扉の向こうは既に夜の帳が落ちていた。と認識するのと同時に、どこからか笑い声が聞こえた。
『フフッ…フフフフフ…』
横を向けば、正真正銘女の子の霊が宙に浮き、二人を見ている。
「――っきゃー! 出たぁぁぁ!!!」
わらしはすかさず叫んだ。遊作はわらしを連れて逃げようとしたが何故か体が動かない。少女の霊が両手を二人に向けると、遊作とわらしの体が宙に浮き上がった。まずい。そう思うよりも早く、二人は壁に叩きつけられていた。
「――っあぅ…っ」 「わらし!」
繋いだ手を頼りに状態を確認するが、わらしは背中を打ちつけ咳き込んでいた。目をつぶって苦痛に耐えている。それを見た遊作は手を離して少女に立ち向かって行った。これ以上わらしを傷付けさせる訳にはいかない。 自身もダメージを負っているが動けない訳でもなかった遊作は、少女に向かって拳を突き出した。しかしそれが届くことはなく再び硬直してしまう。先程と同じように叩きつけられる体。どうやら幽霊相手に肉弾戦は全く意味をなさないようだ。かくなる上は、一度さっきの部屋に戻るしかない。
「部屋に戻るぞ!」
叫んでわらしの手を取った瞬間、二人の体は再び浮き上がり、笑う少女の餌食になろうかというその瞬間―――
パチリ
甲板の電気が付いた。消える少女の霊。床に足を着く遊作とわらし。 何が起きたのかはわからないが、助かったのか?と考える間もなく、どこからか新たな声が二人の耳に聞こえてきた。落ち着いた男の声だ。
『光だ。やつらは光を嫌う』 「誰だ!? 姿を見せろ!」 『……私はこの船にある力と戦わなければならない。それが私の運命だ……』 「何を言っている!?」 『すべてが終わったら迎えに来る。それまでここにいるんだ。下に行ってはいけない。いいな、リチャード……』 「! 待て、」
制止も空しく声の主の気配はなくなった。
(今のは…)
遊作が声の主について考えていると、床の上にうずくまっていたわらしが身じろいだ。ハッとして声をかける。
「大丈夫か」 「…な、んとか……」 「怪我は?」 「ううん、平気…」
わらしは額を押さえながら2,3度頭を振った。軽いショックを受けているようだ。
「遊作くんは…? 2回も叩きつけられてたでしょ…」 「俺の方も大したことはない。だが…」
一度言葉を切って、辺りを見回す。二人がいる場所は船の甲板である。最初にいた場所と左右対称の造りになっているから、船長室を挟んで両側面にあたる場所らしい。甲板といっても上に登る階段があり、そのおかげで上階部分が天井の役割を果たしている。照明はその剥き出しの板にぶら下がっていた。
「明かりが付いたから、あいつは消えたのか…?」
男の話を信じればそういうことになる。見れば、壁には照明スイッチがありオンになっている。スイッチの上には小さな非常灯が付いているので、暗い中でもすぐにスイッチの場所がわかるようになっていた。 座り込んでいるわらしを立たせて考察を続ける。
「ねぇ遊作くん、さっきの声って誰なんだろう…船長さんとは違うよね」 「…おそらく、ヘンリーだな」 「ヘンリーさん?」 「俺のことをリチャードと呼んでいたし、運命がどうのこうのと言っていた。日記にあった通り、あいつもこの船に来ているんだろう」 「さっきのが…」
わらしは不安そうな表情で自身の腕をきゅっと掴んだ。
「ヘンリーのおかげで助かったが、奴は行ってしまった。下に行くなと言っていたからには、下に行けば会える可能性が高いが…」 「…途中で絶対また出てくるよね、女の子の幽霊…」 「船長が部屋から出るなと言っていたのはこのせいか」
遊作は納得したように呟いた。怯えているわらしを見て言葉を選んで伝える。
「俺はこの船について色々調べたいと思っているが、わらしはどうする? 幸い、あの部屋にいれば照明も付いている。そこにいれば安全だが…」 「……私も行くよ」 「平気なのか」 「怖いことは怖いけど、やっぱり置いていかれる方が怖いし…。ホラー映画じゃぁこういう時、安全だと思ってた場所が安全じゃなくなるとかよくあることだから…」
結局、一緒に行動するのが一番安全なのだ。遊作はゆっくりと頷いた。
「…わかった。でも無理はするなよ」 「それは遊作くん次第かなぁ…」
はは、と乾いた笑みを貼りつかせ、わらしは呟いた。
それから二人は念のため甲板の上を調べ、特に何もないことを確認して新しい扉の前に立つ。甲板から、船長室とは違う場所に繋がっているはずの扉だ。ドアノブに手を掛ける前に最終調整をする。
「確認するぞ。ドアを開けたら、まず照明のスイッチを入れる。スイッチの場所は赤い非常灯があるところだ」 「明かりさえ付いていれば幽霊は出てこないんだよね?」 「そのはずだ」 「わかった。…足だけには自信あるから、役に立てると思うんだけど」 「どちらかがスイッチを入れられればいい。いいな、スイッチが優先だぞ」 「うん」
遊作とわらしは息を整えると、ドアノブを緊張気味に回した。中に入った瞬間、少女の霊が二人に向かってきたのが見えたのも束の間、一瞬で姿を消した。
「――ひぇっ…」
わらしがその場で尻もちをつく。心構えをしていたとはいえ、サプライズ要素にはめっぽう弱い。 そんなわらしを置いて遊作は素早く移動すると、一目散に照明のスイッチに向かった。急いでスイッチを入れれば、パチッという音と共に辺りが照らされる。そこは甲板と甲板を繋ぐ通路のようだった。真っ直ぐに伸びた廊下の先に同じような扉が見える。 遊作はわらしのところまで戻ると、手を差し伸べて起こした。
「さっそく出たな」 「だ、だからあぁいうのは…ダメだって言ってるのに……」
つい先ほど役に立てると言っていたのはどの口か。わらしは落ち着かない様子で瞬きを繰り返し、ドキドキと鳴る胸を押さえて弱音を吐いた。ホラーハウスよりも何十倍もたちが悪い。
「中はもう明かりが付いている。早く調べよう」
遊作は通路を先に進んだ。細長い通路は中央で左手にスペースが設けてあり、壁にfuseboxと書かれた小さな箱が付いていた。
「これは…配電盤か?」
蓋を開けて中を覗き込めば、遅れてやってきたわらしも同時にそれを眺める。
「配電盤って、電気を通すのに必要なもの?」 「そうだな…ブレーカーみたいなものだ」 「じゃぁこれがちゃんとしてないと照明が付かないってこともあり得るよね。……でもさ、遊作くん」 「あぁ」 「…私の目にはこれ、片方の部品がないように見えるんだけど」
わらしは2か所ある内の右側の部品を指差した。左側はパーツが全て揃っており問題がないように見えるが、右側の中央には電流を橋渡しする為の金属の金具がついていない。途中で絶縁している状態だ。
「奇遇だな。俺の目にもそう見える」
遊作も頷くと表情を硬くした。
「ってことは…」 「おそらく一部の部屋では照明スイッチを入れても付かない可能性がある」 「やっぱり…!」 「それがどこかはわからないが、部屋を移動する時には明かりが付かないことも念頭に入れておくべきだな」 「あぁぁ……そんなぁ…」
わらしはがくりと項垂れた。これもホラーではありがちな展開である。
「電気伝導性の高い道具が見つかれば代用できないこともないんだが…」 「例えば?」 「ワイヤーとか」 「ワイヤーね……、あ」 「そういえば、さっきあったな」
二人の脳裏に浮かんだのは、船長室の寝室にあったタンスだ。取っ手にぐるぐる巻きにされたワイヤーを再利用すれば何とかなるかもしれない。
「じゃぁ、ワイヤーさえ切るものがあれば何とかなるってことだよね?」
わらしが安堵の声を漏らすと、遊作は少し考えて言った。
「そう言いたいところだが、もう一つ欲しいものがある」 「それは?」 「絶縁体だ。…簡単に言ってしまえばゴム手袋なんだが。電流の流れている配電盤に、まさか素手で作業する訳にはいかないからな」 「そういえばそうだね…」
わらしも頷いて同意する。 それから二人は配電盤の壁沿いに左右に延びる階段を下り、それぞれ新しい扉を発見した。しかしどちらとも向こう側から鍵がかかっているのか開かなかった。仕方なく元の場所に戻り、通路を挟んで配電盤の正面に位置する扉の前に立つ。
「準備はいいか」 「うん……怖くても、今度はがんばるよ」
震えそうになる手を握り締めてわらしは言った。 遊作の合図で扉を開けると、そこは薄暗い倉庫のようだった。といっても物が何も乗っていない木枠の棚が二つ置いてあるだけである。急いでスイッチの場所を確認するわらしたちだったが、現れたのは先ほどの少女の霊だ。笑い声を上げながら遊作たちに近づいてくる。遊作は体の自由を奪われて壁に叩きつけられた。
「遊作くん…!」 「早く、スイッチを…!」 「……、あった!!」
わらしはスイッチを見つけると急いでオンにする。しかしスイッチはパチパチと音を鳴らすだけで一向に明かりが付かない。
「そんなっ…付かない!?」 「クッ…ここがハズレか…」
遊作は痛んだ背中を庇いながらわらしを呼び寄せる。
「一度部屋を出るぞ!」 「うん…!」
遊作の手に引っ張られ、二人は暗い倉庫から転がり出た。少女の霊が笑いながら消えていく。わらしは急いでその扉を閉めた。
「こ、こわかった……」
心臓がドキドキ脈打っている。
「……っあぁ…」 「遊作くん…? ちょ、しっかりして遊作くん!」
わらしは怪我をしている遊作の体を支えて叫んだ。遊作の頭からは血が出ている。叩きつけられたときに切れたのだろう。
「血が…、そんな、どうしよう…」
狼狽えるわらしの肩を押して遊作は壁にもたれかかった。
「大丈夫だ。すぐに止まる」 「でも…」 「傷自体は大したことはない。問題ない。…それより、ハンカチか何かあったら貸して欲しいんだが」 「待って、すぐに出すから」
わらしはリュックを下ろすと乱暴に中を探し始めた。焦る指先は目的のものを上手く掴めない。 遊作は心配するわらしの気を逸らす為にあえてあぁ言ったが、実際はハンカチも必要としない程度の傷である。それよりは打ちつけた背中の方が痛い。 わらしからハンドタオルを受け取って傷口に当てていると、落ち込んだ様子が窺えた。思い詰めた表情に、どうした?と話しかけた。
「ごめんね遊作くん…私全然役に立たなくて…」 「何を言い出すんだ。そんなことは思ってない」 「でも、怖がってばかりでいつも遊作くんに誘導してもらって…。そもそも、私がホラーハウスに来たいだなんて言い出さなければ、こんなことにもならなかったのに…私のせいで…」 「わらし…」
遊作は俯くわらしの体を抱き寄せた。その華奢な体躯を腕の中に収めて、囁くように言った。
「わらしのせいじゃない。自分を追い詰めるな」 「……でも…」 「ホラーハウスだって、俺がわらしと来たいと思ったから来たんだ。海だってパーティーだって…沢山の思い出を作りたかった。わらしと一緒の思い出を…」 「…ゆうさくくん……」 「わらしは言っただろう? 俺と一緒だから楽しい気持ちになれたんだと。あれは俺も同じだ。わらしとだから、何があっても一緒にいたい」 「うん…」
わらしが頷いたのを見て遊作は静かにキスを落とした。触れるだけのキスは情欲をそそるものではないが、二人の心を通わせるには最適だった。 唇を離すと、わらしは頭の傷に触れないように気をつけながら、容態を確認する。
「…せめて、デュエルディスクの電源が入れば良かったんだけど。そうしたら、この傷も治してあげられるのに」
呟いたわらしの顎を引き寄せて、もう一度口付けた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ところ変わって、船の操舵室。 とある高名な魔導法士は、探し物をする為にこの船にやってきた。 欲しいのは、新たな力。それが善か悪かは関係ない。 ただ、必要な力である。それを求める者に渡すための。
かつての魔導法士であれば、手にした力を魔導書に編み込むことに何の躊躇いもなかっただろう。新たな力は新たな道を拓く。魔導を営む者の糧となる。それによって手にしたモノがあった。 しかし―――
(私は思い知ったのです……どのような力を手に入れたところで、決して届かない壁があるということを)
その日から、魔導法士のすべてが変わった。 自分が己を絶対的に肯定できるだけの力を持ち得ないことを身を以て体験した。 だからこそ道を変え、歩みを変え、術を変えたのだが。根本的なところは何ひとつ変わってはいない。魔導法士は、魔導法士たるがゆえに魔導法士なのだ。
壁に掘られた太陽のレリーフに触れる。僅かではあるが魔力の気配を感じ取った。けれどレリーフは魔導法士の魔力に応じることはなく、静かにその存在を漂わせるだけ。 欲しいものは恐らくこの先にある。
(ふむ……私では、その資格がないということですね)
拒まれてしまっては仕方がない。 魔導法士はしばし考えた。引くべきか、強引に突破してしまうべきか。前者は簡単だが、後者は魔導法士とてただでは済まない。ならばその為の準備をするべきか。 そのように考えていた時―――
扉が開き、誰かが入って来た。
振り向けば、驚いたような顔をした女性と目が合う。 長い髪に整った顔立ち。女性として成熟途中のその体。怯えている時に何かを掴む癖は相変わらず。
導かれた運命に尊さを感じた。 全ては必然である。
魔導法士は目を細め、少女だった頃の面影が残るその女性に薄く微笑んだ。
『随分と久しぶりですね。わらし』
魔導法士――ジュノンの声が優しく響いた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
名前を呼ばれて、わらしは咄嗟に反応できなかった。 目の前に現れた女性のことは良く知っている。かつてデッキを組んだこともあった。世紀末にラーイたち【征竜】と共に精霊世界を二分した【魔導書】の中核を成す存在―― 《魔導法士 ジュノン》
「うそ……どうして……ジュノンなの…?」
掠れた声で呟けば、魔導法士は口元を緩ませて応じた。
『えぇ。《魔導法士 ジュノン》といえば、この私にほかなりません』 「でも何でここに……ラーイは存在するのだってつらいって言ってたのに…」
そこまで言った時、わらしのデッキから激しい光が飛び出してきた。ラーイである。無理をしてでも実体化したようだ。
「ラーイ!」 『どうもイヤな感じがすると思ったら……やっぱりオマエたち魔導士が関係してたんだね。ジュノン』 『…ライトニングも久しいですね。会って早々、敵意を剥き出しにされるとは思っていませんでしたが』 『うるさい。オマエたち魔導はいつもロクなことをしないんだよ…』
ラーイは力の入らない体で息も切れ切れに悪態を吐く。その様子を見て、遊作がこっそりわらしに尋ねた。
「あれは…あの人もカードの精霊か? 《魔導法士 ジュノン》なら俺も知っているが…」 「うん。攻撃力2500、守備力2100の、【魔導書】ではバテルと共に絶対に外せない光属性魔法使い族。除去効果もだけど、自身の効果で簡単に特殊召喚できる攻撃力の高いカードだからアタッカーとしても十分に戦えるし、レベルが7だから複数並べばランク7のエクシーズが狙える」 「…わらしにしては珍しく、良く知っているんだな」 「これでも【魔導書】は一人でも回すことができるの。子どもの頃、ラーイに言われて散々デッキを弄ったから…」
昔のことを思い出しながら、わらしは説明する。
「…【魔導書】はその昔、【征竜】とともに精霊世界を二分するほどの力を持ってたんだって。そのせいか、ラーイたちとは少なからぬ因縁があるみたいで、あんまり仲は良くないみたい。唯一ブラスターはジュノンとも打ち解けてるようだけど、ラーイはその……テンペストになっても攻撃力が2400だから…」 「……あぁ、打ち勝てないんだな」 「うん…。バテルにでさえ、ヒュグロセフェルで倒されちゃうからね…本人ちょっと気にしてるみたい。【征竜】で戦えば【魔導書】には勝てるらしいんだけど。今は昔と違ってどっちも力が削がれちゃってるから、何とも言えないかな」
かつて【魔導書】の、ひいてはジュノンの魔力をプライド諸共へし折ったのは【征竜】である。だがジュノンは道を改め、征竜はその力のほとんどを封印された。強すぎる力はいつの世も嫌厭される。
『つらくないですか? あなたの攻撃力では、ここに存在しているだけで苦痛を感じているはずですが』
《風征竜−ライトニング》の攻撃力は500。《デブリドラゴン》で釣り上げられる唯一の子征竜だ。ラーイは眉間にしわを寄せて呟く。
『オマエが現れなければ、ボクだってカードの中で大人していられたんだけどね…』 『でしたら、今すぐにでも戻ったらどうですか? あなたがいなくても、わらしはやっていけるでしょう』 『オマエたちの企みを暴くまではそうも言ってられないよ。…ボクたちが度々見かけたあの本は魔導書だね? 何だってそう点在してるのさ。全ての魔導書はラメイソンに収められているはずじゃなかったの?』
嫌味たらしく問えば、ジュノンは平然と答えた。
『魔導書は全てラメイソンにありますよ。あなたたちが見かけた本というのがどういったものかはわかりませんが、もしも魔力を宿しているものがあれば、それは単なる魔力を帯びた本でしょう。魔導書ではありません』 『どう違うって言うのさ』 『魔導書は、魔導に関わる者が新たな力を蒐集・編纂し既存の魔導書に編み込んだものを表します。よってラメイソンにない魔導書は魔導書とは呼びません』 『そんなの屁理屈じゃん…』
ラーイが悪態を吐いたところでわらしが口を挟んだ。
「ねぇジュノン。私たち、ジュノンに聞きたいことがあるんだけど」 『何でしょうか』 「ジュノンはどうしてここにいるの? 私たちは、《暗闇を吸い込むマジック・ミラー》のせいでこの世界に飛ばされちゃったみたいなんだけど…正直、元の世界にどうやって戻れるのかわからないの。この世界に来ても、何度もあちこち飛ばされちゃってるし…」 『そうでしたか。ではまず、この世界のことを少しお話しておいた方が良いみたいですね』
ジュノンはそう言うと、近くに椅子を呼び寄せて座った。手にしていた一冊の魔導書を開きながら説明していく。
『ここは、精霊とヒトが入り交じる世界の一つ。どちらかと言えばヒトの世界に近いですが、精霊も少なからずいます。私はここにあるものを探しにやってきました。残念ながら、その資格はなかったようですが』 「資格?」 『拒まれてしまいましたので』
ジュノンが欲しいものが何かはわからないが、彼女が欲しいものだ。よっぽどのものなのだろう。
「そうだったんだ。…私たち、この世界に飛ばされていつの間にかこの船にまでやってきちゃったんだけど、この船ってたぶん…オルフェウス号だよね? 昔沈没したっていう」 『その通りです』 「やっぱり…。実はこの日記に書いてあったの。沈没した船に戻らなきゃいけないって……だからそれを追って私たちも飛ばされたのかなって…」 『そうでしたか』
ジュノンはしばし考えると、わらしの顔を見つめて言った。
『私にはわらしが元の世界に戻る方法はわかりません。ただ…、《暗闇を吸い込むマジック・ミラー》の目的は推測することができます』 「ほんとに?」 『件のカードは恐らく、呪いを解いて欲しかったのでしょう。…この船にかかった呪いを』
呪い?とわらしが呟く。ジュノンは魔導書を閉じて窓の外を見た。
『この船は、元々ただの客船でした。人と貨物を運ぶだけの。ところがある時この船に思いもよらぬ力が働き、船は自身を制御できなくなってしまったのです』 「その力って…?」 『……大いなる宇宙の意思、というべきでしょうか。私たちにはどうしようもない力です』
ジュノンの呟きに反応したのはラーイだ。
『ちょっと待って……なんでオマエが‘それ’を知ってるんだ……‘それ’は、ボクたち征竜が…』 『あなたたち征竜に役割があるように、私にも役割があるのです。あなたたちにはできない役割が…』 『そんなの、聞いてない……』 『それはそうでしょう。知る必要はありませんから』
ジュノンとラーイの会話はわらしたちには要領を得ない。精霊世界についての話だろうか。会話は二人の間で完結している。 ジュノンは頭を振ると、続けて言った。
『…とにかく、この船は呪われてしまった。沈没して一度は海に沈みましたが、その後本来行くべきところにも行けなくなってしまい、こうして海の上を彷徨うことになったのです。ですから、この船の呪いを解くということは、邪悪なる力から解き放ち、あるべきところに導くということです。…呪いが解ければ、わらしが元の世界に戻れる可能性はあります』
遊作とわらしは顔を見合わせて頷いた。
「ありがとう、ジュノン。ジュノンのおかげで先が見えてきたよ」 『お力になれなくて申し訳ありませんが』 「そんなことないよ」 「あぁ。それだけ情報を提供してもらえば十分だ」
二人の言葉にジュノンも微笑む。その時、唐突にわらしが呟いた。
「ねぇ、もしかしてラーイが苦しんでいるのって…」 『呪いの一環でもありますね』 「やっぱり…」 『この船の中は少々特殊です。攻撃力の低いカードは影響を受けやすくなっています」 「ラーイ、攻撃力500だもんね…」 『わらしうるさい……ボクだって風さえ取り込めば…』 「いいよ。ラーイは小さい方が可愛いから」 『可愛いって…』 「テンペストもいいけどね。あんまり大きいと、吹き飛ばされちゃうし」
ラーイの頭を撫でてその身を抱きしめる。 ジュノンはその様子を見て、まるでぬいぐるみ扱いだな、とこっそり思った。
『わらし。呪われたこの船の中にあるものを口にするのは勧めません。これを渡しておきましょう』
小さな布袋に入った丸薬を渡す。
「これは?」 『《ゴブリンの秘薬》ですよ』 「なん…だと…?」
何故か遊作がマジマジと丸薬を見つめている。よっぽど物珍しかったのか。
『回復量は大したことありませんが、それでも多少の傷ならすぐに治ります。1粒で空腹も満たされるはずです。それがなくなる前に何とか呪いを解いてください』 「ありがとう、ジュノン」 『ちなみに、ある成分は私の独断で抜いてありますから。そこは了承してくださいね』 「ある成分?」 『……催淫効果ですよ』 「さ…」
わらしの頬が赤く染まった。遊作を見れば、目を逸らして空を見つめている。どうやら最初からその成分が含まれていることを知っていたらしい。
『…それとも、通常の方が欲しいですか?』
ジュノンが尋ねれば、わらしはぶんぶんと首を振った。
「これでいいから!」 『…そうですか。少しお待たせすることにはなりますが、持って来れなくはありませんが…』 「いいの! ありがとジュノン! 助かったよ!!」
強引に話を終わらせ、次の話題に移る。万が一通常版を遊作に飲ませてしまってはどうなるかわからない。ラーイは脱力しながらもあきれ果てた表情でわらしを見ていた。
「それで、ジュノンはもう帰っちゃうんだよね?」 『えぇ。目的のものは手に入らないようですから』 「そっか」
でも…と呟き、わらしを見る。
『…もしかしたら、あなたなら手に入れられるかもしれませんね。わらし』 「私…?」 『可能性の話ですよ』
わらしは不思議そうな顔をしている。 ジュノンは席を立つと、手にしていた魔導書を消して二人と一匹に背を向けた。
『それでは私は行きます。お元気で…』 「うん。また会おうね」
わらしの言葉を聞き届けて、ジュノンはそのまま光に溶けていった。操舵室には静寂が戻る。
『……それじゃ、ボクもいい加減戻るよ。そろそろ限界だからね…』
ラーイはそう言って再びカードの中へと戻る。残された遊作とわらしは顔を見合わせ、互いを労い合った。
「また二人になっちゃったね」 「…だが有益な情報を得られた。二人でも何とかなるだろう」 「うん。この船に掛かった呪いを解く、か…。それってやっぱり、あの幽霊とかを何とかしなきゃダメってことだよね」 「その為に船全体を調べる必要があるな」 「まだまだ先は長いなぁ…」
言いながら、掌に乗っている丸薬を思い出して遊作に一つ渡した。
「遊作くん、使って。これでさっきの怪我治せるよ」 「そうだな…。ありがたく使わせてもらうか」
そう言って遊作は丸薬を飲み込むと、頭の傷が癒えるのと同時に背中の痛みまでが嘘のように消えた。効果は絶大だ。
「治った……本当にすごいな」 「さすが回復アイテム」 「わらしは使わないのか?」 「私はまだ大丈夫。必要になったら使うから」
わらしは丸薬の入った袋をリュックにしまい、改めて部屋の中を見渡した。
「とりあえず、この操舵室を調べないとね」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
操舵室は、甲板の階段を登ったところにあった。 照明のつかない倉庫で痛い目を見た二人は、通路を突っ切って向かいの甲板へと出た。思った通り、そこはわらしたちが最初にやってきた場所で、照明のスイッチを入れると海風にさらされた甲板を煌々と照らした。そしてそのまま前方に向かって歩けば、船長室の扉が。 つまり、右側甲板→船長室→左側甲板→通路→右側甲板と一周してきたのだ。
「照明が付かない部屋は後回しにするとして、他に行けるところといったらこの上だな」
甲板の階段を指し遊作は言った。 そういう訳で二人は甲板を登り操舵室に入った訳だが、そこでジュノンと出会った。幸いにもジュノンが弄ったのか、操舵室は最初から照明が付いていたので付くか付かないかの賭けをする必要はなかった。 操舵室の左右の扉は恐らく右側甲板上階と左側甲板上階の両方に繋がっており、下階と上階をぐるぐると回れる造りになっているはずだ。操舵室を通らずとも、上階の連絡通路を通れば右側と左側を行き来できそうである。 分かりやすい構造にわらしは安堵した。
「ねぇ遊作くん、何かあった?」 「タンスの中は空だが…机の下でこれを見つけた」 「これって……何?」 「金属の取っ手みたいだな。どこかに取っ手の外れたドアはなかったか?」 「あ、それなら何か床に収納スペースがあったよ。開けるとこなかったけど」 「それだ」
遊作はわらしに案内されて床の収納スペースの前に跪いた。上手いこと取っ手をはめ込み、蓋を持ち上げる。中に入っていたのは船内設計用紙…つまるところ、船内のマップだ。
「これはラッキーだったな」 「うん。これがあれば、道に迷うことはないよね」 「他には何かないか…」 「これと言って…」
操舵室の中は閑散としていて、必要な計器以外はほとんど何も置いてなかった。時折羅針盤が揺れて進路を修正するくらいだ。もっとも、誰もいない操舵室でどうやって舵を取るのだという疑問が生まれるが。
「ここ、幽霊船なんでしょ? だったらもう驚かないよ」
ホラーには弱いが、ホラーの理屈だけは概ね理解しているわらしだった。
粗方調べ終わって、操舵室を出ようと言う時だった。ドア付近の壁に飾られたレリーフを見て、わらしが遊作を呼んだ。
「ねぇ遊作くん、これ何だと思う?」 「………太陽か?」 「あ、そんな風に見える? 私はヒマワリかなって思ったんだけど」 「ヒマワリに顔はないぞ」 「太陽だってないよ」
不毛な会話である。
「で、このレリーフがどうしたんだ?」 「あのね、私たちが操舵室に入って来たときジュノンがここに立ってたでしょ? で、背中向けて何してるのかなーって思ったんだけど……もしかしてこのレリーフを見てたのかなって」
そう言って太陽のレリーフに触れる。しかし冷たい金属の感触がするだけで何も起こらない。
「確かにな。こんなあからさまなものが何もないとは言い切れない。デザインも船に合ってないようだし…」 「場所、覚えておいた方が良いよね。地図に書き込んでおくね」
マップを取り出してわらしがレリーフの位置を書き込んだ。
その後二人はまだ行っていない部屋に行ってみることにした。と言っても今の段階で行けるのはあと一か所しかない。連絡通路を挟んで操舵室と向かい合わせにある小部屋だ。マップには海図室と書いてある。 入って来たのとは反対の扉から操舵室を出ると、甲板上階の柵に寄りかかるようにして海を眺めている男の影あった。船長と同じ黒い影の。 突然の事態に驚いた二人は慌てて操舵室へと戻る。
「び、びっくりした……何でいるの…」 「照明は…付いていなかったな。ここは明るいから安全だが」
遊作の呟きにわらしが反応した。
「…あのね、あんまり考えたくはないんだけど」 「あぁ」 「今の人、明るいところでも平気なんじゃないかな。理由は、あの女の子の幽霊と違って船長さんと同じ黒い影だったから。で、船長さんは明るい部屋に入ることができた…」 「………」
わらしの推測に押し黙る。
「あの黒い影の人たちは、もしかしたら悪霊じゃないのかも…」 「…断言するのは早いが、可能性はあるな。こちらを襲ってくる気配もなかった」
遊作とわらしは顔を見合わせた。
「試してみるか?」 「どうするの?」 「話しかけてみる。あいつに敵意がないのなら、何か話を聞けるかもしれない」 「ダメだった場合は?」 「すぐにここに戻ってくる。幸い、操舵室からは目と鼻の先にいるからな」
遊作の提案にわらしも珍しく同意した。
「そうだね。聞いてみようか」 「…怖くないのか?」 「怖くないって言ったら嘘だけど。なんとなく、あの人は怖い感じがしなかったから。女の子の幽霊なんて凄く怖かったけど」 「あれはあからさまな悪意の塊だったからな…」
納得して再び扉の前に立つ。先ほどまでとは打って変わってゆっくりとドアノブを捻り、操舵室の中から男の影を観察する。影は二人に気付いていないのか、相変わらず海を眺めては俯き、溜息を繰り返している。その背中には哀愁が漂っている。
「……襲ってこないね」
わらしの呟きの後、二人は男の影に近付いて行った。しかしどれだけ近付こうとも、影は振り返ることなく海を見ている。遊作が緊張気味に話しかけると、ぽそりと『こんな船に乗るんじゃなかった…』と零した。
『必ず帰るって誓ったのに…』 「何の話だ?」 『こんなことなら彼女のそばにいてあげればよかった…』
男には遊作の声が聞こえていないのだろうか。一人でぶつぶつと後悔を口にしている。察するに、故郷に残してきた恋人のことを思い出しているのだろう。 二人は出直すべきかと踵を返そうとした時、ふいに男が顔を上げ夜空を見上げた。
『…………今ごろどうしてるだろう』
その呟きの直後。遊作とわらしの体は男の影に吸い込まれるようにして消えた。
そこはどこかの広場のようだった。深夜、星もない夜空の下で、薄い外灯の光を頼りに何とか周囲を見渡せる程度の、暗い海の底のような場所だった。 遊作とわらしは狭い広場の中央に立っている時計塔を見上げ、どことなく寂しさを感じる。時刻は12時前。噴水の前に一人の若い女性が立っていた。長いストレートの髪に、今にも折れそうな細い体。顔色があまり良さように見えないのは、暗闇のせいだけではない。 こんな夜中に一人きりで佇んでいる姿に頼りなさを感じて、わらしは思わず話しかけていた。
「どうかしたんですか?」
尋ねれば、女性は溜息交じりに繊細な声を零した。
「もう駄目かもしれないな。あの人の船、明日出航するの」 「船…」 「明日…もうすぐ……」
そう言って、苦しそうに咳き込む。病気だろうか。近くで見たらやけに肌が青白かった。もしかしたら立っているのもつらいのかもしれない。 二人が何と言って声を掛け良いのかわからず躊躇っていると、女性は独り言のように呟いた。
「最後の夜だっていうのに、あの大切な婚約指輪……どこで落としちゃったんだろう。もうまともに目も見えなくなってきちゃった……」
きらり、と女性の頬を伝うものがある。それをハンカチで押さえて頭を軽く振る。弱音を吐きながら涙を拭う仕草は、二人の目に焼き付いた。心を動かされるものがある。とりわけ遊作の脳裏には女性が発した‘指輪’という単語が反復し、この世界に来る前に買ったペアリングのことを唐突に思い出した。ハートランドで手に入れたペアリングを。
(どうしよう……力になってあげたいけど、見つけられるかな) (…少し辺りを探してみよう)
女性から離れ、広場の中を歩きながら指輪が落ちていないか探す。しかし暗闇の中、どこに落ちているのかもわからない小さな指輪を見つけ出すのは至難の業で、二人は用心深く目を凝らしたが手応えはない。そうこうしているうちに、反対側の入口までたどり着いてしまった。男性が立っている。
「あれ、誰だろう。もしかしてさっきの人の恋人かな?」
男性は誰かを待っているのか、ウロウロとその場を行ったり来たりしていた。しきりに時計台を見上げては、落ち着かない様子で辺りに視線を走らせる。俯きがちに小さく呟いた声が二人の耳に届いた。
「明日出航か…もう、しばらくは逢えないな」
そのまましばし無言になって、表情を暗くする。
「遅いな……どうしたんだろう。システィーナ…。でも何の用だろう。あまり出歩かないほうがいいのに……」
少し離れたところで、遊作はわらしに聞いてみた。
「声を掛けてみるか?」 「…ううん、やめておこうよ」
わらしは否定した。何故、という顔で遊作が尋ねる。
「あっちに恋人がいると伝えてやれば、丸く収まるんじゃないか?」 「でも、それを教えちゃったらあの人…システィーナさんが指輪を無くしちゃったことも言わなきゃいけない。それって凄くつらいことだと思うよ。システィーナさんはきっとそれを言えなくて、この時間になるまでずっと探してたんだと思う。大切な指輪だから…」
システィーナの気持ちに寄り添ったわらしの言葉は、波紋が広がるように遊作の心に伝わった。真剣な眼差しに、少しだけ自分の考えを改める。
「…そんなに大切なものなのか」 「好きな人から貰った愛の証だもん。それも、永遠を約束するために贈られた…。何にも代えがたいものだよ」
貰った時、凄く嬉しかったんだろうね…と囁くように言ったわらしの言葉が間違ってはいないことは、遊作にも分かっていた。病気の体を押して会いに来るくらいだ。心から恋人のことを愛しているのだろう。指輪を失くすとは、その愛を失くすにも等しい。
「ねぇ遊作くん。指輪、やっぱり私たちで探してあげようよ。きっとどこかにあるはずだよ」 「…そうだな」
わらしの提案で、再び広場の中を探して歩く。広場自体は囲いがしてあってそう広くはない。だが二人の探索も空しく、指輪はおろか空き缶ひとつ落ちていなかった。清掃が行き届いているというレベルではない。綺麗過ぎる。 やはり無理なのかと思った時、わらしが暗い影の方を指して言った。
「もう少しあっちも見てみようよ」
暗闇の中を進めば、唐突に不思議な場所に出た。そこは広場より小さなスペースで、中央に大きな回転木馬が設置されている。それ以外の物はないが、遊園地でもないのに回転木馬だけが鎮座している様子は奇妙としか言えなかった。
「メリーゴーランド…って懐かしいね。今でなければ喜んで乗ったかもしれないけど…」
そう言うわらしの顔は多少ひきつっている。暗闇に浮かぶ回転木馬はもはや不気味としか思えない。遊作は辺りを見回した。
「操作する機械はどこだ? 柵も付いてないし、危ないんじゃないか?」 「ローカルな施設ってことかな…。今と違って、安全もそんなに気にしてなかったのかも」
言いながら、手前の白馬に触れてみる。材質は昔ながらの木材だ。表面こそ冷たいが、人工のものに比べると柔らかく、木特有の温もりを感じ取れた。躊躇いながらもその背中にそっと腰を下ろしてみる。すると。
〜〜〜♪
「え!? 何!?」
わらしを乗せた回転木馬は、軽快な音楽と共に煌々と光を放ち、突然息を吹き返した様に稼働し始めた。慌ててポールにしがみつく。
「ど、どうしよう…。遊作くーん…」
情けない声を上げて助けを乞う。遊作も唐突な事態に目を丸くして見守っている。
「止まるまで大人しくしているんだ!」
もはや何もできることはなく、二人は回転木馬が再び静寂を取り戻すのを待った。ぐるぐると回転する木馬に上下に揺さぶれながら、定期的に遊作の姿が現れては消える。遊作の目にも同じように見えていることだろう。これが地獄の始まりでなければ良いのだが。 早く止まらないかな…と若干の不安を胸に移り行く景色を眺めていると、暗闇のなかでふいに光るものがあった。
(今のは…?)
同じ場所を回転し続けた木馬は、止まる時も唐突に終わりを告げた。軽快な音楽が鳴りやみ、眩しいくらいの光が消える。辺りは再び薄暗い闇に包まれ、先ほどの華やかさが嘘のように消滅した。遊作の手を借りて白馬から降りる。
「あまり心配を掛けさせないでくれ」 「ごめんね…。あのね遊作くん、」
わらしは遊作を引っ張って小さな広場の端に連れて行った。回転木馬の上から見えた光は確かこの辺りだ。
「どうかしたのか?」 「うん…さっきの、私の予想だと多分…。……。あった!」
遊作の手を離し、しゃがみ込んだわらしが拾ったのは小さな指輪である。
「これは…」 「やっぱり指輪だったんだ。メリーゴーランドの上から光ってるのが見えたから、もしかしたらって思ったんだ。良かった、これでシスティーナさんに渡せるよ!」
わらしは自分のことのように喜んだ。急いでシスティーナの元に戻る。 その時、広場の時計塔で12時を告げる鐘が鳴った…。
ゴーン、ゴーンと時を告げる鐘を見上げて、男は呟いた。
「もう時間だ……」
時計塔に背を向け、広場から出て行く。
「俺は必ず帰ってくる……約束するよ。システィーナ…」
最後に一度だけ広場を振り返り、未練を振り払うように歩みを早め、彼は出て行った。
「システィーナさん。これ…」
広場に戻った遊作とわらしは、掌の中の指輪を彼女に差し出した。システィーナは目を見開くと、途端に表情を明るくして感情を露わにした。
「あっ、これです!! これであの人に逢えます!!」 「やっぱり。見つかって良かったですね!」 「えぇ、二人ともありがとう。急いで彼に会って来ます」
システィーナはそう言って受け取った指輪を大事そうに握り締め、小走りで反対側の入口まで向かう。待ち合わせはそこだったのだろう。 しかし到着した一行が目にしたのは、誰もいない時計塔の広場だった。先ほどまでそこにいた男の姿はない。閑散とした広場に冷たい風が吹きつける。
「…………」 「システィーナさん…」
思わず彼女の名前を呟いたわらしだったが、そこから先何と言って声を掛けて良いのかわからなかった。システィーナはゆっくりと二人の方に振り向いた。
「やっぱり間に合わなかったみたいね…」 「そんな、まだ近くにいるかも…」 「いいの。きっとこれが私たちの運命だったのよ」
システィーナは首を振ると、握り締めていた指輪を二人に差し出した。
「見ず知らずの方に頼むのは気が引けるんですが、私には時間がありません。もし、もし何処かであの人に会えたら、これを渡して下さい」 「……待って、それって…」 「ご迷惑でしょうが、お願い……コホッコホッ」
システィーナは胸を押さえて咳き込んだ。彼女の言う意味がわかってしまったわらしは必死にそれを否定しようとするが、その傍らで遊作は指輪を受け取った。ありがとう、と小さな声が聞こえる。
「待って、その指輪はシスティーナさんにとって一番大切なものなんじゃ…!」 「いいの。私には時間がない…彼には、自分の人生を…」 「…必ず届ける」 「お願いします…」 「遊作くん!?」
わらしは遊作の行動が信じられず、まるで失望したかのような表情を向ける。だが遊作は動じない。システィーナは満足したように頷いた。
「ありがとう…」
そう言ったシスティーナの優しい笑顔を最後に、二人は暗闇の空間から抜け出した。
再び船の甲板に戻って来た遊作とわらし。目の前では男の影が相も変わらずぼんやりと海を眺めている。 その背中に一歩近づくと、遊作はわらしの制止も聞かずに男の影に向かってシスティーナから預かった婚約指輪を見せた。 途端、影は大仰に驚いた動きをした。
『!!!!!』 「あんたに……システィーナからだ」 『これは俺が彼女にあげた婚約指輪……なんで…』
男の影は震える手で指輪を受け取ると、首を振って俯いた。絶望する男の影に、わらしは躊躇いがちに口を開く。
「システィーナさんは、最後まであなたのことを愛してました…」 『だったらなんで指輪を返すんだ…』 「それは……彼女には時間がなくて、あなたに新しい人生を歩んで欲しいと思ったから。次に進んで欲しい、というシスティーナさんの最後の愛です」 『そ、そんな! 俺が彼女のこと忘れるなんて!』
男の影は言葉を失い、柵にもたれかかって項垂れる。顔に手を当てて嗚咽を堪えているようだった。心から彼女を愛していたのだろう。
『…………。ごめんよ、システィーナ……』
愛しい恋人への謝罪の言葉を呟き、感傷に浸った。
男の影はやがて落ち着きを取り戻すと、二人に向かって礼を述べる。
『ありがとう、伝えてくれて。俺も彼女の所に……』
それだけ告げると、男の影は海の泡のようになって消えた。成仏したというのだろうか。 二人の前に、ハンドボールサイズの紫色の球体が残った。半透明のそれは、触れるとシャボン玉のように弾け、どこかに消えてしまった。海風が髪を揺らす。 遊作がわらしの肩をそっと抱いた。
「これで…良かったのかな」
わらしの呟きに、正解を述べられる者はいない。けれど遊作は肯定した。
「愛の終わりを、こんな風に伝えることになるなんて…」 「終わってない。これも一つの愛の形だ」 「でも…」 「たとえ結ばれることはなくても、二人の間には確かな愛が存在した。あの二人は最後まで互いを愛していたんだ」 「…うん……」
遊作に慰められて、わらしは目尻に溜まった涙を拭いた。夜空に浮かぶ満月を見上げ、静かに呟く。
「今度こそ…結ばれるといいね…」
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