船の中に戻った遊作は、未だ意気消沈しているわらしの肩を抱いて火鳥の模様が掲げられた部屋に連れ込んだ。柔らかいシーツの上に座らせる。家族部屋における他の三部屋と違い、ここはダブルベッドであるがゆえに二人でも窮屈ではなかった。 わらしは備え付けのティッシュで濡れた頬を拭うが、それでも涙は後から後から零れてきた。
「なんで……あんなことに……っ、クレア…」
目を真っ赤にして泣き続けるわらしを見ていられなくて、遊作は「少し…休もう」とわらし共々ベッドに横たわる。 真っ白なシーツの中で、遊作自身休息が必要だと感じていた。今日は今まで以上に色々あった。あり過ぎた。しばらく何も考えずに眠りたい。
「んっ……ふ、…っく……うぅ…」
腕の中でしゃくり上げるわらしをきつく抱きしめながら、遊作は目を閉じた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
二人が眠りについてから数時間後。一人目を覚ました遊作は、サイドテーブルに備え付けの時計から今が真夜中であることを知った。隣を見れば、わらしが疲れた様子で深く眠り込んでいる。 少し苦しそうにしている服を緩めてやり、そっとベッドから抜け出した。洗面台で顔を洗う。鏡に映った表情は自分でも酷いものだと思った。
(人のことは言えないな…)
遊作もわらしも、疲労は限界である。それは肉体的にも精神的にも。どちらかと言えば後者の方が強いだろう。早くこの船の謎を解決しなければ二人の未来には希望がない。その為にヘンリーを追い、ウィリアムと対峙してきたというのだが。
(……。ダメだ、)
考えれば考えればクレアのことが頭をよぎり、その先に進むことを拒んでしまう。もしもこの先今まで以上に残酷なことが待ち構えていたら? 自分たちは間違った方向に進んでいるのでは? そもそも、本当にこの謎を解くことができるのか? 真相に迫れば更に残酷な真実を突き付けられる。ネガティブ思考が離れなかった。
(全ての元凶はあの赤い石…、あれのせいだ。だがウィリアムは既に所有者ではない。あの石は今恐らくヘンリーの手の中にある…)
クレアの過去からここに戻ってくるまでの過程を思い出し、遊作は増々気が重くなった。 夕焼けの平原で、二人はクレアの残した青い石を拾うと船の中に戻ってきた。オーナー室ではウィリアムは既に息絶えており、腹部から血を流した老人の遺体は目を開けたまま椅子にもたれ掛かっていた。遊作とわらしをクレアの過去に送り込んだ直後に亡くなったのだと思われる。 床にはウィリアムの手から滑り落ちた水晶が粉々に砕け散り、いびつなかけらが散乱していた。もはやそこに何かが映ることはなく、もう一度やり直すことも叶わない。誰に何を望もうともクレアの過去は確定してしまった。ヒットマンの男いわく、“呪われた血”は既に過去に失われていたのだ。
(…、そういえば、エミリアはどうしている)
森炎のプレート模様が掲げられた部屋にいた、ウィリアムの娘であるエミリア。彼女のことを唐突に思い出した遊作は彼女に会いに行くことにした。真夜中だが幽霊に時間は関係ないはずだ。 寝室にわらしを残したまま、遊作は静かに火鳥の部屋を出た。斜め向かいの部屋に入る。扉をくぐってすぐの部屋に座っていたエミリアの影が、遊作の訪問に顔を上げた。一人で現れた遊作を見ると何かを悟ったのか、彼女の方から話しかけてきた。
『父は……死にましたか……』 「…あぁ」 『そう……きっと満足した最後ではなかったんでしょうね…でも仕方がないことです。父は、それだけのことをしてきたのですから…』 「………」 『ではそろそろ私も……』
そう言って、静かに泡となって消える。残った紫色の球体に触れてみたが何も起こらない。やはりこれはわらしでなければどうにかできるものではないらしい。その原理は未だもって不明なのだが。 球体をその場に残し、続いて遊作が向かったのはオーナー室だった。中の様子は数時間前に出た時と変わらず、中央の椅子にはウィリアムが息を引き取った状態で今もそこにいる。砕けた水晶はそのまま。体から流れていた血液は変色して固まっていた。 やや鉄臭いにおいが鼻をくすぐり、そこに遺体があるのだということを思い知らされる。できることならこれ以上の関りは避けたい。遊作とて慣れていないのだ。 そんな居たたまれない気持ちになりながら、それでも遊作はウィリアムの周辺を調べた。考えた通りならば、彼こそが遊作たちが次に進む為の何らかの手掛かりを持っているはずである。ヘンリーに繋がる何かを。
「これは…」
ウィリアムの遺体の横でまず目に入ったのは、テーブルに置かれた小さな鍵である。手に取ればタグに「機関室」と書いてある。部屋を出る時には急いでいて気付かなかったが、やはり彼はこれを残していた。船の最深部、ヘンリーの待つ機関室へと続く扉の鍵を。 遊作は鍵をポケットにしまうと、無残にも命を奪われた老人を前に控えめに眉を下げた。いくら数多の命を奪って来た独裁者とはいえ、死んでしまえばそれまで。死者を冒涜するつもりはない。何より、遊作とわらしが最後にこの男に会った時……彼はもはや非常な殺人者ではなかった。赤い石を奪われたことによって、本来の自分を取り戻していたのだ。
(あの時のウィリアムは……ただの人間だ)
赤い石によって運命を弄ばれてしまった、彼もまた犠牲者の一人である…。
部屋に戻ると、わらしは目を覚ましていた。ベッドに横たわったまま、遊作に背を向けている。
「……目が覚めたのか」
遊作が声を掛けると、振り向かないまま沈んだ声で返事をした。
「うん…」 「……」
それ以上何も言わないわらしの心情を察して、遊作は後ろからベッドに潜り込む。腕の中に閉じ込めると、わらしは静かに心の内を吐露し始めた。
「クレアのこと思い出すとね……色々と考えちゃうの。もしもあの時、違う行動を取ってたら助けられたのかな…もっと違う方法があったのかなって…」
消え入るような声から、わらしの気持ちが痛い程伝わってくる。
「…俺たちが過去に飛ぶ前から、きっとクレアの運命は決まっていたんだ」 「本当に? クレアが殺されちゃうのが運命だったんなら、それを変える為に私たちがこの世界に呼ばれたんじゃないの? オスカーは、『これでやっと運命は変わる』って言ってたよ?」 「それは…」 「そうじゃなきゃ、私が呼ばれた意味って、何…?」
きゅっとシーツを握り締める手に力がこもる。クレアを目の前で亡くし、目的を見失った状態である。「やり直せたら良いのに…」今のわらしの願いはそれに尽きるばかりだった。 そんなわらしに遊作は黙って寄り添う。
「わらしが望むなら、時間が許す限りやり直せる方法を一緒に探そう。最後まで付き合う」 「遊作くん…」 「だがそれが無理だとわかった時には…、諦めてくれ。クレアのことは残念だが、ずっとこの世界に留まる訳にはいかない。俺は現実世界に戻って、そこでわらしと生きたい」 「…うん」
遊作の言葉に静かに同意する。わらし自身、今更やり直せる方法など存在しないことはわかっている。遊作の言葉の正当性も理解している。ただ、気持ちがついていかずに心が折れてしまっていた。 それでも最後まで自分に付き合ってくれるという遊作に感謝の言葉を述べた。
「ありがとう、遊作くん」 「……起きるにはまだ早い。もう少し休もう」
遊作の腕に顔を埋めると、わらしは目を閉じた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
朝になって、目を覚ましたわらしに遊作が「どうする?」問いかけた。
「クレアのことはつらいけど…先に進もうと思う」 「いいのか?」 「うん…。もう、何をしたって元には戻らないんだって、わかってるから…」 「…そうか」
わらしは浮かない表情だが、一晩経って気持ちの整理はついたらしい。遊作の問いに躊躇いながらもそう答えた。
「前に進むよ…。それが、クレアの残してくれた道だから」
ジャックが使っていた部屋を出た二人は、エミリアの部屋で球体を回収した後クレアの部屋に寄った。最後にもう一度、心優しい少女の姿をその目に焼き付ける為に。 父の肩の上で楽しそうに笑う子どものエミリアの写真を前にして様々な思いを募らせる。彼女に対する親愛の情、どんな時でも感心させられた彼女の持つ心の強さ、そして敬意と懺悔。
「あなたを守れなくて、ごめんなさい…」
わらしが呟き、遊作が目を伏せた。クレアのことはついぞ助けることは出来なかったが、彼女の意思は必ず成し遂げる。 完全体となった青い石を握り締め、二人は頷き合った。
「行こう、ヘンリーが待つところへ」 「うん…」
家族部屋通路を出ると、遊作が「機関室に向かう前に霊媒師に会いに行く」と言った。
「また…あの人のところに行くの?」 「…青い石について聞きたいことがある。答えるかどうかはわからないが」 「そうだよね…。あの球体もまた揃ってるし」
わらしがエミリアの残した球体に触れた時、球体は泡となって消えたが、なぜわらしが触ると消えるのかは未だ理由がわからない。青い石の謎も残る。 これ以上予備の聖水が必要かといえば何とも言えないが、なんとなく渡した方が良い気がして、二人は太陽の紋章の前に立った。機関室の扉からほど近い、船員食堂のところである。 彗星の本を掲げれば、奇妙な浮遊感の後あっという間に霊媒師の男のいる塔へとやってきた。 男はお馴染みの台詞で二人を出迎えると、わらしを見るなり「…ご苦労だったね、もうこれで十分だ」と言った。
「十分って…どういう意味ですか?」 「言葉の通りだよ。私が欲しかっただけのエネルギーが手に入ったんだ。あの船にあっただけのエネルギーがね」 「じゃぁ、船で亡くなった人の魂は全員解放されたってこと…?」 「石に直接関係ない人間の分はね」 「…ウィリアムの魂は成仏していない」 「あぁ、そこらへんのことは僕の管轄外だ。純粋でない球体は専門じゃないんでね」 「………」
二人が黙ると男は「さぁ、それをこちらに」と言ってわらしの体に宿る球体を要求してきた。わらしが頷くと、ゆっくりと男の元へと導かれていく。今更だが、本当にこの男にこの球体を渡しても良かったのだろうか。
「もう一つ聞きたいことがある。俺たちは、お前に渡された青い石がクレアの持つものだと思っていた。しかしクレアはヘンリーから受け取った石を持っていた。ということは、俺がお前から渡された石はクレアが持っていたものとは別物…半分とはいえ、一体どこから入手したものだ?」
遊作が尋ねると、男は両掌を見せて肩を竦める仕草をした。大したこととも思っていない様子だ。
「どこから入手したものか、か…。そうだね、そもそも、君たちは疑問に思ったことはなかったかい? 私が何故こんなものを集めているのか…」 「何…?」
男の頭上には今しがたわらしから受け取った紫色の球体が浮いている。それが水晶から発せられた強い光を吸収すると、唐突に淡く光り出す。紫がかった光球。いくつもの球体が重なり、高密度のエネルギーを溜め込んでいるようにも見える。
「フフフ……」
男の笑い声にわらしは無意識に警戒心を引き上げた。
「何故って……そんなの、聞いたって何も教えてはくれなかったじゃないですか…」
呟けば、男は口元に弧を描いて笑った。
「今までは、ね。だがこれで条件は揃った。見せてあげよう、その答えを…」
そう言って男は両掌を自身の前で上に向ける。霊媒師の両隣の柱に置かれた水晶から新たに白い光がそれぞれ飛び出して、男の周囲をくるくると回り出した。始めはゆっくりと、しかし次第にスピードを増していく円運動に遊作も表情を硬くして成り行きを見守る。
「一体何を…」 「さぁ、その目に焼き付けるが良い!」
男が声高に叫ぶと同時に、強いエネルギーの干渉を受けて紫色の球体が新しい姿へと生まれ変わる。稲妻のような火花が散り、白い筋が伸びる。二つの球体に挟まれた球体は紫から赤へとその色を変えた。二人が追っているあの石を連想させる赤色に。それはすなわち…
「これこそ奇跡の石! 運命をねじ曲げ、持つものの望みをかなえる! 呪われた至宝!! 魔の紅石だ!!!」 「!」 「なっ…!?」
二つの球体が割れるようにして空気中に霧散すると、赤い球体もその薄い膜が砕け散り、中から赤い石が付いたナイフが現れた。ウィリアムが所有し、ヘンリーが奪い去ったと思われるあのナイフだ。それが今、霊媒師の男の手元にある。 遊作とわらしは驚愕を隠せない表情でナイフに見入っていた。
「何故……お前がそれを…!」 「もしかして、あの紫色の球体を集めていたのって、その為に…!?」
糾弾するような二人の呟きを聞き流し、男は笑いながら片手を差し出して言った。
「…この石は君たちのものだ」 「どういう意味だ!?」 「言葉のままだよ。数々の難題を乗り越え、全ての球体を揃えた君たちにこそこの石は相応しい」 「…!」 「だが今はまだ渡せない。もう一つの紅石……君たちとあの石の運命が終わる時……その時に……また会おう……」 「またって、…」
わらしが呟きかけた時。霊媒師の男は赤い石の付いたナイフごと、その場から姿を消した。
「え…!?」
そして次の瞬間には遊作とわらしもまた、男のいた空間から弾き飛ばされたのだった。
「……どういう…こと? 今のは……」
気付いた時には船の中に戻っていた遊作とわらし。霊媒師がいた天文台では、二人が状況を理解する間もなく話が進み、そして再び船の中に戻って来てしまった。 問題は何も解決していない。むしろ、聞きたいことは余計に増えていた。
「…、全ての元凶はあの男だったのか…?」
混乱する頭で何とか状況を整理しようと試みて、遊作が言葉を紡ぐ。
「俺たちはあの赤い石が人を狂わせる元凶だと思っていたが、そもそも、あの石の出どころはどこだ?」 「えっと……それはどういう?」 「…あの石は昔からこの世界にあったのだろうか。石は歴史上何度も姿を現しては消えている…それは本に書いてあった通りだ。ここは人と精霊が入り混じる世界だから、多少不思議な力があったとしても今更驚きはしない。だが…俺の考えが正しければ、あの石の誕生には確実にあの男が関与している」
遊作の断定的な口調にわらしの表情も曇る。
「さっき見たナイフに付いてた石って、やっぱりあの赤い石で間違いないんだよね? あんな、人の運命を狂わせちゃうような石で…」 「あぁ。恐らくわらしから受け取った紫色の球体を原料として生成したんだ」 「そんな…。それなら、あれは渡すべきじゃなかったのかも…」
やはり男に球体を渡したのは間違いだったか。わらしは後悔した。あの男の胡散臭さは最初から感じていた。 しかし球体を渡していなかったら聖水は手に入らなかったので、今更とやかく言えることでもない。 遊作は顎に手を当てながら「赤い石を生み出したあの男は何者なんだ…?」と呟いた。
「少なくとも、人間でないことは確かだろうな」 「でも、精霊でもない気がする…」 「そうなのか?」 「あ、ええと、ラーイみたいに精霊の気配がわかるっていう訳じゃないんだけど、何となく…もっと別の感じがして…」 「この世界には、人と精霊以外にも何か混じってる可能性はあるな。現段階では推測に過ぎないが」 「うん…。あと、これも推測なんだけど、もしかしてその青い石もあの人が作ったのかな。赤い石と青い石は対だって言ってたから…」
わらしの指摘を受けて遊作は枠に嵌められた青い石を取り出した。今や完全体となったそれは神秘的な輝きを見せて二人を魅了している。美しい石は、二人にとって、そしてそれを託したヘンリーやクレアにとっても最後の希望となるはずである。
「……もし、これを作ったのもあの霊媒師の男だったとして、あの男は一体何がしたかったんだ…? 人の運命を破滅させるのがあの男の目的だったら、必要ないはずだが…」 「んー…確かに。でも、今の私たちはこれに頼るしかないよね。これだけが赤い石を止められるっていうんだから」 「…、それで、ヘンリーの持つ石を無力化した後、俺たちにまた赤い石を渡すのか?」 「あ…」
わらしは黙ってしまった。船の中を進む遊作とわらしの手助けをしてくれるのかと思えば、破滅を導く赤い石を渡そうとしてくる男の意図が全く読めない。彼は一体何の目的があって二人に関わっているのか。この船のことはどう思っているのか。 男の持つ力の一端を垣間見たとはいえ、その思考は増々常識から離れていく。理解できるはずがなかった。
「……どんな提案をされようと、あの石は受け取るべきではないな」
遊作が零した言葉に続き、わらしが小さく「賛成」と呟いた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
左舷連絡通路から機関室への入口にやって来た二人は、鍵が掛かった扉を前に改めてマップを広げた。
「この先は機関室だ。まずはボイラー室Aに入る」 「いよいよだね」 「あぁ。…機関室Aへはボイラー室Aから行けるが、通路が途切れているせいで燃料倉庫にはいけない。船首に向かう必要があれば、機関室A、船尾軸路、機関室B、ボイラー室Bを経由して燃料倉庫を通るしかないな」
実は右舷連絡通路から機関室へと通じる扉はあるのだが、二人が持っている鍵では開かなかった。どちらの通路から船底に降りても最初に辿り着くのはボイラー室で、中の通路こそ差異があるもののこの空間が船内で左右対称の造りになっている。またボイラー室A、Bからそれぞれ船尾に向かって機関室A、Bが繋がり、この部屋も左右対称である。そこからさらに船尾に向かえば、船尾軸路で機関室A、Bは合流し、左舷連絡通路から機関室に入ったとしても反対側のボイラー室Bには行くことができる。 ボイラー室Bからは船首に向かって燃料倉庫、船底倉庫と続くが、燃料倉庫に繋がっているのはボイラー室Aも同じである。ただこちらはやはり通路の関係で左舷連絡通路に戻ることはできない。 燃料倉庫から船底倉庫に続く扉は二つあるが、どちらを通っても一周すれば元の位置に戻ってくる。船底倉庫の先にももう一部屋あるようだが、これにはマップには何も書いてなかった。
「ちょっと複雑そう……道間違えたら戻らなきゃいけないんだよね」 「そう大した距離もないだろう。それより、ヘンリーの動向が気になる。奴は赤い石が付いたナイフを持っている。何をしてくるのかわからない。警戒を強めて行こう」 「うん…」
遊作の言葉に頷くと、わらしは気を引き締めた。最低限の地図を頭の中に収め、ボイラー室Aへと続く扉のノブを捻る。中は薄暗く、左側に向かって狭い階段が続いているだけだった。 遊作とわらしは緊張気味に足を運び、階段を降り切ったところで壁に貼られたポスターに気付いた。二枚ある。一枚は船底全体のマップに何やら鍵やバルブの位置が示されたもの。もう一枚には、赤い字でこう書いてあった。
「非常灯点灯時に注意事項」 ボイラー稼働中にピストンがロックされると加圧状態となり危険である。万一、異常が発生した場合は全ブロックに非常灯が点灯する。作業員は冷静に対処すること。
「……非常灯」 「まるで点灯させろと言わんばかりの説明だな」
遊作は少し呆れ気味に呟いた。これだけ船の中で過ごして来たのだ。光の重要性は嫌と言う程思い知らされた。 同時に、あまりにも堂々としたフラグに、まさか本当にただの説明なのではないかと疑ってしまったくらいだ。
「…方法はさておき。今はまだ、ボイラーは稼働していないな?」
耳を澄ましても船底からボイラーが稼働している音は聞こえない。大型船のボイラーが稼働していれば、遮音効果のある扉とはいえ多少は伝わってくるものであるが、それらしい音や振動はなかった。 わらしも耳を傾けてみたが何も聞こえない。頷いて遊作を見た。
「えっと、と言うことは、まずはボイラーを稼働させて、ピストンをロックさせるのが当面の目的って考えて良いのかな?」 「ヘンリー次第だが、それで良いだろう。この先も恐らく明かりはないはずだから、光源の確保は優先事項だ」 「もう幽霊はいないと思ったんだけどね…。んと、一応鍵とかバルブの位置もマップに描き込んでおくね。もしかしたら何かに使えるのかもしれないし」 「そうだな。その可能性は捨てきれない」
わらしはポスターに示してある鍵やバルブの位置を持っているマップに書き写すと、経路を確認した。鍵はボイラー室Aの壁に掛けてあるようだが、今から通る扉からは手に入らない位置にある。一度燃料倉庫を経由する必要がありそうだ。バルブに至っては、船底倉庫に印があるだけで、詳しくは不明だ。手間が掛からなければ良いのだが。
「……ヘンリーさんはどこにいるんだろうね」 「船首じゃないか? 船底倉庫の先については何も書かれていないし」 「あぁ、そうかも。じゃぁやっぱり一度船尾に行って、それから船首に向かう感じなのかな」 「たぶんな」
このような会話をしていた二人の予想は、しかし後に裏切られることになる。
階段からボイラー室Aへと繋がる扉を開けた時、唐突にどこからともなくヘンリーの声が聞こえてきた。
「………………リチャード………」 「!」 「こっちだ……こっちに来るんだ……」 「今の…っ」 「ヘンリーだな…、どこにいる!?」
遊作が周囲を見回しながらヘンリーに声を返すが、それ以上ヘンリーから返答は無かった。難しい顔をしながら二人はボイラー室の中に足を踏み入れる。途端、床代わりの金網がカシャンと音を立てた。
「わ……ここ、下が見えるね」 「足元に気を付けろ」
薄暗いせいで視界は悪いが金網の隙間から階下が見える。人が通る部分以外は様々な機械が空間にひしめき合い、その中にはボイラーもある。二人が歩けたのは壁沿いの通路だけだった。 それも途中で途切れているので、行ける場所は隣の機関室Aに続く扉しかない。また、通路に全面の壁は無い。おざなり程度の手すり下部が鉄板で保護されている程度である。とはいえ、そのお陰で室内全体を見渡すことはできる。こちらからは行けない奥の壁に、件の鍵が掛かっているのが見えた。
二人はゆっくりと扉のドアノブを捻った。中には誰もない。 機関室にはちょうどH型の通路があり、通路の周りには巨大なピストンが幾つも並んでいた。太い鉄筋製で、天井近くで折れ曲がっているのでクレーンのように見える。今は静止している状態だが、動き出したらかなりの騒音になるだろう。 推進機が稼働していないのに船が海の上を移動し続けているというのはおかしな話であるが、この船についてもはや考える必要もなかった。 さらに、通路の壁沿いに設置された機械には「EMERGENCY DONT TOUCH」と書かれた小さな箱が付属していた。蓋を開けると、そこには鍵を差し込む鍵穴があった。
「地図に載っていた鍵はここに使うのか…?」 「ピストンのすぐ近くにあるっていうことは、このピストンをどうにかする為のものだよね」 「……、ここでピストンをロックできるかどうかは不確定だが、ここがポイントの一つで間違いないな。機関室は反対側にもある。恐らく同じ構造だろう」
そこまで考察をすると、二人は通路を渡ってちょうど最初の位置から対角線上にある扉の前までやってきた。この先は船尾軸路である。 船尾軸路にはT字を逆様にした通路があり、機関室Aから入ってすぐ横に伸びる通路を進むと機関室Bに続く扉がある。通路の真ん中から縦に伸びる経路を進むと、その先には何があるのかは不明だが結局は行き止まりだ。
「とりあえず、何かないか探して…」
言いながらドアノブに手を掛けた遊作だったが、捻った瞬間中から異様な空気を感じた。今まで通ってきた部屋よりも更に暗い。緊張気味に鉄の扉を開け放てば、その先には重々しい雰囲気が漂っていた。
ヘンリーがいる。
「ヘンリー…!」
驚いた遊作とわらしは通路を進み、ヘンリーの前にやって来た。彼は俯き、二人の姿を捉えていない。だが二人が一定の距離に近付いた時、唐突に顔を上げて二人を見据えた。その表情は明らかに今までと違う。
「ヘンリーさん、やっと…この船で一体何が…」 「ウィリアムをやったのはお前か?」
遊作とわらしが矢継ぎ早に質問を投げかける中、無表情のヘンリーはゆっくりと口を開く。
「やっとわかったよ…リチャード…」
二人の質問には答えない。その代わり、両手を胸に当てて深く感銘を受けた時のように声を絞り出した。重々しく、嬉々として。
「…私はウィリアムを殺し、赤い石を手にした時知ったのだ。自分がどれほどこの力に惹かれていたのかを…」 「っ…やはり、」 「そんな…!」
やはりウィリアムを殺したのはヘンリーだった。推測が確信に変わる。彼の告白を耳にした直後、ヘンリーの頭上に紅い石の付いたナイフが現れた。 魔石は強いエネルギーを放出して二人を威圧する。そしてヘンリーがそのナイフに手を伸ばすと、強固だった鎧を脱ぎ捨てて赤い石は完全に力を解放した。
「っ…!」 「なにこれ…、近づけない…!」
剥き出しの石面から発せられる強力なエネルギーを受けてわらしは一歩後退した。同じく石の影響を受けているはずのヘンリーは、しかし平然としている。見れば、先程まで変わりのなかった瞳の色がいつの間にか真っ赤に染まっている。まるで赤の魔石そのものの色に…。
「目が…!」 「私は力と一つになる」
それまで力の源を見上げていたヘンリーは、二人に顔を向けると再び静かに語り出す。
「青い石…その力ですらもう止められまい…この暗闇の中では…」 「やめろ! お前まで石に飲み込まれるぞ!」 「それこそが私の望みだ。さぁ、ここに光はない…生き残れるかな…青い石を持つ者たちよ…」
ヘンリーの口上が終わると、石は更に輝きを増し二人の前に立ちはだかった。その後ろで糸が切れた人形のように崩れ落ちるヘンリーの肉体。
「ヘンリーさん…!」
思わず手を伸ばしたわらしの前に、赤い石から幽霊となったウィリアムの姿が飛び出して来た。半透明に透けた体は二人が見た最後の姿に等しく、黒い外套と帽子を身に付けている。
「ウィリアム・ロックウェル…! どうして…!」
ウィリアムの亡霊は意思を持たない人形のように、悪意に満ちた目で二人に襲い掛かった。オーナー室で最後に会った時のように自身を取り戻した状態ではない。二人が知っているいつものウィリアムだ。死してなお、彼は魔に憑りつかれてしまったようだ。 手に持った杖が向けられ、瘴気が放たれる。
「っ、こっちだ!」 「きゃっ…!」
遊作がわらしの手を引っ張ってウィリアムから距離を取った。瘴気は二人を追って近付いてくるが、一定距離を移動すると消えてなくなる。それでもウィリアム自身は宙に浮いた状態で寄ってくるので、常に最短距離で狙いを定められてしまう。 薄暗い室内ではこの亡霊を追い払うこともできない。遊作とわらしは今通ってきた経路を掛け戻った。
「っ、どこに逃げれば良いの!? 明かりは上に戻らないと…」 「この船のことだ、戻れる保証はない…その考えは捨てた方が良い! それにあの赤い石を無力化させないと意味がない!」 「でも…! あ、あの青い石は!? あれを使えば…」 「この状況では無理だ!」 「そんな…!」
悲鳴を上げるわらしを引っ張って走り続ける。後ろからはゆったりとしたスピードで、しかし経路などものともしないウィリアムが一直線に迫って来る。幽霊に床や壁は関係ない。 遊作が、入って来た機関室Aではなく後戻りの出来ない機関室Bへと続く扉へと手を掛けると、どこからともなく聞き覚えのある声が二人の耳に届いた。
『このままではだめ……はやく……はやく明かりを…』
「! 今の声って…」
辺りを見回し、思わず止まる足。繋がれた遊作の手がそれを咎めた。
「止まるな、走れ!」 「う、うん…!」
わらしはすぐに前を向くと、遊作に続いて機関室Bに入って行く。けれど頭の中で思い描いていたのは、この先の道順やウィリアムのことではなく、もっと別のことで。確かに聞こえたあの優しい声の主は…。
(クレア…っ、どうしてあなたの声が…!)
最後に笑った血だらけのクレアの姿を思い出しながら、わらしは遊作と共に船の中を走り続けた。
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