しばらくして落ち着きを取り戻したわらしは、遊作から離れると精一杯の笑顔を向けた。
「ごめんね。もう大丈夫だから、次、いこっか」
にこ、と笑う顔はどこか無理しているようにも見える。遊作が心配しながら本当に大丈夫なのか尋ねると、首を振って答える。
「平気。ずっと落ち込んでる訳にもいかないし…私たちにもやらなきゃいけないことがあるから」 「そうだな。だが無理はするな」 「ありがとう。遊作くんがそばにいてくれるだけで、全然無理じゃなくなるよ」
そう思っているのは遊作も同じだった。わらしは遊作に微笑むと、話をガラリと変えた。
「それでね、少し思ったんだけど。船の呪いを解くって、こういうことなのかな」 「……乗客の魂を成仏させることか?」 「うん。この船……オルフェウス号は沈没したっていうよね。さっきの男の人も、きっとその時に亡くなって……ずっと成仏できなかったんだと思う。だから、同じように成仏できなくて船を彷徨ってる人たちを船から解放してあげれば、先が見えてくるんじゃないかな」 「呪いを解くには成仏させる、か…。妥当な判断だな」
遊作は顎に手を当てて考え、わらしの意見に同意した。
「そうと決まれば、影の霊には積極的に話しかけていった方がいい」 「悪霊じゃなくて良かったよね」 「あぁ。一時はどうなることかと思ったが…」
そうあちこちにゴロゴロと悪霊がいたら対処に困るところだ。 二人は今後の方針を固めると、改めて当初の目的であった海図室へと向かうことにした。
上階の右側甲板から、左側甲板とを繋ぐ連絡通路に入る。その中央にやってきた二人は、扉の前でマップを確認し、深呼吸した。
「あくまで照明スイッチが優先だが、影の人物がいた場合には話を聞いてみる」 「さっきみたいにまたどこかに飛ばされるかもしれないもんね」 「そうだ。だが話が長くなるようなら一旦外へ退避する。長くなればどうなるかわからないからな」
頷き合い、扉を勢いよく開け放って中に入った。部屋の中は例に漏れず薄暗く、照明を付けなければ少女の霊がやってくるのは時間の問題だろう。急いでスイッチを探すが、しかしスイッチよりも先に目に入ったのは、机にもたれかかりながら頭を抱えている男の影だった。
「遊作くんあれ…」 「あぁ。スイッチは……ここもダメか」
わらしの指摘をよそに照明のスイッチを探し当てた遊作だったが、押しても反応はない。残念なことにここも配線が切れているのか、明かりが付くことはなかった。
「仕方がない。とりあえずあいつに話しかけてみるぞ」
わらしの手を引いて男に近付いた遊作は、おい、と言って声を掛けた。男の影は遊作の掛け声にも関わらず終始怯えた様子で、『暗い……あいつが来る…カギを閉めたのに…どうして…』と呟いていた。そして次の瞬間、男の影に吸い込まれるようにして場面が変わった。二人は夜の波止場にいた。
「…思った通りだったな」
周囲を見回して遊作が呟く。
「それはいいんだけど……この飛ばされる感覚って、何度やっても慣れないよね。なんか変な感じ…」 「まぁ、仕方ないだろうな」
そう言う遊作は既に割り切っている。LINK VRAINSにログインする時も似たような感覚だから、わらしよりは慣れている感じだ。
夜の波止場は当然だが静かだった。海に面する様に大型の倉庫が一列に並び、前面のシャッターは固く閉ざされている。その内の一つに手を掛けようとした遊作だったが、近くを歩いていた船員に止められる。その手には大きな荷物を抱えていた。
「おい、ちょっとどいてくれ」 「あぁ、悪い」
遊作が退いたところを船員は通過していく。その後ろ姿を眺めていた二人は、あることに気付いた。
「今の男の人って、もしかして…」 「海図室にいたやつだな。ということはここはあの男の過去か」
体型や風貌から言って間違いない。船員なら、海図室にいたことも頷ける。
「話しかけてみるか」
遊作が前を行く船員に声を掛けると、船員は歩みを止めずに首だけ振り向き、面倒くさそうに答える。
「何だい、あんた? 船が来るまでに済ませろって言われてるんだ。邪魔しないでくれ」
どうやらこの箱を船が留まる位置まで運ばなければならないらしい。他に仕事をしている船員はおろか、ひと一人いないのに。二人は男の邪魔にならないよう少し後ろから着いていくと、船に接続するタラップの近くで男は荷物を下ろした。ふー、と息を吐いて海を見ている。これで終わりだろうか。遊作が再度男に話しかけた。
「あんたたち、何か用でもあるのか?」 「すまないが、少し話が聞きたい」 「話? っておいおい、そこのあんた、何やって…」 「?」
男の視線に導かれて遊作が振り返ると、そこではタラップの前でゴム手袋を持ったわらしが立っていた。色々な意味で驚いた遊作が目を丸くして問う。
「わらし、それは…」 「あ、あのね。ゴム手袋見つけたから、ちょっと借りようかなーって思って取ったんだけど……ダメだったかな」
そう言って申し訳なさそうに遊作の様子を窺う。遊作としては良くやったと褒めたいところだが、男の反応を見るとそうも言えなさそうである。 男は、備品であるゴム手袋を勝手に取ったわらしに咎めるような視線を向けながら、歩み寄ろうとしてきた。その時突然、男が先ほど運んでいた荷物が内側から壊れ、少女の霊が飛び出してきた。
「な、何だ……?」
驚いて思わず立ち止まる。しかし驚いたのは男だけではない。遊作とわらしもまた少女の霊の出現に身を固くし、警戒態勢に入った。とりわけわらしの恐怖は尋常ではなかった。
「や…! ま、また出た…! 何でここにも出るの…!?」
過去に飛べば安全だと勝手に錯覚していた。 少女の霊は男に狙いを見定めると、両手を上げながらゆっくりと近付いてくる。男は後ずさりしながら手を振って追い払おうとした。
「何だよ! 何なんだ、こ、こいつ!!」 「早く逃げろ!」 「逃げるったって…、う、うわぁ、く、く、来るな! こっちに来るなよ!!」
追い詰められた男は倉庫の前でへたり込むと、腕で頭を覆って視界を隠した。恐怖に駆られて直視できない。少女の霊は笑いながら男に近付き、そして。
「や、だめ……やめて!!」
力を行使しようとしたところで、二人の体は過去世界から追い出された。
薄暗い海図室に戻ってきた。 未だ恐怖に身を震わせているわらしの腕を引っ張り、遊作は部屋の外へ連れ出した。扉の閉まる音がする。
「……あの人、あそこであの女の子の霊に…」
わらしの呟きを遊作は否定した。
「…そう考えるのは気が早い」 「どうして…?」 「あそこであの男が殺されていたのだとしたら、この船には乗っていないはずだ」 「…あ」
わらしが気付いたように瞬きをする。その眼前で、遊作はしかし難しい顔をしていた。
「だが、一つ気になることができた。この船は出航する前から呪われていたんじゃないか? あるいは、呪われて当然の状態だった」 「あの女の子がいたから…?」 「…あの子供はこの船に何らかの怨みを持っているのかもしれない。いや、船に対して怨みがあると考えるのは変だな。となると、船に乗っている誰かを怨んでいたのか」 「あんな小さな子が怨みを抱くって…」 「よっぽどのことだな。考えられるのは、……、誰かに殺された、か」 「そんな……」
遊作の推理にわらしは言葉を失う。少女の霊はまだ10歳にも満たない女の子だ。それこそ列車の中で会ったクレアより幼い。 悲しい仮説に心を痛めるわらしをいたわるように、遊作は付け加えた。
「単なる推論だ。今はまだ、何もはっきりしていない」 「うん…」 「この船の謎を解いていたら、いずれ判明する」
ただの願望だが。遊作の優しさはわらしに伝わっていた。 頭を切り替えて、この後のことを考える。
「それで、これからどうする? 今行けるところは全部行っちゃったけど…」
マップを広げて作戦会議を開く。
「あとは例の倉庫だけど…、幽霊が出るって分かってる部屋には…行きたくないよねぇ」 「…それなんだが。一つ可能性がある」 「可能性?」 「実はさっき思い出したんだが、あの倉庫の奥に工具を掛けるボードが見えた気がした。もしペンチかニッパーがあれば、ワイヤーが切れる…」 「……え。いや。あの。ちょっと待とうか遊作くん…。ま、まさかもう一度あの倉庫に行く気? ダメだよそんなの!」 「だが他に行けるところもない。幸い、ゴム手袋はわらしが手に入れた」
そう言ってわらしの手の中にあるゴム手袋を見つめる。波止場からそのまま持ってきてしまっていた。それを不思議そうに見つめながら、わらしは呟く。
「過去の物を今に持って来れるとは思わなかったけど…」 「この世界にどんな法則が働いているのかはわからない。だがこれで、あとはワイヤーさえ手に入れば配電盤を直せる」 「それはそうだけど……でも……」 「決まりだな。急ごう」 「ちょ、ちょっと私の話聞いてる!?」
遊作の決定にわらしが異を唱える。少女の霊が出る暗闇の倉庫にわざわざ出向くのは自殺にも等しい。馬鹿げた行為だ。しかし遊作の方は本気だった。
「何度も言うようだが他に行ける場所はない」 「いやいや、それだけは絶対にいや…!」 「だったらわらしは外で待っていればいい。俺が一人で行ってくる」 「だからそれもイヤだって!」
結局、度重なる議論――というかわらしの我儘――の末、二人で倉庫に入ることになった。わらしの目尻に涙が浮かんでいるのは致し方ない。生来怖がりなのだ。
「こわいって……絶対出るでしょあの子……」 「俺が囮になるから、その間に頼んだぞ」 「うぅぅ……わかった…」
わらしは汗ばむ拳をきゅっと握り締め、扉の前に立った。今回は遊作が先に入る。少女の霊を引き付けたところでわらしが部屋の奥の工具ボードまで走り、戻ってくる作戦だ。足が竦まなければ良いのだが。
「ね、ねぇ、あの子だけだよね? 他にも出て来たら対処できなくなるよ…」 「その時はその時だ」 「う〜…」 「ほら、行くぞ」
遊作は勢いよく扉を開けると、中に入って少女の霊を探した。少女の霊はすぐに現れて遊作の体を操る。その隙を見て、わらしが走った。
(怖い怖い怖い怖い……でも私がやらなきゃ、遊作くんが危ないし…!)
愛する人を傷付けたくないというのはわらしも同じ気持ちだ。部屋の奥に辿り着くと、ボードに掛かっていたペンチを取って踵を返す。
「遊作くん、あった…!」 「よし、早く戻ってこい!」 「うん!」
駆け足で入口まで戻ったわらしだったが、あと少しというところで少女の霊と目が合う。フフフフ、という笑い声が耳の中で木霊する。あ、まずいかも。そう思った時には体の自由が利かなくて――
「わらし!」
遊作の体が全力でわらしの体を押し退けた。
ダン、と部屋の外に弾き飛ばされる。覆いかぶさるようにして遊作が倒れ込んできた。 少女の霊はまたしても獲物を逃してしまった悔しさを顔に浮かべながら、闇の中へと消えていく。とりあえずは助かったようだ。
「……い、いったぁ……」
全身を床に打ち付けたわらしは遊作の体を退かしながら起きると、二人で怪我を確認し合う。
「大丈夫か」 「うん…」 「ペンチは?」 「あ! …これ、」
わらしは掌の中にあるペンチを遊作に見せた。しっかりと握り締めていたおかげで無事に部屋から持ち出せた。遊作も満足そうに頷く。
「よし、船長室に戻るぞ」
連絡通路を出て甲板から船長室に入る。寝室のタンスを前に遊作はペンチを使い、巻き付いていたワイヤーを切り落とした。それを拾って鞄にしまう。
「これで配電盤もなんとかできるね。電気さえ付けば、あの子も出て来られないはず」 「そうだな。だがまずはここに何が入っているかだが…」
遊作は緊張気味に両開きのタンスを開けた。 入っていたのは、紫の表紙に星が描かれた本だ。二人がそれを認識した直後、その本から声がかかる。
『待っていたよ』 「…え!?」 『…さぁ、こっちへ…』
本は一人でに浮き上がり、わらしの前で止まる。それは手に取ってくれと言わんばかりに発光していた。わらしは怯えた様子で呟いた。
「今の…男の人の声…?」 「気を付けろ。本を手にしたら、何が起こるかわからない」 「うん…」
言いながら、ゆっくりと息を整える。 できることならこんな怪しさ満点の本に関わることは避けたいが、タンスにはこの本しか入っていなかった。先に進む為には否が応でも触れなければならない。 待っていた、と言われたからには声の主と対面することになるのだろう。今度は一体どこに飛ばされるのか。
「…さわる、よ」
わらしはゆっくりと手を伸ばし、発光する物体を手にした。 その瞬間、二人の体は空間を超えた。
二人が降り立ったのは天球儀のある小さな部屋だった。周囲は薄暗いが、照明のスイッチはなく微かに冷たい空気が漂う。八角形の床に合わせてコンクリートの壁が八枚覆い、何となく窮屈な印象を受ける。窓はない。近くでは時折狼の遠吠えが聞こえた。
「ここ……どこかな。多分船の上じゃないよね」
わらしは剥き出しの腕を摩り、周囲を見渡す。遊作は落ち着いた様子だった。
「天球儀に、中は見えないが陳列用のケースがある。建物の形状から考えても、ここは天文台なんじゃないか?」 「天文台…。そういえば、本の表紙にも星が描いてあるよね」
わらしは表紙を開いて中を見た。ハードカバー製本の割には中身はたった3ページしかない。タイトルは『彗星の本』だ。
全ての魂たちよ 迷える魂たちよ
私は待っている
星の住む家で
運命に挑む者よ 運命に迷う者よ
私は待っている
星の住む家で 太陽の向こうで
太陽に彗星を掲げる者よ
私は待っている 私は待っている
「…これだけか」 「えーっと……ポエムか何か?」
著者の詩的センスにわらしは半笑いだった。
「本から得られる情報はあまりないな…」 「となると、やっぱりここを調べないといけないよね」
建物には出入り口とエレベータがあった。しかし扉の方は鍵が掛けられているのかビクともしない。諦めて、二人はコンクリートの壁に囲まれたエレベータに乗り込んだ。 エレベータはガラス張りになっていて、そこから外の様子が窺える。光源が月明りしかないので視界は良くないが、ぼんやりと見えた限りでは草原が広がっており、野生の狼がうろうろしている。先ほどの遠吠えは聞き間違いではなかったようだ。 扉が開かなくて良かった、とわらしは逆に安堵していた。
「行き先は……、?」 「どうしたの?」
行き先を選ぼうとして、遊作が眉を顰める。
「おかしい。2階へ行くボタンがない」 「…ほんとだ。選べるのは一階か三階だけだね」 「ここが一階だから、実質的には行けるのは三階だけか」
遊作は躊躇いなく三階のボタンを押した。 エレベータが鉛直運動を始めた直後、わらしが遊作の手を握った。
「どうした?」 「あの、えっとね……エレベータって言うと、やっぱりホラー的には扉が開いた瞬間が色々と……ありそうで…」 「………」 「ちょっと心の準備を、って思ったの…」
わらしがそんなことを言ったので、遊作も内心警戒する羽目になってしまった。結果から言えば、エレベータは至極平和に三階に着き、扉が開いても何も起こらなかったのだが。待ち構えているゾンビなどはいなかった。
「良かったぁ…」
ホッと溜息を吐く。 三階に降りると、正面には小型の望遠鏡があった。それこそ家庭用のものではなく、天文台にしか設置されていない特殊な望遠鏡が。
「やっぱりここは天文台か…」
遊作が一人納得している傍らで、壁を見ていたわらしがわめきたてた。
「遊作くん、ちょっと見て! これ、操舵室にあったのと同じやつじゃない?」
振り返れば、わらしが壁に飾られた太陽のレリーフを見て遊作を呼んでいた。傍に行って確かめる。
「確かに…同じだな」 「ってことはやっぱり、これヒマワリじゃなかったんだ…」 「そこはどうでもいいだろ」
わらしの台詞にツッコミつつ、遊作は周囲を見渡した。造り自体は一階と同じだが、望遠鏡と太陽のレリーフ、それに太陽と彗星の絵が描かれた小さな黒板があるくらいで目ぼしいものは何もない。
「…あの声の主はどこにいるんだ?」
思わず口からそんな言葉が漏れた。人を呼び寄せた割には姿を見せないというのは変な話である。その時、黒板を見ていたわらしが呟いた。
「これ、どういう意味かなぁ…」 「何がだ?」 「この絵。太陽に彗星が降り注いでるように見えるけど……そもそも天文台に黒板とか、すごくミスマッチだよね」 「…ということはこれが何かのヒントか」 「太陽が壊れるっていう?」 「そんな訳はないと思うが…。この、太陽の後ろにある鍵穴が気になるな」 「鍵穴といえば扉…」 「入口の場所を示しているってことか?」
遊作とわらしは推論を重ねながら入口を開く方法を探した。
「太陽って言うと、あのレリーフしかないよね」 「彗星は……その本か。この絵は彗星が太陽に降り注いでいるように見えるが……待てよ。さっきの本に‘太陽に彗星を掲げる者よ’ってあったよな。つまりそういうことか?」 「…やってみる?」
二人は太陽のレリーフの前に立って彗星の本を掲げた。
「これで移動できちゃったら簡単なんだけど…」
冗談交じりに笑うわらしだったが、直後視界が暗転しぐらりと揺れる。
「え? え?」 「結局これが正解なのか…」
戸惑う間もなく、二人は一瞬でその場から姿を消した。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
二人がいたのは薄暗い小さな部屋の中だった。壁の模様や雰囲気こそ違うものの、八角形の床に八枚の壁、そして背後のエレベータは間違いなく先ほどまでいた天文台と同じものだ。どういう訳か、全く知らない部屋の中に来ているが。 正面には眼鏡を掛けた男が椅子に座り、テーブルに腕を置いていた。その様子はどこぞの占い師を連想させる。そもそも部屋の中に飾られている水晶やその他小道具は、明らかに占い師が使うものだろう。 男の前で立ち尽くしていると、正面から声が掛けられた。
「……どうした、まぁ入りたまえ」
一歩踏み出せないわらしに代わって、先に遊作が前に進んだ。
「どうだね、船の旅は。なかなか楽しそうじゃないか」 「…あんたが俺たちをここに呼んだのか。何故俺たちが船の上にいたことを知っている? 何が目的だ?」 「そう構えなくても良い。私には少し変わった力があるだけだ」
男は遊作の質問をかわすと、眼鏡の位置を直す。わらしはその時初めて、その男の目が見えていないことに気付いた。わざわざ眼鏡を掛けている理由はわからないが。 男は遊作とわらしを前に、ゆったりとした口調で話し始めた。
「…私は目が見えない。代わりに作ったのが君たちの持っている本だ」 「これをあなたが…?」 「その本は世の中を巡り、私はそこから世界を見ることが出来る。そう、ありとあらゆる世界をね。クックックッ……」
男の笑いに不気味さを感じだ。引き気味のわらしを庇うように遊作が尋ねた。
「聞きたいことがある」 「君たちがこの世界に飛ばされた理由かい? それとも、元の世界に戻る方法? 船に掛けられた呪いについて? …残念ながら、私にはそれらの質問に対する回答は持ち合わせていない。申し訳ないが諦めてくれ」
聞きたいことを全て一刀されてしまい、遊作もわらしも黙るしかなかった。そもそもそれほど期待もしていなかったが。
「……ところで、君は面白いものを持っているね」 「面白いもの…?」
男がわらしの方を見て言う。わらしは何のことかわからなかったが、ふいに向けられた視線に「この人本当は目が見えているんじゃ…」と思った。首を傾げていると男は掌を持ち上げて言った。
「君たちが見つけた球のことだ」 「あ……あの男の人の」 「そうだ。それを譲ってはもらえないかな?」 「待て。その前に球について詳しく聞きたい。あれは何なんだ?」 「それは…そうだね、簡単に言えばある種のエネルギー体だ。私にはある目的がある。そのためにはそれが必要なのだ」 「そうは言っても、あれ、触ったら消えちゃったし…」 「何を言っている。そこにあるじゃないか」 「え?」
男が言うと、わらしの体から紫色の半透明の球が出てきて、胸の前で止まる。
「え? え??」
驚いて腕を体の前に持ってくると、男は不敵に笑っていた。
「それは、君の中にあったよ。手に入れてからずっとね」 「そんな…」
軽くパニックになっていると、遊作がその手を繋いだ。落ち着け、と言われているようだ。 わらしが気を取り直すと、男は改めてその球を要求した。
「それで、その球を譲ってはくれないかね? もちろんそれなりのお礼はしよう。必ず役に立つものだ」 「えっと……」 「どうだろう、承知してはもらえないかな?」
どう判断して良いのかわからなかったわらしは、ちらりと横にいる遊作の顔を窺った。遊作はこの奇妙な男を前にしてブレることなく平静を貫く。
「……考えておく」 「そうか。私はいつでもここにいる。その気になったらまた来てくれたまえ」
男の言葉にそれ以上応えることはなく、遊作は踵を返した。つられてわらしも男に背を向ける。 目の前のエレベータに乗り込もうとした時、背後から声が掛かった。
「おっと、大切なことを忘れていたよ。君にこれを渡しておこう」
そう言って提示されたのは、黄金の枠に嵌められた青い宝石だった。割れているせいで半分しかない。
「これは…」 「この石は君の運命を握るものだ。大切にしたまえ……」
宝石は宙を漂い、遊作の手に届く。無言で受け取ると男にはまたあの不気味な笑い声を漏らした。
「フフフフ……」
その声を最後に、視界が切り替わる。
船長室に戻ってきた二人は、青い宝石を前に呟いた。
「この宝石は……ヘンリーがクレアに渡してたものだな」 「これが?」 「あぁ。間違いない」
遊作が頷く。列車内での出来事はわらしは途中から見ていなかったので、遊作の言葉に神妙に頷くとそれを手に取り眺めた。
「綺麗だよね。何で半分なのかは気になるけど」 「あの男が持っていた理由も気になるな。本来、これはクレアが持っていたはずのものだ」 「宝石といい、紫色の球のことといい……あの人は何者なんだろう…」
二人は顔を見合わせた。
「…今はそれを考えても仕方がない。それより、配電盤を直す為に連絡通路に行こう」 「あ、そうだったね」
遊作に促され、二人は船長室を出てすぐ近くの連絡通路に行った。中央にある配電盤の蓋を開け、遊作がゴム手袋をはめる。先ほど手に入れたワイヤーを指で曲げ、うまく基盤に引っ掛ける。これで今まで照明が付かなかった部屋にも電気が通るはずだ。 蓋を閉め、手袋を外す。
「ふう…ここまで、長かったな」 「そうだね。ワイヤーとゴム手袋を手に入れる為に、あっちこっち飛ばされて…」 「本当に電気が通っているかどうか、確認してみよう。まずはそこの倉庫からだ」
言って配電盤の正面にある扉を見つめる。 二人は息を飲みながらドアノブに手を掛けると、ゆっくりと開く。隙間から照明の光が漏れ出したのを見て、安堵しながら全開にした。そこに少女の霊の姿はなかった。
「大丈夫みたいだな」 「やった……やっと付いた…! 本当に怖かったぁ…」
わらしは涙交じりに歓喜の声を上げた。中に入り、念の為何か目ぼしいものはないかと調査をするが、特にこれといったものはなく部屋を出る。その後、上階の海図室にも向かい同じ様に電気が通っているかどうかを確認した。海図室は明るく照らされていた。
『光だ……』
暗い部屋で頭を抱えていた船員の影は、煌々と光る照明を見上げて希望を取り戻した。
『これでもう……あいつは来ない……』
心から安堵した声だった。その声を最後に、影は泡となって消える。残った紫色の球体を手にすると、先ほどと同じ様に弾けて消滅してしまった。男が座っていた椅子に小さな鍵が落ちていた。
「よっぽど怖かったんだね…。成仏してくれたみたいで良かった…」 「そうだな。ついでに、俺たちも先に進める手がかりを手に入れられた」
鍵を拾い、遊作はわらしと共に海図室を出る。すると部屋の前には船長である男の影が佇み、二人が出てくるのを待っていた。
「船長さん…!」
わらしが声を上げる。船長の影は俯きがちに二人の前に立ち、淡々と独白を述べた。
『みんな死んでしまった…あの嵐の日に…… ここにいるのは影だ…かつての自分の姿を持ったままの影… 私は待ち続けていた…救いが現れる日を…… この船を……救ってくれ…』
そう言って、影は泡となって消えた。球体を手にした後で、船長の思いに心を打たれた遊作とわらしが言葉を交わす。
「船長さんはずっとこの船を守ってたんだね。私たちを助けてくれたのもきっと、この船を救う為に…」 「あの男は船に乗るすべての命を預かっていた。その責任も後悔も、人並外れていたんだろう」 「うん…。遊作くん、私たち…絶対にこの船を呪いから解いてあげようね…」 「あぁ」
両者とも同じ気持ちを確かめたところだったが、急にわらしの体がぐらついた。慌てて遊作がその体を支える。
「大丈夫か?」 「ごめん。安心したら気が抜けちゃったみたい…」 「少し休もう。この世界に来てから結構な時間が経ってる」
遊作はわらしを連れて船長室へと戻った。服を簡単に脱がせると寝室のベッドに横たえ、ジュノンから受け取った《ゴブリンの秘薬》を飲ませる。
「ありがとう」 「これで楽になればいいが」 「ジュノンがくれたものだもん。効かないはずはないよ。…でもちょっと疲れたから、今日のところは休みたいかな」 「そうだな」 「…ね。遊作くんも隣に来て」
遊作の服を引っ張り催促する。同じように楽な恰好になると、遊作も布団の中に滑り込む。横になった途端に疲労が襲って来た。
「疲れたな…」 「朝からいっぱい動き回ってたもんね。ハートランドではジェットコースターにも沢山乗ったし」 「そういえばそうだった…」
むしろ遊作としてはそっちのダメージの方が大きかったのではないか。 わらしの頭を腕枕しながら肩を撫でていると、ふいに思い出したようにわらしが口を開いた。
「あのね。ちょっと聞きたかったんだけど」 「何だ?」 「ジュノンから貰った《ゴブリンの秘薬》に……その……あの成分が入ってるって、遊作くん、なんで知ってたの?」 「!」
唐突に尋ねられた事項に、一瞬で眠気も吹っ飛んだ。気恥ずかしいのか、わらしは遊作から目を逸らしながら「遊作くんは実体化したカードなんて、私のラーイとかエクゾディア、あとファイアウォール・ドラゴンくらいしか見たことがないよね? なのにどうして…」と呟いている。これは答えなければならないのか。
「………大した理由じゃないが」 「うん。教えて?」 「……ネットの都市伝説みたいなものだ。昔から、カード一枚に対して想像を掻き立てられることってあるだろう。例えば、《名犬マロン》は毎日ステーキを食べてたんだろうな、とか、《サウザウンド・アイズ・サクリファイス》は《ゴヨウ・ガーディアン》と仲が良いんだろうな、とか。それの延長みたいなものだ」 「それで、《ゴブリンの秘薬》にもそういう成分が入ってるんじゃないかって?」 「あぁ…。くだらない妄想だ」
かつてリボルバーが「そもそもネット世界などすべてが虚構」と言っていたのが思い出される。今回ばかりはその馬鹿げた妄想が的を射ていたのだが。
「みんな色々想像してるんだね…」 「カードの精霊と繋がっているわらしには縁のない話だろうが」 「そんなことないよ。たまに会う精霊に聞かされることがあるから。この間なんか、《キラー・トマト》に『俺、似てるやつがいるって言われてるんだけど誰のことかわかる?』って聞かれたりしたもん。私にはわからなかったけどね」 「精霊も人間の噂を気にしたりするのか…」
遊作はどことなく遠い目をして言った。キラー・トマトに似ている人物とは誰のことだろう。
「あ、ちなみに《マロン》は毎日ステーキ食べてた訳じゃないみたいだよ。ステーキとかお寿司とか、日替わりだったみたい」 「…それはそれで問題だな」
飼い主に甘やかされて育った、という設定は本当らしい。遊作の想像を斜め上に行く甘やかされっぷりだったが。 ふぁ、とわらしの口からあくびが漏れる。
「そろそろ寝るか…」
遊作は部屋の照明を落とそうとして気付き止めた。悪霊から身を守る為には常に部屋を明るくしていなければならない。少し眩しいが、布団をかぶってしまえば平気だろう。 甘えるようにしてわらしが遊作の胸に擦り寄った。
「遊作くん、おやすみ…」 「あぁ、おやすみ」
良い夢を。
そうして二人は深い眠りに落ち、この世界に来て初めての夜を迎えた。
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