特別ゲストルームに戻った二人は、夜会服を着替えながら今までの情報をまとめた。
「詳しいことはわからないままだけど……あの赤い石がついたナイフがこの世界では異常な力を持っているって、もう疑いようがないよね…」 「ウィリアムもヘンリーもあの赤い石を巡って争っていた。遡れば、あの古城の城主とその部下も…」 「そんな危険な石を、私たちで一体どうすればいいの? ウィリアムに会ったところでどうにかできる訳でもないのに…」 「…………」
二人の頭には不気味な笑顔を浮かべているウィリアムの姿がちらつく。今までは漠然とヘンリーを追って船内を彷徨い、さらにウィリアムとの対峙を当然のように考えていた二人だが、ここにきて完全に手詰まりになった。ヒトを超えた力に対抗しうる手段は今の二人にはない。どうしたものか、と頭を悩ませるばかりである。
ベッドの縁に腰を掛けていた遊作が鞄の中を探って、霊能者からもらった青い石を取り出した。
「あの赤い石を見ていて思い出したんだが…、この青い石もまた、赤い石と何か関係があるのかもしれない」 「それ…!」
わらしが口を覆って驚愕を露わにした。
「元々、ウィリアムを追っていたヘンリーがこの石を持っていた」 「待って、その石にも不思議な力があるなら…遊作くんも石に乗っ取られちゃうってこと!?」 「…今のところ別に何ともないが、突然何かが起こらないとも言い切れない」 「そんな…!」
わらしは遊作の前に跪き、石を持つ手を両手で包み込んだ。
「もし、もしこれがあの赤い石と同じなら、持ち続けているのは危険だよ。どうにかして処分しようよ…!」 「……だがこれがあの石と同じ力を持っているなら、ウィリアムと対峙した時に切り札になる」 「でも、それで遊作くんが乗っ取られちゃったら元も子もないよ! 本当にそんな力があるのかもわからないのに…」 「それはそうだが…」
石を手放そうと説得するわらしと、このまま持ち続けようとする遊作の意見は合わない。ややあって、遊作が言った。
「……あの霊能者の男のところに行ってみよう。俺たちの質問に答えるかどうかはわからないが…」
平行線となってしまった二人の意見を妥協する為の、せめてもの提案だった。わらしは暗い表情のまま、しぶしぶと頷く。本音を言うならばすぐにでも手放して欲しかったが、遊作が言うことにも一理あるとわかっていたからだ。
「わかった…。でも、それがもし遊作くんに害を為すものだってわかったら、すぐに捨ててね…」
遊作の身を案じ、小さく囁いた。
太陽のレリーフに彗星の本を掲げ、天文台へと飛んだ二人を待ち受けていたのは、やはり不敵な笑顔を浮かべた盲目の霊能者だった。前回同様椅子に腰を掛けたまま、二人の訪問を歓迎した。
「やぁ。また来てくれたね……」
二人が近寄ると、眼鏡を直して含み笑いをする。
「旅は順調みたいだね。フフフフ…」 「…俺たちの行動を監視しているのか?」 「監視も何も、その本が教えてくれるのだよ。君たちが何を見て、何を聞き、何をしたのか。……球体の数も随分と増えたらしい」 「! それは…」
前回この男の元を去ってから、わらしたちは多くの人間の魂を昇華させてきた。むろん紫色の球体にも接触し、その度に泡となって消えたはずだが、やはりわらしの中でそれは宿っていたらしい。 体の内から現れた球体が男の元に向かうのを無言で見送りながら、わらしは不思議な気持ちでいた。
「約束の聖水だ」
球体の数と同じだけの聖水を用意する男に向かって、遊作は青い石を取り出して切り出した。
「…前にお前からもらったこの石について、詳しく聞きたい」 「……あぁ、それか。残念ながら今の君たちに教えられることはない」 「私たち、これと同じ赤い石を見てきたんです。それは凄く恐ろしくて、人の心を乗っ取てしまう……この石も同じじゃないんですか!?」
はぐらかそうとした男にわらしが噛みついた。
「もしそうなら、この石を持っている遊作くんは…」
震える声を抑えて主張するわらしの肩を抱き、遊作は優しく宥めた。
「あぁ。君たちはそのことを心配しているのか」 「赤い石を持っているウィリアムは、石を手にしてから変わってしまったと聞いた…」 「そうだね。確かにあれは人の手に負えるものじゃない。だが、その青い石は別だ」 「どういう意味だ?」 「その石自体には人をどうにかする力はない。君を乗っ取ることも、力を与えることも」 「……本当か?」 「私に嘘をつく理由はない」
男はあっさりとそう言い切った。随分と潔い。 それが本当かどうかは遊作とわらしには判断できないが、青い石に害はないと聞いて少しだけ気が楽になったのは事実だ。 遊作はさらなる質問を投げかける。
「では何故、これを俺に渡したんだ。これは元々ヘンリーが持っていて、クレアに渡ったはずの石だろう。何故これがお前の手に…」 「入手経路については教えられないな。企業秘密というやつだ。君に渡した理由は、それが君に必要だったから渡したまでだ」 「俺に必要…?」 「最初に言っただろう? その石は君の運命を握るものだと」
男は軽く掌を遊作に見せ、さも当然のように答える。そんな質問をされても困るというようだ。
「今はそれを知らなくても、いずれわかる時がくる」 「…………」 「安心したまえ。それは君を害するものではないよ。決してね。フフフ…」
男の笑い声を聞きながら、二人は天文台から姿を消した。
「………」 「………」 「………」
船の中に戻ってきても、二人の不安はついえなかった。簡単に男の言葉を信用することはできない。 遊作は手にした青い石を見つめると、一度握り締めてから静かに鞄の中に戻した。横ではわらしが複雑な面持ちをしていた。
「もし……その石が遊作くんのことを乗っ取っちゃったら……」
足元を見つめて呟く。遊作にはウィリアムやアレンのようにはなって欲しくない。わらしの心は締め付けられる思いだった。 遊作は正面からわらしの手を取って言った。
「その時は、わらしが俺を止めてくれ。それこそ、ナイフでも何でも使って…」 「そんなこと…っ!」
驚いて顔を上げれば、遊作は穏やかな表情をしてわらしを見つめていた。とても石の影響を受けているとは思えない。わらしの知っている遊作だ。
「遊作くん…」
その名を呟けば、遊作は自信に満ちた声で言った。
「俺は大丈夫だ。石なんかに好きにはさせない」 「……、」 「心配しなくていい」
遊作の力強い声に、わらしはとうとう屈した。困ったように口元を緩ませ、影のある微笑をみせる。
「うん。私も、遊作くんのこと信じてるよ」 「わらし。……ありがとう」
その手を握り返し、わらしは目を瞑った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
あれから二人はアーサーとヒルダのいる大食堂に戻り、探索を開始した。最初にここを訪れた時には二人から話を聞くだけで、詳しくは調べていない。 部屋の中に入るとアーサーたちは変わらずテーブルの横に立っていたが、先程聞いた話以上に得られる情報はなく、遊作たちは歩き回った。他に情報がなければ、自分たちで手掛かりを見付けなければならない。
「わ…、これ…人魚、かな?」
壁に掛かっていた巨大な絵画を見上げてわらしが呟く。絵の中の女性は上半身が人間で下半身は鱗に覆われているが、物語に出てくるマーメイドとは違って足は二股に分かれていた。泳ぎが得意なのかと考えてみると、答えは出ない。魚の尻尾を持っている訳ではないのだ。 一方、遊作の前にあるのは同じく上半身が人間で下半身が魚のような男の絵だったが、こちらは男性で、女性の絵よりは不気味さが増していた。やはり足元は二股に分かれている。
「食堂に飾るにしては不適切だな…」
魚料理が運ばれてきた時には気分が悪くなりそうだ。それともここの食事は肉料理と決まっているのだろうか。 絵を眺めるのはそこそこにして、遊作は近くのテーブルの上に置き去りにされていた引換券を手に入れた。
「わらし、引換券があった」 「ほんとに? それじゃまたチップが増やせるね」 「他に何かあったか?」 「ううん。何も。奥に扉が一枚あったけど、鍵が掛かってるみたい」 「そうすると、あと行けるのはそこの通路にあった扉か…」
大食堂前通路で執事に食堂まで連れて来られた時、分岐する通路の先に一枚の扉があった。他に行ける場所がない以上、そこを調べる必要がある。 食堂を出て行こうとする遊作とわらしの背に、ヒルダの声が掛かった。
『気をつけなさい…先にはあの女がいる…』 「あの女…?」 『気付かれたら殺される…』 「!」 『何とか注意をそらして……』
ヒルダはそれだけ言って黙り込んだ。遊作とわらしの表情が途端に厳しいものへと変わる。 食堂を出て、通路で話し合う。
「ヒルダさんが今言ってたのって…あの悪霊になっちゃった女の人のこと、だよね? たぶん…」 「そうだろうな。クソッ……もう他に行く場所がないのに、待ち構えているのか…」 「ど、どうしよう。注意をそらしてって言われたけど、私たち何も持ってないよ? ラーイがいたらなんとかなったかもしれないけど…」
ふと自分のパートナーを思い出し、わらしは呟いた。確かに、宙を浮く小型のドラゴンは良い囮になるだろう。しかし当のラーイはカードの中に戻っていて、ここには出てこられない。他の方法を探す必要がある。…それにしても、こんな時くらいしか思い出してもらえないとは、ラーイも不憫である。
「…とりあえず一度覗いてみよう」
ドアノブに手を掛けて遊作が言った。そっと中を覗くと、そこは部屋というには微妙な空間だった。そこそこのスペースがあり、さらに奥へ続く扉もある。特筆すべきは二階への螺旋階段があって、通路の延長のように思える場所だが、踊り場のスペースはなんと吹き抜けになっていた。そこから二階のテラス部分が見える。そしてわらしが下の空間からテラスを覗き込んだ瞬間、そこにいる女性の亡霊と目が合った。
『フフフフ…』 「!」
遊作は慌てて階段下にあった照明のスイッチを入れた。カチ、と音がして階下の照明が付く。しかし上階にいる女性の亡霊は消えない。
「え、や、やだ、あんなところにいたらこの先に進めないよ…。あの人、人魂飛ばしてくるもん…」 「一応、こっちには明かりが付いているから手は出せないみたいだが…」 「二階の照明も付けなくちゃいけないってことだよね? でも、どうやって…」 「何かないか探そう。きっと何かあるはずだ…」
不安を口にするわらしを焚きつけて、遊作は辺りを見回した。テラスの下は両開きの扉が付いている。試しに手を掛けるが、鍵がかかっていて開かない。ただ奇妙なことにこの扉には鍵穴は無く、扉の両側に何かを嵌め込める窪みのような石膏が貼り付けてあった。嵌め込むものは三つが四角形で残る一つが五角形だが、それぞれ微妙に形が違う。その内の一つに遊作は見覚えがあった。
「これは…」
鞄を漁って、アーサーから受け取った火鳥が描かれたプレートを取り出す。思った通り、火鳥のプレートは石膏の窪みの一つにぴったりと嵌った。
「もしかして…プレートが鍵?」 「恐らくそういうことだろう。プレートはあと三枚あると言われたしな」 「待って、それならこの扉の向こうって…」
アーサーの言葉を思い出し、わらしが目を見開く。遊作も神妙な顔をして頷いた。
「あぁ。ウィリアムがいる」 「!」 「プレートを全て集めるのは、この為か…」
アーサーが言っていた意味を理解し、遊作は納得した。
「この先にあのおじいさんが…」
わらしは恐怖に身を震わせそうになるが、ふるふると頭を振ると真っ直ぐに前を見据える。
「大丈夫…逃げないよ」 「…わらし、」 「怖くないって言ったら嘘だけどね。早くみんなの魂を解放してあげたいし、あのおじいさんだって……もしかしたら、何とかできるかもしれない。ずっと石に操られてるなんて、可哀想だもん」
わらしはそう言うと遊作と目を合わせた。
「探そう、遊作くん。真実に繋がる道を。私たちが帰る為の方法を」 「……あぁ」
力強く頷いて、遊作は気持ちを引き締めた。
扉の横には小さなテーブルと椅子が二脚あるが調べても何も出てこない。反対側には小さな台があり、そこに真っ黒なカラスの模型が置いてあった。観賞用としてはあまり向いてなさそうにみえる。その背には小さな蓋があり、開ければ中には歯車が並んだ機械仕掛けになっていた。歯車と歯車の間に、一つだけ空いたスペースがある。
「遊作くん、もしかしてこれって…」
わらしが言う傍らで、遊作は宝箱の中から手にいれた歯車を鞄から取り出した。空いたスペースに置いてみるとちょうど合う。
「ぴったり…」 「これでこいつは何ができるんだ?」
模型を触って何かないか探す。足の付け根にあったスイッチを押してみると、カラスの模型は赤い目を光らせ、大きな声でカァ、カァと鳴きだした。
「わ、ちょ……うるさい!」 「っ…」
思わず耳を塞いだわらしたちだったが、遊作はあることに気付いて上を見上げた。バルコニーの上から女性の亡霊がこちらを見ている。わらしの手を掴んで引っ張ってみれば、二人が移動したにも関わらず女性の亡霊はカラスの方を見続けていた。
「そうか…!」
遊作の胸に希望が生まれた。しばらくして、カラスはこと切れたように鳴くのを止めた。
「いけるかもしれない」 「あ、あの模型で?」 「あぁ。どういう訳か、あの女の霊は単純な行動しか取れないようだ」 「そういえば……、バスルームや通路でも全然追ってこなかったしね。何か制約でもあるのかな」 「そもそも自我を保っているかどうかも怪しい。目に惹かれるものがあれば、それを攻撃しようとしているだけかもしれない」 「そっか…」
亡霊に対する考察をまとめて、二人は作戦を練った。
「模型のスイッチを入れたら、俺が二階の照明スイッチを入れに走る。わらしはここで模型を見ていてくれ。カラスの鳴き声が止まったらすぐにまたスイッチを入れて欲しい」 「わかった。でも、本当に大丈夫? カラスよりも遊作くんの方があの人に近付くことになるけど…」 「例えあの女の意識がこっちに向いたとしても、照明だけは絶対に付けてくる。そうしないと先に進めないからな」 「……走るだけなら、私が行くけど…」 「わらしを危険な目に遭わせる訳にはいかない。待っていてくれ」 「…うん」
遊作の言葉に頷いて、わらしは覚悟を決めた。階段の前に遊作が立つ。
「準備はいいな。行くぞ…!」
階段に向かってダッシュした瞬間、わらしは模型のスイッチを入れた。カァ、カァ、と激しい鳴き声が室内に響き渡る。思った通り、亡霊の視線はカラスに向いた。その間に遊作は階段を駆け上がった。 螺旋状に続くステップを二段飛ばしで進み、壁沿いにコの字に連なる道を鉛直上向きに移動すれば、テラスから見下ろしている亡霊の姿を捉える。そして女性の後ろにある壁には赤い非常灯の付いた照明のスイッチがある。
(見つけた…!)
遊作は照明のスイッチ目掛け、階下を見下ろしている亡霊の横をすり抜け、手を伸ばした。その瞬間。
『フフフフ…』
亡霊の目が遊作に向いた。カラスは下でまだ鳴き続けている…。
「っ!」 「遊作くん…っ!」
人魂の形をした瘴気が遊作に向かって放たれる。それはいつものゆったりとした速度ではなく、とても速いスピードで遊作に迫った。スイッチはすぐ目の前にあるが、それでも。
「ぐぅ…っ!」 「遊作くん!!」
カチ、とスイッチの音が鳴るのと、瘴気が遊作の体を支配するのは同時だった。照明が付いたことで女性の亡霊は消えて行く。しかし瘴気を食らった遊作の体からは力が抜け、壁にもたれながら床に膝をついた。内側から燃えるような熱さが込み上がり、息をするのも苦しい。階段を駆け上ってきたわらしが遊作に駆け寄る。
「遊作くん! しっかりして、遊作くん!!」 「ダ…メだ、ちかよる、な…っ」 「遊作くん!」 「うわぁぁぁ……!」
遊作は床を転げ回り、痛みを分散させようともがいた。白い蒸気が遊作の体から立ち昇る。その光景にショックを受けたわらしはその場に立ち竦んでわなわなと唇を震わせていたが、すぐに聖水の存在を思い出してそれを遊作に向かって振りかけた。
「お願い、遊作くんの体から出ていって…!」 「っ!!!」
透明な液体が遊作の体を濡らしていく。すると聖水を受けた場所からはジュワっと音を立てて蒸気が四散し、瘴気はみるみる消滅していく。同時に痛みが消える。内から沸きあがる熱も無くなった。それを見て、わらしは聖水を続けてもう一本遊作に振りかけた。ジュワジュワと音を立て、解放されていく。
「遊作くん、大丈夫!?」
わらしが遊作の頭の横で跪き、手を差し出した。
「…あぁ……、問題、ない……」 「問題なくなんて無いよ! こんな状態で…、」 「…だが、瘴気は消えた……大丈夫だ…」
瘴気から解放された遊作は背中を壁に預けながら、「助かった…ありがとう、わらし…」と囁く。わらしは泣きそうになった。
「こんな、こんなことになるなんて……、」 「泣くな、わらし…もう何ともない」 「遊作くんが死んじゃったら、私、私…」
遊作の肩に顔を埋めて嗚咽を抑えるわらしに、遊作はこっそり(勝手に殺すな…)と思った。心配されるのは嬉しいが、泣かせるつもりはなかった。余程怖い思いをさせてしまったらしい。反省した。 遊作は震える背中を優しく擦りながら、わらしから視線を移した。
「それより、嘘じゃなかったんだな…」 「なに、が?」 「こいつだ」
遊作は床に転がっていた聖水の空き瓶を持ち上げ、少し疲れた顔で見つめる。
「憑りつかれるとか、魔を払うとか、明らかに胡散臭かったが」 「あ…」 「助かったのは事実だしな。あの男にはやっぱり何か俺たちには理解できない力があるんだろう」 「そう…だね」
霊能者のことを信用する訳にはいかないが、その力は認めざるをえなかった。亡霊の女性の攻撃を受けた遊作を救ったのは事実だ。熱を持っていた体は既に何ともない。この貴重な聖水を得る為に、二人は今後もあの男の元へ通うことになるのだろう。
遊作は体を起こし、深く息をする。
「とにかく、照明を付けることには成功した。このまま先を急ごう」 「休まなくていいの?」 「あぁ。平気だ」
遊作が頷いたのを見て、わらしもホッと安堵した。 それから辺りを見回すと、亡霊が立っていた場所にはシアター前通路の時と同じように緑色の液体が立ち昇り、毒々しい色を煌めかせていた。幸いにも今度は道を塞ぐということはならなかったので、このまま放っておいても問題はない。テラス部分には両側に扉が一枚ずつあった。二人はマップを確認する。
「この先は…、甲板だな」 「え、両方とも?」 「あぁ。外に繋がっている」
意外な行き先にわらしが目を丸くする。
「片側は他に繋がっている扉もなさそうだし、先にこっちから行くか」
遊作に促され、甲板に繋がっている扉を通って外に出る。狭い甲板は周りを柵で覆われているだけのスペースだった。屋根があり電球がぶら下がっているので、扉横に付いているスイッチを入れれば見づらいものの電球に電気が通っているのがわかる。周囲が明るいので照明を付ける必要はなかったが、この船の上で省エネとは言っていられない。暗くなれば必然的に悪霊が姿を現すのだから。 扉を挟んで照明スイッチの反対側の壁には太陽のレリーフがあった。
「ここ…展望デッキかな。屋根が付いちゃってるけど」
まだまだ眩しい日差しに目を細めて、わらしが手すりから外を覗いた。果てしない海が続いている。穏やかな風が気持ちいい。
「行く当てもなく彷徨って…彷徨って…、この船はどこに辿り着くんだろう…」
その答えを知る者はどこにもいない…。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
テラスから反対側の扉を行けば、そこもまた外に続く甲板で、同じような造りになっていた。二人は照明スイッチを入れただけでそこから新しい扉へと進む。扉の向こうは短い登り階段になっており、扉横の照明スイッチを入れた後進めば、階段の終了と共に左手に伸びる通路が続いていた。マップにはプール前廊下と書いてある。
「大きな船にプールって付きものだよね」 「そういうものか」 「うん。私が乗ったことのある船には必ず付いてたよ。海にいるのに何でプールって思うんだけどね、実際ずっと乗ってるとすることなくなっちゃうから…」 「途中で降りようと思っても降りられないしな」 「そうなの」
実際、大型客船にはそのような客の為に色々な娯楽施設を備え付けている。オルフェウス号にもあったようなシアタールームの他に、カジノ、スパ、サロン、ジムなど様々な部屋を用意し、アクティビティを体験できる。スケートリンクを備え、各国から有名フィギュアスケーターを呼んでアイスショーを行っているものもある。もちろん、デュエルフィールドはどこの客船にも完備されている。
「通路には扉が三か所あるな。手前と奥がロッカールーム、真ん中がスタッフルームか」 「ここで着替えてプールに入るんだね」 「手前から順番に調べていこう」 「うん」
二人はマップをしまい、最初の扉を開けた。扉の上には男性を模したイラストが描いてあったので、男性用ロッカールームだろう。 ロッカールームの中は思ったよりも狭く、入って右側の壁にロッカーが幾つか並べて置いてあるだけだった。室内は薄暗く、見えないことはないが心もとない。なによりこの状態ではいつ亡霊がまた現れてもおかしくはない。 ところが照明のスイッチはいくら探しても見つからなかった。天井にはライトがぶら下がっているのだが。
「んー、暗くてよく見えない…」 「ここにスイッチがないということは、どこかで一括しているということか?」 「え、それじゃぁ……スタッフルームかな。女性用ロッカールームだけにスイッチがあるってこともないだろうし」 「行ってみよう」
ロッカールームを一旦後にし、二人はスタッフルームに入った。入ってすぐ横の壁に照明スイッチがあり、押せば天井の明かりが付く。スタッフルームはプールと同じ空間にあり、低い壁で仕切られているだけだった。ここからプールの中を監視するのだろう。その為だけの空間のようだった。 監視するだけの部屋に他に用はなく、遊作とわらしは早々に退室した。そして先ほどのロッカールームに戻ると、天井のライトは付いていた。
「やっぱりあれが全ての照明スイッチになってたんだな」
室内が明るくなったことで二人はロッカーの中を調べていった。見つかったのは引換券だった。
「これで三枚目だね」 「そろそろカジノに挑戦してもいいかもしれない」
引換券をポケットにしまって奥の扉を開く。ロッカールームの広さとは対照的に、プールのある空間はとても大きかった。長方形に区切られた空間を、壁沿いに歩いていく。プールの中は水が満たされていて、高い気温に少しだけ入ってみたいという気持ちになる。しかし揺れる水面の下、プールの底には奇妙な絵が掘られていて、それがそんな気持ちを躊躇わせた。干からびた魚のように見える。プールの壁にもオウムガイや魚の絵が細かく掘られている。プールサイドの壁にはそれこそもっと大きな絵が掘られていた。
「気味が悪いな」 「うん…」
ガラス張りの天井から差し込む光がなかったら、もっと不気味に感じただろう。オルフェウス号という船の上にいる以上、ちょっとした装飾ひとつが嫌な想像を掻き立てる。
スタッフルームの前を歩いて通りすぎると、今度は女性用ロッカールームへの扉がある。中に入ってロッカーを調べるものの特に得られるものはなく、二人は再びプールサイドへと戻って来た。プールサイドからはロッカールームに続く扉以外に、外に出る為の扉が二枚あった。そのどちらも同じ場所に繋がっている。船尾甲板、デッキテラス。一番見晴らしの良い場所だ。
「この時間なら照明がなくても大丈夫だよね。夜だったらあの女の人も出たかもしれないけど…」
天井のない甲板には当然照明器具もない。晴れた日で良かったと思いながら二人が甲板に出るとそこは船の終わりで、何にも邪魔をされない景色が臨めると同時に、向かってくる風も強かった。船の下で白い泡が筋になって海に跡を残す。潮風のにおいにうっとりと目を閉じた。
「気持ちいい…」
ぐっと天に向かって腕を伸ばすわらしを尻目に、遊作は辺りを見回す。するとプールの壁に背をもたれるようにして立っている子どもの影があった。その足元にはハンドボール大の眼球らしきものが転がっている。シュールな光景だ。
「わらし、あそこに影がいる」 「えっほんとに?」
遊作に促されて振り向けば、確かに二脚のビーチチェアの後ろで、本を読みながら佇んでいる影がある。陽の光が強いので黒い影はくっきりと見える。その姿にわらしはふと声を漏らした。
「……あれ? あの子、もしかして…」
二人はその影に近付くと話しかけた。影の少年は本から顔を上げると、空を見上げて言った。
『月が出てた…』
第一声を聞いて、わらしが「やっぱり」と呟いた。
「君、あの時エリナちゃんのことを教えてくれた子だよね?」
わらしが言うと、遊作もまたそれに気付いて少年の影をまじまじと見た。
「そうか、こいつがオスカー…」
人物ノートに書かれていた名前を思い出し呟いた。けれど少年、オスカーは二人の会話など気にも留めず淡々と自分の言葉を語った。
『僕はその明かりで本を読んでた。真夜中ならここは誰も来ないから…』
『…僕は死んだんだ。真夜中に月が赤く染まって…』
それだけ言うと、オスカーはまた本に視線を落としてしまった。
「…月が赤く染まるって、どういう意味だろう」
わらしの疑問に遊作も首を振る。
「わからない。こいつの言うことは抽象的過ぎて的を射てない」 「多分また重要なことを私たちに教えてくれてるんだと思うけどね…、何のことかさっぱり」
二人はオスカーの言葉の解釈を諦めて、先程から気になっていた眼球に目を留めた。一瞬、違うものであれば良いと思ったが紛れもなく眼球である。それにしても大きい。一体これは何なのかと手を触れずに検分していると、ふとオスカーが言葉を漏らした。
『プールの底……あの魚の目だよ……』 「あ、あれの?」 「やっぱり魚だったのか…」 『月が赤く染まる時…その時、それをはめてみてよ…』 「月が赤く染まる時…」
オスカーの中では月は赤い代物らしい。 暗に眼球を持って行けと言われた二人だったが、この不気味で大きな眼球を持ち運ぶのは現実的ではなかったので、とりあえずここに置いたまま先に他をあたることにした。 必要な時にまた取りにくればいい。
船尾甲板からは下に行ける扉がある。床にある扉を開けて、遊作が中を覗き込んだ。
「この下は地下倉庫だな。ポンプ室ともう一つ部屋がある」 「ポンプ室って、プールの水を調整できたりする、あれ?」 「恐らくな」
プールの水を調整したところでどうにかなる訳ではないが、プールの底に描かれた魚の目に眼球を嵌める為には水は無い方が良い。水が入ったままだと眼球が浮いて上手くはまらない可能性がある。 そこで二人は地下に伸びる梯子を下りて地下倉庫に向かった。降り立った場所は暗く、照明が無ければ辺りを見回すことはできない。すぐに照明スイッチを入れ、周囲を確認する。狭い空間だが柱が多くあるせいで余計狭く感じる。“プール用ポンプ室”と書かれた扉を見つけ、ここだと思って開けると、中にいたのは女性の亡霊だった。しかも照明スイッチは部屋の奥にある。
「なっ…」 「やー! やだやだ、戻ろう!!」
亡霊は二人の姿を認めると両手を伸ばして瘴気を放ってくる。慌てて部屋の外に出て扉を閉めた。亡霊はまたしても二人の行く手を阻んでいた。
「も、ほんと……あの人邪魔し過ぎだよ…!」
階段通路での出来事を思い出し、わらしが批難の声を上げる。
「ここを通す気はない、ってことか…」 「遊作くん、何でそんなに冷静なのー…」
疲れた声でがっくりと肩を落とす。先程と違って部屋の中央に待ち構えられているのでは、強行突破することも叶わない。無理に通ろうとすればまた憑りつかれてしまう。聖水があるとはいえ、亡霊の放つ瘴気は強力で未知数だ。避けるに越したことはない。さらに、万が一二人して憑りつかれた場合には一体どうなってしまうのか…。 対峙する時には十分気を付ける必要があるだろう。なにより、あんなことは二度とごめんだ。
結局二人はポンプ室を諦め、正面にある部屋に向かうことにした。ゆっくりとその扉を開ける。と、その瞬間中から女性の声が聞こえてきた。
『どうしよう…動かないわ…』 「!」
慌てて隣にある照明スイッチを入れる。部屋の奥で女性の影がオウムの人形を前に、俯いて呟いていた。
『早く直さないと…私も、あの人みたいに…。殺される……ウィリアム様に…』 「またウィリアムか…」 『神様…どうすれば……』
女性の影は消沈した声で囁き、姿を消した。どこに行ってしまったのかと思えば、今度は違う隅に現れる。二人がそちらに向かって歩けばまた姿を消し、オウムの前へ。そんなことを繰り返して、女性には一向に近付けなかった。彼女は既に自分が死んでしまっていることも忘れたまま、ウィリアムを恐れていた。
「この人…メイドさんかな。ウィリアムのことを様付けしてたし…」 「あの男が手に掛けるのは手当たり次第だな。本当に、人を殺すのが日常になってたんだ」 「うう……そんな雇い主の元で働くなんて、絶対無理…」
二人はそう言いながら、女性の影が最初に立っていたオウムの人形の前にやってきた。
「動かないと言っていたのは、こいつのことか?」
遊作がオウムの人形を調べると、それは先程階段通路で見たばかりのカラスのおもちゃとよく似たものだということが分かった。カラスと同じく、背中に蓋が付いている。開けてみれば、中の歯車が一つ足りなかった。
「…………」 「…………これってもしかして、歯車を入れればいいだけ?」 「まさかそんな単純なことがある訳が……ある」 「やっぱり」
大方、スイッチを押してもオウムが鳴かないので困っていたのだろう、あのメイドは。それでウィリアムに殺されると怯えていたのだ。だが二人の手元には既に歯車はなかった。カラスのおもちゃの中に置いてきたままだ。
「仕方ない、一度あそこまで戻るか」 「まさか鳥のおもちゃが両方とも歯車紛失してるなんて思わないもんね。一体誰がこんないたずらをしたんだろう…」 「それは、歯車を宝箱に入れたやつが知っているんじゃないのか?」 「……あ」
つまり、そういうことだったのだろう。 二人は歯車を取りに、階段通路まで戻ることとなった。
>>SUMMER VACATION!−12 |