遊作とわらしが飛び込んだのは船員室の一つだった。T字路の縦線にあたる部分の通路には向かい合うようにして二つずつ部屋があり、シャワールームと船員室、トイレと船員室がそれぞれ並んでいる。その片方の船員室である。 二人が最初に船員室前通路に入ってきたのは、T字路のちょうど交差点部分だ。船員用食堂が船員たちにとって生活の拠点となっていたのだろう。T字路の横棒の両端はそれぞれ右舷連絡通路と左舷連絡用通路に繋がっていて、さらにその先の機関士用通路で合流している。
船員室はそれなりに広い部屋だったが、ロッカーと二段ベッドが詰め込まれているせいでどこか窮屈さを感じさせられた。照明のスイッチは案の定付かなかったが、中にいる船員の影が『通路は危ないけど…部屋の中に出たことはないよ…』と言ったので、二人は安心して探索することにした。 尚、二人に助言をしたその船員はまだ見習いらしく、二段ベッドの下段に座って何かの暗号表を見ていた。
『船舶用がAB23……、一般用が…』 「何を見ているんですか?」 『BA13……いや…BA01……。邪魔を…しないでくれないか……早くしないと…無線が…』 「無線?」 『…だめだ……覚えられない……急がないといけないのに…』
見習い船員は頭を抱えて悩んでしまった。わらしは「悪いことしちゃったかな」と気の毒に思うが、遊作の方は慣れたのか気にも留めていなかった。それより、船員が持っている用紙の方が気になったらしい。
「あれをどうにかして手に入れられないか」 「んんー……、無理じゃない? あれだけ必死に握り締めちゃってるし」 「そうだよな…」
二人は暗号表のことは後回しにし、再び室内を調べてまわった。扉の両側に金属製のロッカーが6つずつ並んでいる。鍵は掛かっていなかったが特に目ぼしいものもない。他、水道や工具入れの中を見ても何も無かった。諦めて別の部屋を調べようかと扉に向かった時、ふとわらしが扉横に付いている非常用ベルに興味を示した。
「何だろうこれ」 「非常用ベルだ。弄るなよ」 「う。いくらなんでも、そこまで勝手なことはしないよ…」 「どうかな。今までのわらしの行動を見ていると、何も言わなくても手を伸ばしていただろう」 「そ、それはちょっと……否定できないかもしれないけど…」
しどろもどろに弁解するわらしの前で、遊作は待てよと気付いた。
「わらしが今までに興味を示したものは全て、謎を解く手掛かりになっていた…。ということはこれも…」
「それはちょっとどうなの」と抗議するわらしの傍らで、遊作は非常用ベルを弄り出した。ベルから三本のコードが出て小さな時計盤に繋がっている。見た目は単なる非常用ベルだが、時間を設定して鳴らすこともできるのかもしれない。 遊作は時計盤の横にあるつまみに手を伸ばすと、それを回して針を動かした。今はちょうど正午を過ぎた頃である。適当に動かし続けると、あるところで突然ベルが鳴り出した。狭い室内に大音量でベルの音がこだまする。
ジリリリリリリリリリッ!!
「うわ、さ、さすがにこれは……!」 『うるさい!!』
両手で耳を塞ぐわらしの前に、それまで暗号表と睨めっこをしていた船員がやってくると慣れた手付きでベルの音を切った。室内に再び静寂が訪れる。わらしはホッと胸を撫でおろした。 船員は『今のでまた忘れた…』と呟きながらベッドに戻るが、そこには先程まで見ていた暗号表が無くなっていた。キョロキョロと周囲を見回すが、どこにも見当たらない。
『……? 書類がない……どこいったんだ……?』
困った船員は項垂れてベッドに腰を掛けたが、その間に遊作がわらしの手を引っ張って船員の死角に連れてきた。もう片方には船員が探している暗号表を持っている。気付いたわらしが問いかけた。
「遊作くん、それって…」 「非常用ベルに気を取られている間に拝借した」 「…、なんか最近の遊作くんってそんな感じだよね。人の隙を見て不正を行ってるような…」 「仕方ないだろ。そうするしか方法がない」 「んん、まぁ、そうなんだけど」
そもそも非常用ベルに気付いて弄ろうとしたのはわらしの方だったのだが。何となく納得はいかないが、文句を言う気もない。 二人はそれ以上収穫がないとわかると、船員室を出て他の部屋に向かおうとした。それと同時に、それまで項垂れていた船員が唐突に立ち上がると二人を退けて先に部屋を出て行った。『そうだ…見回り…行かなくちゃ』と呟いて。
船員の後に続いて部屋を出ると、先に見回りをしていた男の影に遭遇して交代が遅れたことを咎められていた。
『何してたんだ…いつあいつが来るか…』 『…すいません。無線が…』 『わしは、休ませてもらうぞ…』
そう言って二人の船員は巡回を交代した。新たに巡回することになった船員が懐中電灯を受け取り、通路を歩き始める。それを見送って先に巡回していた船員が泡となって消えた。交代したことで、成仏したらしい。
「この人、ずっと交代を待ってて成仏できなかったってこと?」
わらしは目を丸くしながら紫色の球体に触れる。遊作は「わらしだって、同じような状況になったらそれだけで成仏できそうだけどな」と呟いた。
「う。気持ちは良くわかるけど…」 「それより、いつまでもここにいるのはまずい。早くどこかの部屋に入ろう」 「うん…」
遊作たちは巡回する船員を追い越し、近くの部屋に入った。すれ違い様に聞こえたのは『いつになったら電気が点くんだ…』という呟きだった。彼の場合、通路に照明が付けば成仏するのかもしれない。 二人が次に入った部屋はまたしても船員室だった。先程と同じように二段ベッドとロッカーが並んでいる。照明のスイッチは入れたが付かないまま、二人はそこにいた船員の影に話しかけた。
『ドアロックの番号が…4番に書いてあるはず…』 「4番? ロッカーのことか?」 『そうだ。…このままじゃ逃げられない。みんな死んじまう…』
船員の影は観念したように両手を上げ、降参のポーズをした。どこのドアを施錠しているのかはわからないが、解除する為の番号が分からず困っているようだ。 二人は扉の両側に並ぶロッカーを調べると、入って右側は普通に開くが、左側のロッカーはうんともすんとも言わなかった。
「4番のロッカーって、これのことだよね」 「鍵が掛かっているのか…? 開かないな」 「4番だけじゃないよ。5番も6番も……あ、3番もダメ。あれ、でも1番と2番だけは開くみたい」 「ちょっと待て。3番は開いたぞ?」 「えぇ? だって、さっきは全然動かなかったのに…」
蓋が開いた1番から3番のロッカーを前に、遊作とわらしは首を傾げる。ドアに近い方から6番、5番…と並んだロッカーは、当初数字の大きい方から開けようとしても開けることはできなかった。最後に2番、1番と続けて手を掛けた時はすんなりと開いたが、目的の4番はやはり開かない。しかしどういう訳か3番だけは開けることができた。
「何かルールが決まっているのか…?」
開いた蓋はそのままに、他のロッカーに手を掛けるがやはり開くことはない。1番と2番を閉じても3番が勝手に閉じるということはなく、二人は手当たり次第にどの番号のロッカーが開くのか試してみた。すると、1番と3番のロッカーを開けたまま2番のロッカーを閉めた状態で4番のロッカーに手を掛けたところ、4番のロッカーの蓋はすんなりと開いた。
「!」 「あ、あれ? 開いちゃった…?」
4番のロッカーが開いた理屈がわからないまま戸惑っていると、先程の船員がやってきて『開いたのか…?』と中を覗き込んだ。そしてロッカーの底に落ちていたメモを目にし、呟く。
『番号は…1、6、8、9…』
(…ん?)
『急がないと…』 「あ、待って…!」
ドアロックの番号を入手してどこかに行こうとする船員を追いかけ、二人はその後を追った。船員室前通路を通り、扉の一つをくぐって右舷連絡通路に出る。細い一本道の暗い通路の中央に“配電室前通路”と書かれたプレートの掛かった扉があった。件の船員はその扉の横にあるダイヤルを弄っていた。4桁の数字からなるロックらしい。一応、照明のスイッチを入れるだけ入れてから二人は船員に近付いた。
「配電室……電気が通らないのはここに原因があるからなのか…?」 「とりあえず調べる場所の検討はついたみたいだね。ダイヤルの番号もわかったし、これで扉が開けば…電気を通して照明を付けて。みんなあの幽霊に憑り殺されることもなくなるよ」 「……実際はもう手遅れだけどな」 「気持ちの問題だよ」
二人がそんな会話をしている傍らで、ダイヤルを弄っていた船員が首を傾げる。
『なんで開かないんだ…』 「えっ」 『急がないと…奴が…。1、6、8、9……番号は合ってるはず…』 「何で? 開かないんですか…?」
わらしたちも船員の手元を覗き込んで確認する。すると番号は先程ロッカーの中で見付けたメモと同じものに合わせているが、鍵が開いた様子はない。扉に手を掛けてもうんともすんとも言わなかった。
「どうして? 私たちもさっき見たよね、あの紙。なのに開かないなんて…」 「……いや。さっきのメモは正確ではないのかもしれない」 「え?」 「もしかしたら…」
遊作は船員に代わってダイヤルを回し始めた。左から、6、8、9、1…… 扉の奥で、ガチャリと何かが回る音がした。
「! 今のって…」
わらしが目を見開いて扉を見つめる横で、船員が再び扉に手を掛けた。今度はすんなりと開き、鍵が解除されたことが一目瞭然だった。
「!」 『開いた…。やっと開いた…早くしないと…』
男は遊作とわらしを置いて一人でさっさと中に入ってしまった。その後ろを追いかけながら、わらしが問う。
「遊作くん、凄い。でも、さっきの番号はどうやって知ったの?」 「単純なことだ。メモの見方が間違っていたんだ」 「メモの見方…?」 「あの男が見ていたメモには1689と書かれていたが、それを上下逆様にすると6891になる。……ほら」
遊作がロッカーから持ち出したメモをわらしに渡して、ひっくり返してみせた。1689と書かれた数字は確かに6891に置き換わった。最初に見た時が逆だったのだ。
「あ、こういうこと…」
わらしも納得して頷いた。
配電室前通路は短い螺旋階段から始まっていた。幅の狭い階段を登った先に照明のスイッチがある。ダメ元で入れてみればカチッという音と共に通路に明かりが灯る。どうやらここの配電は問題ないらしい。 一本道の短い通路の先で、先程の船員が扉に掛かった太いパイプをどけていた。
「パイプ…?」 「もしかして、あれが邪魔をして扉を塞いでいたのか?」 「手伝った方がいいかな」
二人が船員の傍に寄った頃には船員は一人でパイプをどけていた。それで満足したのか、泡となって消えて行く。
「出入口を確保したから成仏したのか…?」
確かに、船員室から他の場所へ移動する経路は断たれていた。元々乗客の目に触れないよう、船員の使うスペースから他の場所へ移動できる経路はほとんどない。遊作とわらしが通ってきた道だって、食堂の運搬用エレベーターを用いたイレギュラーな経路だ。普通は通れない。 では今の船員が通れるようにしたこの扉の先はどこに繋がっているのか、と球体を回収した二人が扉に手を掛けようとした時、突如通路の天井にぶら下がっていた照明が順番に割れ始めた。
パリン、パリン、パリン、パリン…!
「きゃぁ! な、何!?」
ガラスの割れる激しい音と共に明かりが消えて行く。そして照明が消えたことで、奥から赤いローブを身に纏った亡霊が現れた。
『グォォ…』 「!」 「走れ!」
亡霊は手招きをして遊作とわらしを引き寄せる。急に背後から引っ張られるようになった二人は足元を掬われそうになるが、必死に前に進み目の前の扉から通路を飛び出た。開けた先は明かりが付いている。急いで扉を閉め、亡霊が追ってこないことを祈る。 しばらくそうしていたが、これ以上二人を妨げることは何も起こらなかった。安堵してホッと胸を撫でおろす。
「怖かったぁ……まさか明かりが付いているのに、出てきちゃうんだもん…」 「あの幽霊は今までのやつらと違って、明るい場所でも出て来られるのか…?」 「え、ちょっと待って。それってかなりまずいんじゃ…」 「あぁ。明るいところが安全だとは言えなくなるからな」 「!」 「幸い、ここまでは追ってこないようだから、どこにでも現れるということでもなさそうだが…」
遊作の考察を聞きながら、わらしは顔が真っ青になっていった。
「あ、あのね。まさかゲストルームにまでは出てこないよね…? 寝ている時に出てきちゃったら、私たち、逃げることもできないよ…?」 「……、分からない」 「…………」
わらしの心配を払拭してやれる方法は遊作にはない。あの亡霊が一体どういった規則で、どういった力を持って二人を襲ってくるのか分からないからだ。確実に言えるのは、あの亡霊による障害を何とかするには成仏させるしかないということだ。
「何とかして今日中にあいつを昇華させよう。ダメなら、交代で休憩を取ってなるべく早く対処できるようにするんだ」 「……、分かった…」
遊作の提案に頷き、わらしは覚悟を決めた。遭遇するのが嫌なら、大元から断ってやるしかない。 この先のことを考えつつ、それまで寄りかかっていた扉から離れて周囲を窺う。扉の前は狭いスペースになっているだけで、そこから左側に上り階段が繋がっている。狭くて短い階段を登り切れば、踊り場スペースの後再び正面に同じような下り階段が続いていた。この踊り場スペースを中心に、左右対称の造りになっているらしい。 横の壁を見れば、fuseboxと書かれた小さな箱がある。さらに壁の反対側は、階段に沿って造られた直線の通路。両端には扉がある。 どこかで見たことのある造りに、わらしはあっと声を漏らした。
「ここ、最初に来た甲板と甲板を繋いでいる通路じゃない? そこが倉庫で、エリナちゃんが出て来て大変だった…」 「そうみたいだな。ここに繋がっていたのか…」 「あ、じゃぁ最初来た時にさっきの扉が開かなかったのって、あのパイプが邪魔をしてたからってこと?」 「あぁ。そのせいで俺たちだけでなく、船員も行き来できなくなっていたんだろう」 「確かに、ここが閉まっちゃうと船員はどこにも行けないもんね…」
ここからなら船長室や操舵室など、船員が使用する部屋にも簡単に行くことができる。二人は納得すると、改めてマップを広げた。
「何となく、船の中の位置関係は把握できるようになってきたけど…、これからどこに向かったら良いのかな」 「これは…、やはり一度この通路に戻る必要がありそうだな」
遊作が表情を顰めて言った。
「え? も、戻らなきゃ駄目なの?」 「通路に入ってすぐのところに配電室があった。恐らく電気系統の問題はここで解決する。さっきもその話をしただろう」 「そう……だけどさ。でも、通路は照明が壊れちゃってるし…またあの幽霊が出てきそうで…」 「配電室に鍵さえ掛かっていなければ、部屋に飛び込んでやり過ごせる」 「それってまた博打みたい…」
わらしは「ギャンブルはカジノで十分だよ…」と呟いた。 遊作の意見にはあまり乗り気ではないわらしだったが、配電室を確認してみたい気持ちは同じだったので、躊躇いながらも従うことにした。配電室前通路に続く扉をそろりと開け、中を確認する。亡霊の姿は今のところない。どこかに行ったみたいだ。 二人は頷き合うと、急いで配電室へと向かった。ドアノブに手を掛ける。鍵は掛かっていない。中に滑り込むと、室内は暗いがそこかしこからタービンが回る音が響き、船の発電機が正常に作動していることが窺えた。横にある照明スイッチを付け、中を見渡す。狭い室内に発電機がぎっしり詰め込まれている。
「…ん。ここ、暑いね」
手前から順番に見ていった遊作は、奥の一つだけタービンが止まっていることに気付いた。作動ランプが消えている。どうやらこれだけが動いていないようだ。ブレーカーを上げると、けたましい音を立ててタービンが回り始めた。
「良し。これで恐らく船室にも電気が通るはずだ」 「良かった…!」
二人は配電室から出て、照明の壊れた配電室前通路を進み先程通った右舷連絡通路に戻る。通路は明かりに満ちていた。壁際に並んだ複数の小窓からは、海の中の様子が見えた。色々な種類の魚が思い思いに泳ぎ、照明の光を浴びてキラキラと光っている。
「綺麗…、ここって海の中だったんだ」 「だいぶ下に降りて来たからな」 「こうして見ると普通の船なのにね…、デッキテラスだって、バカンスにちょうど良いような感じで…」
そこまで言ってわらしは昨夜のことを思い出し話を打ち切った。二人で見上げた夜空は幻想的で素晴らしかったが、ただ眺めるだけでは終わらなかった。反射的に頬が赤らむ。
「つ、次行こう…っ!」
遊作の手を取って船員室前通路へと誘導する。そんなわらしの様子を見て、遊作はこっそり(今更なのに…)と思っていたが、本人には気付くはずもなかった。
わらしが先導する形で歩いていた二人だったが、遊作はその手を引っ張って言った。
「ちょっと待て。先にこっちを確認したい」 「え?」
今まで歩いていた方向とは反対側に連れられて行くと、通路の途中で配電室前通路に繋がる扉以外にもう一つ別の扉があった。横のプレートには“↓:機関室 関係者以外の立ち入りを禁ず”とあった。
「! ここが機関室への入口…」
ヘンリーがいるだろう場所へ繋がる扉だ。遊作はそのドアノブに手を掛けるが、鍵が掛かっているのか開けられなかった。
「先にウィリアムの方を何とかしないといけないということか…」 「じゃぁここの鍵はウィリアムが持っているのかな」 「わからない。が、先に進めば必ずどこかで手掛かりが手に入るはずだ」
機関室への扉を諦め、先程の道を辿る。突き当りの扉から船員室前通路に出ると、辺りは明るく照らし出されていた。
「! 明かりが付いてる…」
通路を歩いていた時、既に照明のスイッチは入れておいた。電気が通ったことでこちらも問題なく作動したようだ。
「これなら調べるのも楽になるな」 「さっきみたいなことにならなければいいけど、とにかく色々回ってみたいね」
船員室に向かう途中で紫色の球体に遭遇した。どうやら先程見回りを交代した見習いの船員が成仏していたらしい。彼の最後の言葉は聞くことができなかったが、成仏したのならそれで良いだろう。 二人はその後先程訪れたばかりの船員室に入り、ロッカー以外を調べて回った。が、特に何かを得られることはなく、話はやはり件のロッカーへ。わらしとしては4番のロッカーが開いた原理が心底気になるらしい。
「やっぱり、一度閉じちゃうといくらやっても開かないよ」 「……さきっと同じように、1番と3番を開けてから試してみたらどうだ?」 「待って、3番だって開かないんだよ?」 「……、1番と2番を開けた状態なら?」 「……開いた」 「この状態で2番を閉じれば…」 「! 4番が開いた…」
この奇妙な現象に、二人はロッカーを見つめたまま黙ってしまった。 ふと、わらしが「……足し算?」と呟いた。
「足し算?」 「ええと……、あのね、二つのロッカーの番号を足した番号が開くのかなって…」
言いながら、3番のロッカーを閉めて5番のロッカーに手を掛ける。ロッカーは開いた。
「! そういうことか…」
遊作も理解したのか、4番を閉めて6番を開く。中には何も入っていなかったが、これでわらしの推測が正しいと証明された。 すなわち、1番から6番までのロッカーは、1番と2番は無条件で開くが、3番以降は現時点で開いているロッカー番号の合計値の番号のロッカーしか開けることができない。1番と2番が開いていれば3番が、2番と3番が開いていれば5番が開く、という仕組みだ。
「一体どういう原理でこの現象が成り立っているのか不思議だが、理屈は把握した」
把握したところで、既にドアロックの番号は回収済みなのでどうということはないのだが。モヤモヤが取れてすっきりした気持ちになったところで、遊作とわらしは船員室を出た。
次に二人が向かったのは先程亡霊と遭遇してしまったシャワールームだが、そちらも既に照明が付いて明るかったので特に問題はなかった。手掛かりは何もない。向かいのトイレに入っても同じで、困ったことと言えばわらしが何となく居心地悪そうにしていたことくらいか。船員は男ばかりなので、当然男子トイレだ。 通路に戻ったところで遊作が言った。
「ここで得られるものはもう何もない。機関士用通路に行こう」 「機関士用通路って、確かそっちにも幾つか部屋があるんだっけ」 「あぁ。機関士室の他に無線室がある」 「無線…。もしかして、さっきの暗号表って何かの役に立つのかな」 「そう思って手に入れたんだ」
左舷連絡用通路から機関士用通路に入る。左舷連絡用通路にも右舷連絡用通路と同じく通路の途中に機関室へと通じる扉があるが、やはり鍵が掛かっていて通れない。 また、その横には“↑:乗客専用フロア 緊急時以外の使用を禁ず。”とプレートが掲げられた扉があり、こちら側から鍵が掛かっていた。解除して通ってみれば、狭くて短い螺旋階段を登った後どこかの通路に出て、すぐ隣には扉がある。扉の向こうは大食堂に通じる通路だった。すなわちここはゲスト専用通路である。
「ちょうど一周してきた感じか」 「ここが通れるようになったから、船の中は大体行き来できるようになったね」 「あぁ。ということは、先もあまり長くはなさそうだ」 「じゃぁ……元の世界に戻れる?」 「…そう信じている」
遊作とわらしは希望を見出して表情を和らげた。
左舷連絡用通路に戻り、突き当りの扉を通って機関士用通路に入る。すぐ横にある照明のスイッチを入れれば途端に辺りが照らし出される。機関士用通路もまた船員室前通路同様にT字路の形をしているが、通路は短く部屋は二つだけだ。 その片方、機関士室に入ろうとして扉の前に来た時、向かいの無線室から何やら電子音が聞こえてきた。短い音と長い音が不規則に繰り返されている。 先に機関士室を調べようと思っていた二人は、思い直して無線室の方に入った。暗い部屋の中で何やらうごめく影が見える。照明のスイッチを入れると、部屋には誰もいなかった。
「……、今、そこに誰かいたよね? 多分、影の人が…」 「あぁ。俺たちが来たから消えたのか…?」
部屋の奥には長机があり、上に無線の機械が所狭しと並べてある。壁にはモールス信号の暗号表が。AからZまでのアルファベット、そして0から9までの数字についてそれぞれ暗号が記載されている。先ほどの影がいた場所に行くと、机の上にはモールス信号を送る為の打診機が置いてあった。
「ここで、何かを打っていたのかな…」 「……、この船が事故に遭って沈む直前に打つとしたら、救難信号だろうな」 「! じゃぁ、例えば……“HELP”とか“SOS”? それが打てたら、この船は助かるのかな」 「さぁ。だが、使用回線については恐らく見当がついている。さっき見習いの船員から手に入れた暗号表に書いてあった。緊急の場合の特殊回線は“BA10”だ」
打診機の横にある機械には、回線を設定するための四つのつまみがあった。左の二つはアルファベットを設定する為のもので、それぞれAかBを選択できるようになっている。右から二番目のものは0、1、2の3種類、一番右のものは0、1、2、3の4種類の中から1つを選択する。 遊作は暗号表の通りに装置の回線を特殊回線につないだ。
「後は実際にモールス信号を打ってみるだけだが…」
手掛かりがない以上、難しいだろう。わらしが提案した二つの単語でも可能性があるかもしれないが、できれば確証が欲しい。 悩んだ末、二人は一旦向かいの機関士室に行くことにした。誰かがいればそこで話が聞けるかもしれない。無線室を出たところで再び中から電子音が聞こえてくる。必死に何かを伝えようとしているのだろうか。
船員室に入って照明のスイッチを入れれば、ベッドに寝そべっている船員の影を見つけた。
『なんだ、あの音は……』
船員は横になりながらも聞こえてくる音を気にしている。
『無線室からだ…まさか魔物が…』
それっきり黙ってしまって喋らなくなった。彼にとっても無線室の電子音は意外で、驚いている様子だった。あれが何の意味を表しているのか尋ねてみても、答えなかった。
「…他には何か手掛かりがないか」
遊作とわらしは機関士室の中を歩いて見て回った。しかし特にこれといったものはなく、奥に続く扉を開けても先にあるのは二段ベッドが並んだだけの部屋。奥の壁に太陽のレリーフがあったが、今は必要ない。 仕方なく電子音が鳴り響く無線室に戻り、改めて何かないのかと調べ始める。すると、打診機の近くを探っていたわらしが、手前からは見えないテーブルの側面に“CREA”と書いてある落書きを見付けた。
「遊作くん! これって…」 「…C・R・E・A……これが打つべき信号なのか?」 「そうじゃないよ、CREAってもしかして、クレアちゃんのことじゃない!?」 「!」
わらしの推測に遊作の表情も変わる。
「確かに……クレアの名前だな」
人物ノートを確認すれば、クレアの名前のスペルと一致した。 一体誰がこの机にクレアの名前を書いたのか、そもそもモールス信号を打とうとしていたのは本当にクレアの名前で合っているのか。疑問は尽きないが、二人は何かに突き動かされるようにモールス信号でCREAと打った。 打ち終わった瞬間、二人の背後から声が掛かる。
『姉さんは……クレア姉さんはずっと待ってた…』 「! お前は…オスカー!」 「君だったの!?」
遊作とわらしの背後に立っていたのはあのオスカー少年の影である。プールサイドで別れたきり行方不明になっていたが、やはりまた二人の前に現れた。今回も何か助言をくれるのだろうか。クレアのことを“姉さん”と呼んだ真相は…。
彼は掌サイズの小さな箱を二人に渡すと、『これを姉さんに……。姉さんがくれたオルゴール…』と言って手を引っ込める。それと同時に、二人は時空を飛んで消えた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ヨーロッパの古い町並み。家屋はブロックに分けられ、規則正しく連なっている。道路に面した側面に庭が現れることはなく、それぞれが入口を持った立派な造りである。 その道路を道なりに進んでさらに左に曲がると大きな広場に出る。日中にも関わらず人の気配はない。小鳥のさえずりさえ聞こえない閑散とした空間の正面の奥には、どの家よりも大きく荘厳な造りの建物があった。馬車が一台留めてある。 扉を開けて、その中へ。赤いじゅうたんが敷き詰められた通路の両側にはいくつもの柱が並び、正面には聖者が描かれた巨大なステンドグラス。通路の先は三段だけのステップがあり、一番上にはかなりのスペースを取って聖書台が置かれていた。いわゆる聖堂である。
「綺麗…」
ステンドグラスを見上げたわらしが、うっとりするような声を漏らした。遊作は警戒しているのか、表情を硬くしたまま周囲を見回している。
「どうしたの?」 「ここは……クレアに関する場所だな? ということは、またあの老人が出てくる可能性があるんじゃ…」 「あ…、」
わらしも気付いたのか、表情を曇らせた。オスカーはオルゴールを差し出して姉に渡せと言ってきた。恐らくこの聖堂のどこかにクレアがいることは間違いないが、クレアに関わるということはあのウィリアムにも接触する可能性がある。慎重にならざるを得なかった。
「早くクレアちゃんを探して、船に戻らないと…」
二人は聖堂の中を調べて回ったが、聖書台の上に燭台が置かれている以外には何もない。通路の両側には入口からすぐのところに扉があり、どちらもパイプオルガンのある部屋に繋がっていた。 巨大なパイプオルガンを見上げて遊作が呟いた。
「でかいな……天井まで伸びている」 「凄いよね。私も生で見るのは初めてだよ」 「こいつが鳴ったら、音も相当なものだろうな」
それぞれ思い思いに感想を述べる。それから遊作はポン、と試しに鍵盤を押してみた。深みのある重い音が聖堂の中に響き渡る。
「素敵な音色…、って、でもパイプオルガンなんて触ったところで何かあるの?」
わらしが疑問を口にすれば、遊作はしばらく考えた後オスカーから受け取ったオルゴールを取り出した。ネジを巻いて手を離す。短いが癒しのあるメロディーが流れた。
♪〜〜♪〜♪
曲が途切れて、遊作がわらしに問う。
「今の曲をパイプオルガンで弾けないか?」 「え? ……うん、やってみる」
遊作の意図を受け取ったわらしが鍵盤に向き合う。頭の中でさっき流れたメロディーを思い出しながら、指を滑らせる。ちなみにわらし自身、楽器にはそれほど詳しくない。恐らく遊作と変わらないレベルだが、かろうじて楽譜が読める程度だ。
(確か……こんな感じだっけ)
わらしの指に合わせてパイプオルガンが鳴る。
♪〜〜♪〜♪
弾き終えたところで手を離すと、オルガンは突如今のメロディーをひとりでに繰り返し、第一鍵盤だけでなく上段の第二鍵盤も合わせて二重奏のように奏で始めた。
「!」
♪〜〜♪〜♪
そして曲は二人の知らないメロディーの先を演奏し、華々しい音調は美しい聖堂の中に響き渡った。まるで聖歌のごとく神聖な音色である。
(……、すごい)
曲が続くほんの数十秒間、二人は黙って聞き入っていた。このように素晴らしい音楽を耳にする機会はまたとない。やがて音が止むと、再び静寂が訪れた。しかしこの静寂を打ち破るように、すぐにまた違う音が聖堂の中に響く。先ほどのパイプオルガンと違い、何かを動かしているような重々しい音だ。 顔を見合わせた遊作とわらしは急いで階下の通路に戻った。
聖書台が横にずれている。
「これは…!」
傍にやってきた遊作が声を上げる。今まで聖書台があった場所にはぽっかりと穴が開き、地下に通じる螺旋階段があった。随分下まで続いているようである。中央部分の空洞の先は暗くて見えなかった。
「隠し階段…、やっぱり何か仕掛けがあったんだ」 「まさかオルゴールがヒントになっているとは思わなかったけどな。……この下に行ってみよう」 「うん」
遊作が先を行ったのに続いて、わらしも階段を降りた。階段の壁には定期的に窪みがあって、小さな照明が付いている。おかげで辛うじて足元は見えるが、暗いことには変わりはない。わらしは慎重にステップを踏みながら遊作と会話をした。
「この下には……クレアちゃんがいるのかな」 「恐らくな…」 「でも、本当にこの下にクレアちゃんがいたとして、彼女はどうしてこんなところに? 聖堂の隠し階段なんて…よっぽどの場所だと思うよ。またあのお爺さんが連れて来たのかな…」 「…目的は何だ?」 「え?」 「あの爺さんのことだ。あの子を無意味にここに連れて来たということはないだろう」 「あ…、うん」
遊作の推測に同意する。
「考えられる理由はいくつかあるが、身を隠す為ではないな。赤い石を持つウィリアムに身を隠す必要はなく、クレアを隠す理由もない。彼女はウィリアムにとって…弱点でも何でもないからだ。不要だと判断されれば簡単に切り捨てられるはずだ」 「うん……」 「それに、ここは深すぎる…」
二人は先程からずっと螺旋階段を下っている。もう何段降りたかはわからないが、地下一階や二階というレベルではない。遊作の脳裏に嫌な予感が走る。
「恐らく彼女は…」
その先に続く言葉を予想してわらしも黙った。どうかそうでなければ良いと祈りながら階段を降り、螺旋階段が終了した後は直線の下り階段を降りる。ここも無言で降り切ると、その先には一枚の扉があった。 ドアノブに手を掛けて慎重に開ける。中には、鉄格子で仕切られた檻がありその向こう側に一人の若い女性の姿があった。ブロンドの髪に清楚な佇まい。表情は暗いが、その顔にはあの日二人が列車で見た少女の面影が残っている。あのウィリアムに怯えていた少女の面影が…。 年齢こそ違えども、間違いなく彼女はクレアだった。
「そんな…、クレアちゃん…っ!」
わらしの叫びに気付いたクレアが二人を見て、「あなたたちは…?」と呟いた。
>>SUMMER VACATION!−17 |