SUMMER VACATION!−4

ぐらり、と揺れた視界が元に戻ると、遊作とわらしはまた別の場所にいた。乗り物酔いにでもなったような感覚で辺りを見回せば、揺れる床と特徴的な構造から、ここが列車の中だということがわかる。随分と古めかしい様子から電車ではない。
通路を挟んで3席ずつ並ぶボックス席に、二人は向かい合わせになるように座っていた。

「今のは一体何だったんだ? また飛ばされたのか…?」

遊作が額を押さえながら呟く。同時に、先ほど手にしたはずの本の存在がないことに気付いた。確かに手にしたはずなのに。
わらしのリュックがもぞもぞと動いて、ラーイが頭だけを出した。

『さっきとは違う場所だね。二人の会話だけは聞こえていたけど、状況が理解できないな。何があったの?』
「俺たちにもよくわからないが…。隠し通路にあった本を手に取ったんだ。そうしたら突然空間が歪んで…」
『なるほどね』

遊作から説明を受けてラーイが頷く。わらしはラーイが顔を出したことが気が気でないが、当の本人は平然としていた。

「ちょっと、隠れてた方がいいんじゃない?」
『心配しなくても、人が来たら大人しくぬいぐるみの振りでもしておくよ。幸い、ここにはほとんど人もいないみたいだしね。バレることはまずないよ』

言われて二人は改めて周囲の様子を窺う。確かに、広い車内には車掌と客が一人しかいない。前者は車両前方にある連絡扉の前に立ってまるでこの先に行かせないとばかりに陣取り、後者は若い男が窓際の席で何かを考えている様子だった。

「…まぁ、ラーイならうまくやるって信じてるけど」

わらしが呟くと、ラーイは当然とばかりに頷いた。

「それより、この列車はどこに向かっているんだ?」

遊作がわらしとラーイに視線を合わせる。

「俺たちがまた飛ばされたのだとしたら、これにもまた何か意味があるはずだ。それを探らなければならない」
「そうだね…まずは状況を確認しないと」
『とりあえず、あの車掌に話を聞いてみる?』

ラーイの提案に二人は同意した。席を立ち、車両前方へと向かう。
扉の前に仁王立ちになっている車掌は遊作とわらしが近づくと、表情を硬くして首を振った。

「お客様、トンネル通過中は席をお離れにならないようお願いいたします」
「トンネル…」
「まだしばらく続きますから、どうかご着席を」
「一つ聞きたいんだが、この列車はどこに向かっているんだ?」
「…ご質問もトンネルを出てからでお願いいたします」

遊作が尋ねるが、車掌は頑なに回答を拒んだ。

(これって、いくら粘ってもダメな感じかな?)
(そうみたいだな)

仕方がないとばかりに元の席に戻ろうとすると、窓際に座っていた男とわらしの目が合った。何と言って話しかけようかと逡巡していると、男はわらしから視線を外して呟いた。

「何だい? 用がないんなら向こうに行ってくれないか」
「えっと…」
「僕に構わないでくれ」

取り付く島もなかった。遊作の方を見ると、首を横に振ったので諦めてその場を離れる。改めてボックス席に戻ると、ひそひそと会話を続けた。

「なんか、不愛想な人だったね…」
「どこか思い詰めているようにも見えたが…」

結局、二人から得られた情報はここがトンネルの中であるということだけである。困ったわらしたちは頭を突き合わせた。

「これからどうしようか…」
『いっそ列車が到着するまで待つって手が考えられるけど』
「その前に後ろの車両を調べてみよう。幸いそっちの扉には車掌が立っていない」

遊作が視線で促す。

『そうだね。いつまで掛かるかわからないし、アリだと思う』

わらしとラーイが同意したのを見て、再び席を立った。もしかしたら前方の車掌に止められるかと思ったが、車掌は何も言わずに黙って遊作たちが出て行くのを見守っていた。トンネルというのは口実で、やはり前方車両への移動を制限していただけだったのか。
扉を開けると、車両の連結部は外部に剥き出しになっていた。車両の中とは違い音も振動も強く伝わってくる。トンネル内部特有の生暖かい風を受けながら、二人は連結部を超え隣の車両の扉を開けた。中の造りは先ほどの車両と変わらなかった。

「こっちにも…人はほとんどいないな」

扉を閉めながら遊作が呟く。

「あ、でもあそこにお爺さんがいるよ。話を聞いてみない?」

車両内での唯一の乗客である老人の元に向かうと、老人の前にはピンク色の服を着た女の子が座っていた。ボックス席の背に隠れて見えなかったようだ。まだ10歳にも満たない女の子は服同様ピンク色の帽子をかぶり、両手には青い本を抱えていた。上品な装いとは裏腹に、暇そうに足をプラプラさせている姿は年相応に見える。
上等な紳士服に身を包んだ老人は、突然現れた若い男女のカップルを訝し気に見ると重い口を開いた。

「何だね、君たちは? どこかでお会いしたかな? どうもわしは記憶にないようだが…」
「いえ。初対面です」
「わしに何か用か?」
「…いえ、」
「すみません、女の子が可愛かったものでつい。お孫さんですよね? ご旅行ですか? 実は私たちもなんですよ。楽しい旅になると良いですね」

口下手な遊作に代わってわらしが口を挟む。こういう時、女子供の無邪気な笑顔はそれだけで相手の警戒心を緩める。遊作は内心助かったと思いながら、わらしの言葉に頷く。まるで最初からそうだったと言わんばかりに。

「こんにちは。おじいちゃんと二人で旅行かな? 良かったね」

女の子の膝元にしゃがみながらわらしが話しかける。女の子は一瞬わらしと目を合わせたが、すぐに視線を外して呟いた。見知らぬ人間に警戒しているのだろうか。

「…おじいちゃんが、りょうこうにいこうっていったの…」
「そうなんだね」
「……いきたくないっていったのに…。はやくかえりたいな…」
「え?」

最後の方の声は小さく良く聞き取れなかった。しかしわらしには女の子がこの旅行に乗り気でない様子が窺えた。女の子の両親もいないようだし、何か訳アリなのだろうか。
会話が続かなくなると、老人が「もういいでしょう。孫と二人にさせてくれないか」と言い出したので、遊作とわらしはそこで身を引き車両から撤退した。再び外気にさらされた連結部に出る。

「わらし、助かった。俺じゃうまく切り抜けられなかった」
「ううん。あぁいう時は、女の方が警戒心解けるしね。……ただ、あの子なんだか怯えたように見えたんだよね。そこがちょっと気になるような…」
「俺も少し気になった。…あの子が持っていた本だ」
「本?」
「あぁ。さっきあの家で俺が手に取った本に似ているような気がした。表紙の色こそ違うが…」

わらしは実際には遊作が手にした本というのを見ていなかったので、遊作の呟きに「そうだったんだ」と相槌を打つしかできない。そこにラーイが口を挟んだ。

『あの本さ、なーんかイヤな感じがしたんだよね。昔、散々いやな目に遭わされたアレに似た感じがした…』
「アレ?」
『…口に出すのもイヤな思い出だよ。気にしないで』
「ええと、わかった」

ラーイが珍しく苦虫を噛み潰したような顔をしている。わらしはそれ以上突っ込むことなく頷いた。もし本当に何か関係があるならラーイの方から言ってくれるだろう。

「…で、この車両でも手掛かりはあんまりなかった訳だけど」
「そうだな。他に調べられることもないし、一旦さっきの車両に戻るか」

遊作が言ったところで先ほどの車両から男が出てきた。遊作とわらしを素通りし、老人と女の子が乗っている車両へと入って行く。どうしたのだろうか。

「あの人ももしかして、私たちと同じように飛ばされてたりして…?」
「まさかな。他に何か理由があるんだろう」
「あ、あの女の子のお父さんかな。…にしては随分若い気がするけど」

他愛のない会話をしながら男が出てきた車両に戻る。が、そこで遊作とわらしは驚くべきものを目にして固まった。

車掌が倒れている。


「え…?」

わらしの足が立ちすくむ。
遊作が急いで車掌に駆け寄った。

「おい、大丈夫か!?」

声を掛け体を揺さぶるが反応はない。気絶しているようだ。

「え、うそ、なにこれ……どうして……」

混乱して狼狽えるわらしとは対照的に、遊作は冷静さを失ってはいなかった。

「わらし、落ち着け。ゆっくりと息をするんだ」
「や、だって…この人、さっきまで普通だったよね? なんでこんなことに…」
「状況から考えて、さっきの男だな」

眉を寄せながら呟く。
車掌の横にはクランクが落ちていた。これが凶器なのだろうか。その割には血も付いていないので、あの男が何かの拍子に落としたのだと考えられる。あるいは車掌の持ち物だったのか。
遊作に言われるがまま呼吸を落ち着かせようとしていたわらしだったが、ふとあることに気付いて叫んだ。

「…待って、あの男が犯人なら、今度はあの女の子が危ないんじゃ…!」

思い立った二人は急いで女の子のいる車両まで走って戻った。しかし先ほどとは違って扉が開かない。中から鍵が掛けられているようだ。

「そんなっ! 開けて! 開けてよ!!」

ドンドンと扉を叩くが返事も返ってこない。遊作は辺りを見回して何か手はないのかと考える。そこに、車両上部へと続く梯子が目に映った。瞬時に思考を巡らせ、手を掛ける。

「遊作くん!?」
「この上から中に行けるかもしれない!」

それだけ叫んで梯子を登っていく遊作を追いかけ、わらしも両手を掛ける。トンネル内で揺れる車両の上に乗るのはとんでもなく怖かったが、そうも言っていられない。登りきった先で遊作が車両上部にある鉄製の窓を開けようと四苦八苦している様子が見えた。どうやら素手では開かないようである。

「クソッもう少しで何とかなると思ったんだが…、そうか、クランクか!」
「クランク?」
「さっき車掌の近くに落ちていた工具だ。あれがあれば開けられるかもしれない」
「じゃぁ急いで持ってこないと…」
『ボクが取ってくるよ』

戻ろうとした遊作より先に、わらしのリュックからラーイが飛び出した。

「ラーイ!」
『二人はそこで待ってて』

ラーイは小さな羽で二人の元を離れると、あっという間に車両に戻り、クランクを抱えて戻って来た。こういう時、空を飛べる精霊は便利である。

「助かった」

ラーイからクランクを受け取った遊作は、窓枠にある穴にクランクを引っ掛け回し始めた。鉄製の窓がスライドして開く。その穴から車両の中を覗き込んだ二人は、そこで繰り広げられている光景に息を呑んだ。
先ほどの男が老人に銃を向け、さらに老人は横にいる女の子に銃を向けている。何がどうなっているのか理解できない。

「どういうつもりだ!」

男の叫び声が聞こえる。

「聞こえなかったかな? 君が武器を下ろさなければこの娘は死ぬと言ったんだ」
「何を言っているんだ! その娘はお前の孫だろう!」
「その通り、わしの可愛い孫だ。だが、君が狙っているのはわし一人のはずだろう? 肉親とはいえ、孫は無関係な人間だ。さて、見殺しに出来るかな」
「……貴様!」

激高した男が一歩前に出る。老人は余裕の表情だ。
遊作とわらしは一言も言葉を発せず二人の成り行きを見守っている。とりあえず、あの老人が善人でないことだけは確かだ。上からは女の子の顔は見えないが、俯いて口をつぐんでいた。どんなに怖い思いをしていることだろう。

「君がわしを狙っていたことはとうに知っておった。だから準備もできたわけだ。わしに言わせてもらえば、君はこういうことにはあまり向いておらんよ。真っ正直で、正義感が強い。何よりも、人を殺すには優しすぎるようだ。……だからこそ、ここまで来たのだろうが」
「………」
「孫の命は君の手の中だ。……どうするかね?」

老人の問いかけに、男が首を振って銃を下ろした。老人の顔に笑みが浮かぶ。

「どうやら、わしの勝ちのようだな」

老人は女の子に向けていた銃を男に向けると、躊躇いなく引き金を引いた。
バン! という激しい音と同時に男の胸に赤い華が咲いて倒れる。

「――っぁ、」

口を押えて小さく悲鳴を上げたわらしを、咄嗟に遊作が抱きしめた。目の前で起きた光景に身を震わせる背中を撫で、もう見るな、と呟いた。遊作でさえ衝撃的な光景だ。わらしは遊作の胸にすがって頷いていた。
窓の下では老人が横暴に息巻いていた。

「……フン、愚か者が!!」

倒れている男の頭を足で小突く。女の子は相変わらず微動だにしない。怖くて動けないのかもしれない。

『お客様! お客様! 大丈夫ですか!』

車両の外で車掌の声がした。目を覚まして状況に気付いたらしい。
鍵の掛かった扉を叩き、中の様子を確認しようとしている。

「ええい、うるさいやつだ!!」

老人は吐き捨てると、鍵を開け車両の外へと出て行く。

『……でもない………何も聞かなかっ………これで……』
『……えっ………いやしかし………へへ……』

二人の会話はもはやよく聞こえないが、どうやら賄賂を渡して追い返そうとしているらしい。殺人の現場に踏み入れられることを嫌ったのか。
その間、床に倒れていた男が胸を押さえて起き上がった。まだ生きている。遊作は安堵した。

「……くっ……」

立ち上がった拍子に男のポケットから青い宝石が零れ落ちた。

「……い、石が……」

慌てて拾い上げ、女の子の方を見る。女の子は男と目を合わせると、静かな声で言った。

「……おにいちゃん……だいじょうぶ……」
「ごめんな……怖かったろ……?」

男が女の子に寄ると、女の子は男の顔を見上げた。

「君は……おじいさんが……好きかい…?」

男が問うと、女の子は俯いて首を振る。

「……おじいちゃん……こわい……」
「………」

小さな女の子に言える精一杯の言葉から、その子が老人のことをどう思っているのか窺い知れた。男は痛みに耐えながら絞り出すように声を出した。

「……君の……君のおじいさんは…魔に魅入られている…。……僕はその魔を……追ってきた……この青い石と共に……」

手の中の青い石を見せる。それは車両の上からもはっきりとわかる大きさでキラキラと輝いており、宝石に詳しくない遊作でも綺麗だと思った。

「……また君に会う日まで……この…かけらを…預かってくれないか…。きっと君を……守ってくれる……たとえ何が起きても…」

男の言葉に女の子は頷く。男の言葉はところどころ理解できないところがあるが、女の子には何か感じるものがあったのだろう。男の手からその青い石を受け取ると、大事そうに握り締めた。

「……名前を……聞いてもいいかな?」
「……クレア……ロックウェル……」
「……僕はヘンリー……ヘンリー・オズモンド…」

(ヘンリー・オズモンドだと…?)

遊作は男の名前に引っ掛かりを覚えた。
男は女の子の名前を聞いて満足し、ろくに動かない体を引きずって車両の奥へと消えた。扉を出て行く。

「……またいつか、必ず……さよなら、クレア…」

バタン、と扉の締まる音がすると、車両にはクレア一人になった。間を置かずに反対側のドアから老人が戻ってくる。

「全く、手間をかけおる。金を持ってさっさと消えればよいものを……」

その口ぶりから、結果的に車掌を手に掛けたのだということがわかった。
老人は男が車両から姿を消しているのを見て、冷静に呟いた。

「あの碧石を持つ者だ。そう簡単にはいかんか」

血痕の痕を追って扉に向かう。クレアには見向きもしなかった。
老人が扉を出て行ったところで遊作も動き出した。

「わらし、俺は今からこの車両に入るが、あんたはどうする?」
「や、やだ行かないで…」
「あの男のことが気になる。助けられるチャンスがあるなら助けるべきだ。あの女の子だって、どうなるかわからない」
「それは……わかってるけど…」
「怖いならどこか安全なところに身を隠していてくれ。ライトニング、頼んだぞ」

遊作の言葉にラーイが頷いて了承する。待ったを掛けたのはわらしだ。

「ま、待って! やっぱり私も一緒に行く…」
「わらし…」
「だから置いてかないで……お願い…」

怯えながら遊作の服を掴む。遊作は数瞬考え込んだが、わらしの手を握り返して言った。

「わかった。その代わり、危険だと思ったらすぐに引き返すんだ。ライトニングを離すなよ」
「うん…。でも、遊作くんは?」
「自分の身は自分で守るくらいの力はある」

もっとも、銃を相手にどこまで対抗できるかはわからないが。
遊作とわらしは登ってきた梯子を下り、クレアのいる車両へと入った。クレアは置物のようにじっとして、わらしが話しかけても何も喋らない。
二人はクレアに話しかけることは諦め、先に男を助けに行くことにした。血の跡に目を背けながらゆっくりと扉を開ければ、そこは列車の最後尾で、続く車両はない。その際に追い詰められて、ヘンリーは老人に銃を向けられている。修羅場の真っ最中だった。
どうやって助けようかと考えていると、ヘンリーが息も途切れ途切れに語った。

「分かっているのか…? 貴様自身も……魔に…飲み込まれ……。こんなことで……僕は…死ぬわけに…いかな……」
「ごたくは十分だ。今度こそ、死んでもらおう」

ヘンリーの言葉を遮り、老人が引き金に指をかける。ヘンリーは苦悶の表情を浮かべながら、しかし最後に振り絞って声を出した。

「待っていろよ! ウィリアム・ロックウェル!」

そして自ら高速で走る列車からその身を投げ出し、闇の中へと飲み込まれていった。音もなく姿が消える。遊作とわらしは目を見開いてその一部始終を見ていた。

「逃げたか……奴め、簡単には死にはすまい。……だが」

老人は銃を下ろすと、懐から一本のナイフを取り出した。赤い宝石の付いたナイフは暗闇の中で不気味な光を放ち、輝いている。

「飲み込まれるだと……? ……フフフ……」

笑い声が聞こえる。

「渡すものか……たとえ誰であろうと」

そう言って振り返り、二人と目が合う。遊作はわらしの肩を抱き、無意識に力を込めた。殺される…
本能的にそう悟った時、世界は再び反転した。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


歪みが収まった時には、二人はリチャードの父親の家にいた。隠し通路の中で肩を寄せ合い、身を縮こませている。足元にはランタンが転がっており、薄暗い光が二人を照らしている。
遊作は緊張が解けない様子で辺りを見回した。

「今のは何だったんだ、一体…」

バクバクと煩く鳴る心臓を無理やり落ち着かせて考える。あれは夢だったのだろうか。しかし夢ではない気がする。やはり現実なのか…。
抱いているわらしの肩に唐突に気付いて声をかけた。

「大丈夫か」
「……こわ、かった…」

見ればわらしの顔は青ざめて今にも泣き出しそうだった。ホラーが苦手というわらしだが、現実の殺人(未遂)事件を目の当たりにすれば、これはもうホラーハウスの比ではない。単なる恐怖を軽く凌駕している。下手をすれば自分も殺されるところだったのだ。

「あの男の人……死んじゃったのかな…」
「わらし、」
「だって、あんな怪我で列車から飛び降りて…無事な訳ないよ……。女の子だって、あのおじいちゃんの傍で、どうなっちゃったのか……」

ブルブルとその身を震わせて呟くわらしの体を抱きしめて、遊作が優しく囁いた。

「落ち着け。あの二人ならきっと大丈夫だ」
「どうして…っ!」
「あの男が女の子に名乗っていた名前は“ヘンリー・オズモンド”…リチャードの父親だ」
「…あの人が、リチャードさんの父親?」
「鍵が入っていた封筒の差出人がヘンリー・オズモンドだった。鍵はヘンリーからリチャードに送られてきたと警官の男が言っていたから、間違いないだろう。つまり、リチャードの父親は少なくともあの時に死んでいない。この家が火事になるまでは生きていたはずだからな」

リチャードは既に一人で暮らせる年齢だ。その父親があんなに若いはずがないだろう。

「……でも、あの人が本当にリチャードさんのお父さんだったとして、一体どうしてあんなに若かったのかな。さっきのは、リチャードさんのお父さんの…過去、だったってこと?」
「そう考えるのが妥当だな」
「そっか…。…でも良かった…生きてるんだ…」

わらしは安堵の息を吐いた。もっとも、今この時代でヘンリーが生きているかどうかはわからないが。

「ところで、何で私たちがその……ヘンリーさんの過去にいたんだろう」

わらしが首を傾げると、遊作は首を振った。

「それはわからない。最初は俺たちに何かをさせたいのかと思ったが、決まった過去であるならそれを変えることはできない。もしかしたら、過去を見せることが目的だったのかもしれないな…」
「過去を見せること……」

そう言って遊作はランタンの傍に落ちていた例の赤い本を拾い上げた。今度は触っても何も起こらない。

「中は日記みたいだな。ほとんど書いてないが……読んでみよう」

薄暗い部屋の中で遊作はページをめくった。


あれから、もう38年もの時が流れた。
私が青い石を手にウィリアムと戦った、あの日から。

ウィリアムが私の前に現れた時から、私の運命は変わっていった。

父も、母もあの男のあのナイフによって殺されたのだ。
私はすべてを奪われたのだ。

あの船が消えた時、私はすべてを忘れようとした。

あの赤い石のことも、青い石を託した少女も。
すべてはオルフェウス号と共に消えたのだと。

私の復讐は終わった。
そう信じたかった。

運命は、まだ続いていた。
あの声は私を呼んでいる。

今度こそ、すべてを終わらせなくてはならない。

もう、ここへ戻ることはない。

私は行かなければならない。
あの船の待つ、海へ。



「…決まりだな。さっきのはヘンリーの過去で間違いない」

硬い表情をして遊作が言った。

「うん…。あのおじいちゃん、ウィリアム・ロックウェルって名前だったもんね。石を預けた女の子のことも書かれてるし……、だけどその子、いなくなっちゃったのかな。オルフェウス号と共に消えた、って書かれてる…」

ヘンリーの生存に喜んだのも束の間、今度はクレアの安否が気になった。そもそもオルフェウス号とは何なのか。消えたとは一体何を意味しているのか。
遊作が白紙のページをめくっていくと、最後のページに新聞の切り抜きが貼り付けてあった。日付は23年も前のものだ。


ANCHOR CITY JOURNAL 1914/04/12(Sun)

“オルフェウス号事件、迷宮入り”

一年前、大西洋上を航海中に消息を絶った客船、「オルフェウス号」の捜索がこのほど遂に打ち切られた。
担当調査官の最終報告書によると、同船は局所的な大嵐に遭遇し、沈没したという結論がなされている。

しかし、事件発生直後から行われた大規模な捜索活動にも関わらず、船の消息を示す明確な証拠は現在も発見されていないなど、事件は事実上の迷宮入りと言えるだろう。



「……沈没?」
「そのようだな」
「え、でもさ、それって、矛盾してない?」
「あぁ。船は23年前に沈没しているにも関わらず、ヘンリーの日記には“あの船の待つ海へ”と書かれている。…これが単なる海を表しているならいいが、もし船に戻ることを示唆しているのだとしたら…」
「沈没した船に行ける方法があるってことだよね。どういう訳か」

二人は顔を合わせた。

「…信じられるかどうかは別として、手掛かりはあったな」
「だけどこんな話、警察の人が信じてくれるかな?」
「無理だろうな」
「そうだよね…。他にもこの日記で気になるところはいくつかあるけど、赤い石とか青い石とか……、ってそういえば、ラーイは?」

わらしは唐突にパートナーの存在を思い出して名前を呼んだ。そういえばさっきから姿を見ていないな、と二人が辺りを見回していると、すぐ近くからよく見知った声が聞こえてきた。

『ボクならここにいるよ……わらしの下にね』
「え? ……あっ!」

見れば、クッションよろしくわらしの尻に敷かれていた。慌ててわらしがその上から退く。

「ご、ごめんラーイ…!」
『いいよ別に。今に始まったことじゃないし』
「それって私が普段からラーイのこと下敷きにしてるみたいじゃない! そんなことないでしょ!」
『ぬいぐるみと間違えられて洗濯機に放り込まれたことはあるよね。あの時は焦ったよ』
「ちょっと、何で今そんなことバラしちゃうのよ…! ほら、もう、遊作くんがびっくりして固まってるじゃない。余計なことは言わないで!」

ラーイはやれやれと呆れながら、凝り固まった体を振るわせた。

『それより、二人の話はちゃんと聞いてたよ。何となく、ヘンリーのことがわかってきたね』

言いながら、遊作の持つ赤い本に顔を近づけてふんふんと匂いを嗅ぐ。何をしているのだろうと見ていたら、すぐに興味なさそうに離れた。お気に召さなかったようだ。

『この本は大丈夫だね。イヤな感じはしない』
「ライトニングが言うなら、これはもうただの日記ということか?」
『たぶんね。さっきは見てないから、何とも言えないけど』
「えーと、じゃぁどうする? この本を持って警察官のところに戻る?」
「それも一手だが…」
『その前に、この下を調べるのもアリなんじゃない?』
「え?」

わらしが驚くと、ライトニングが階段を指し示した。狭いスペースには本が落ちていただけだが、どうやらメインはこの先のようである。
わらしは頬を引きつらせながら呟いた。

「えっと……こういうのって……ホラーでよくあるような……行っちゃいけない場所だと思うんだけど……」
「怖いならわらしは先に警官のところへ戻っていてくれ。俺が一人で見に行ってくる」
「だ、ダメだよそんなの! 遊作くん一人でだなんて…」
「だったら一緒に来るな?」
「う………」

遊作の問いかけにわらしは押し黙った。
これでもか!というくらいビンビンに立っているホラーフラグを踏み抜いていく勇気は、わらしにはこれっぽっちもなかった。怖いのは嫌いだ。好きだけど嫌いだ。かと言って、そんなところに遊作を一人で行かせるのは嫌だし、どうしたものか。
悩んでいると、痺れを切らした遊作が「それじゃ、後でな」と言って立ち上がったので、わらしは慌ててその後を追った。

「待って待って、私も行くから!」
「無理しなくていい」
「そんなこと言わないでよ…!」

わらしは遊作の服を掴みながら階段を降りた。ラーイが呆れていたのは言うまでもない。
階段を降り切ると、左手に一枚の扉があった。地下に部屋があるのはここだけのようだ。

「開けるぞ…」

呟きと共にドアノブを回せば、中は地上よりもさらに暗く、ランタンの明かり一つでは心細く感じた。部屋自体はさほど大きくもなく、光源を動かして中を見渡していた遊作は天井にぶら下がっているライトを見つけた。ダメ元でスイッチを入れてみれば、なんと明かりが付く。煌々とした人工灯が二人の頭上で室内を照らし出した。

「あれ、電気……通ってる?」

明るくなったことで恐怖心が和らいだわらしがキョロキョロと辺りを見回す。

「地下は別の配線が組んであるのか? いや、だが…」
「ねぇねぇ、絵が飾ってあるよ。何だろうこれ」

遊作の思考を遮って、わらしが一枚のキャンバスを指した。火事の影響など微塵も受けていない室内で、イーゼルに乗せられたそれには二体の胸像が向かい合わせに描かれていた。女性と子供の像である。
室内にはその絵に描かれている胸像と同じものがあり、他は木製の椅子が一脚あるだけだ。

「これって……この胸像をモデルに絵を描いたってことかな。確かヘンリーさんって画家だって言ってたよね」

警官の言葉を思い出し、わらしが呟いた。

「そう見て間違いなさそうだな。だが、絵の意味はよくわからない…何だってこんな意味のなさそうな絵を描いたんだ? デッサンをした訳でもなさそうだし…」

遊作が首を傾げていると、部屋と絵を見比べていたわらしが唐突にあ、と声を漏らした。遊作とラーイの目がわらしに向く。

「どうした?」
「え? ……あ、いや、ううん…なんでもないよ?」
「………何でもないなら何で目を逸らす」
「えっそんなことないって、」
「気付いたことがあるのなら言って欲しいんだが」
「ううん、何も。全然。早く上に戻りたいなーって思ってただけで…」
『わらしは嘘を吐くのが苦手だからね。バレバレだよ』
「ラーイ!」

ラーイのツッコミにわらしが叫び声を上げる。しかし一人と一匹からジ、と見つめられてわらしはたじろいだ。誤魔化しきれなかったようだ。

「いや、あの…本当に大したことじゃないんだけど…」
「それは聞いてから決める」

断言された。わらしは諦めて、先ほど思いついたことを口にし始めた。

「うぅ……あの、あのね? あの絵の中の胸像と同じ胸像が部屋の中にあるんだから、同じ様にしてみたらどうかな、って思ったの…」
「同じ様に?」
「…部屋の中の胸像は離れ離れに置いてあるから、絵と同じく向かい合わせになるようにって…」
「なるほど」

確かに一理あるな、と遊作は早速胸像を動かしにかかった。わらしにはもはや止められない。小さな声で気を逸らせそうとする。

「でも、本当に適当に思いついただけのことだから…」
「柱時計の例がある。この家にはどんな仕掛けがしてあるかわからない」
『単純だけど、可能性はあるよね』
「それはそうなんだけど…」

重い石膏の胸像を動かしている遊作の姿を眺めながら、わらしはどうか何も起きないで…と祈るばかりであった。万が一これがフラグだとしたら何が起きるかはわからない。怖い思いはさっきので十分だ。
胸像を移動させていた遊作が絵の中と同じ状態にすると、突然部屋の明かりが消えた。

「えっうそそんな…!」

わらしは悲痛な叫びを上げるが、踏んでしまったフラグは元には戻らない。暗闇の中で二つの胸像は白く輝き始め、それに呼応するように絵の中の胸像も光り出した。胸像の絵が消えて、代わりに船の絵が浮かびあがる。
思わず遊作の体にすがりついた。

「当たりか…!」
「ゆ、遊作くん…ちょっと待ってこれって…!」

言葉を言い終えるまでもなく、その絵に吸い込まれるようにして二人と一匹の姿は消えた。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


暗い夜の海を巨大なタンカーが走っている。
赤い船底と、黒い塗装がなされた一般的なタンカーだ。向かう波を押しのけながら、目的地に向かってひたすら走る。

そのボディには船名が書かれていた。

オルフェウス号、と…


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


次に遊作とわらしが現れたのは、夕暮れに染まる海を漂う船の上だった。船といっても小さいものではない。傍目から見てもかなり大きく、大量の貨物や人を運ぶためのものだということがわかる。
柵から身を乗り出して海を眺め、薄暗い辺りをキョロキョロと見渡す。船首が見えるから前の方なのだろう。他に何かないかと視線を巡らせていれば、ふいに背後から声がかかった。

『……誰だ……?』

しゃがれた男の声に振り返れば、そこには人と呼ぶには相応しくない影が立っており、遊作とわらしを見つめていた――その目があれば、なのだが。

「あ、あれって…」

わらしが小さく声を漏らす。
男の形をした黒い影は、半透明だが輪郭がはっきりする形でそこにあった。奥に海が透けて見えるので幽霊というべきか。わらしは息を止めて影を見ていた。一方で、男はしばし二人を観察するとさらに声を絞り出して言った。

『……ここで……何をしている…』

遊作とわらしは黙って互いを見つめた。ラーイは何故か元気がなく項垂れている。
すると男は踵を返し、扉の方に向かった。

『…………来たまえ……』

言って、自分は扉を開けることなくそこをすり抜けて中に入る。それを見ていたわらしが途端にぷるぷると震え出した。

「い、今のってやっぱり……あの人、幽霊…?」
「……おそらく、」
「ねぇ、これってついて行ってもいいの? 大丈夫かな?」
「わからないが……他に行くところもない。声からは悪意も感じなかったし、入るしかないだろう」
「そんなぁ…」

涙目になるわらしの手を引っ張って中に入ると、そこは小さな部屋だった。L字型をした革のソファとローテーブル、立派なデスクセットが置いてあるだけで他にはなにもない。ただ、他に扉が二枚あったので、重要なものはそちらにあるのかもしれない。
とにもかくにも、明かりのある普通の部屋に入ったことで、遊作もわらしも少しだけ心を落ち着かせていた。

男は二人が入ってくると一度歩みを止め振り返った。

『ここから……出てはならない……』
「…何か理由があるのか?」

遊作が尋ねるが回答はない。

『……外に出ては……ならない……いいな……』

改めてそれだけ告げた男は、入ってきた扉とは違う扉をすり抜けてどこかに行ってしまった。
残された遊作とわらしは数秒の沈黙の後、座ることにした。ぐったりしているラーイをソファに寝かせて声をかける。

「ねぇラーイ、どうしたの? 苦しいの?」
『……そうじゃないんだけどね………何だか力が入らなくて……、ここはボクが存在するには難しいところかもしれない……力が吸い取られてるような…』

俯せになり、もごもごと口を動かす。
ここに来てパートナーの不調に不安を覚えたわらしは、ラーイの背中を優しくさすりながら囁いた。

「この世界は、さっきまでの世界とは少し違うのかもしれない…。精霊の力が具現化できるとはいえ、そんな調子だったらカードの中に戻ってた方がいいよ」

諭すように言う。ラーイが口を開いた。

『……ボクがカードの中に戻ったら、二人になっちゃうよ……』
「俺たちのことは心配しなくていい」
「そうだよ。私たちのことよりも自分のことを考えて」
『だけど…』
「ライトニング。わらしのことが心配なのはわかるが、俺たちも自分たちのことは自分で何とか出来るし、わらしのことは俺が守る。安心してくれ」
「遊作くん…」

遊作の言葉にいたく感動したのはラーイではなくわらしの方だ。
ラーイは遊作とわらしの顔を見比べて、やれやれと体を起こすとカードを携えたわらしの前に立った。

『遊作がいるなら大丈夫だとは思うけど…、何かあったらすぐに出てくるからね。わらし、絶対に無茶なことはしないでよ。遊作に迷惑をかけないように』
「大丈夫だって、安心して!」

胸を張って言い切ったわらしに、ラーイは最後まで『本当に大丈夫かなぁ…』と思いながらカードの中に戻って行った。親のような気持ちである。
《風征竜−ライトニング》のカードを見つめていたわらしがふいに遊作に向き直ると、改めて作戦を練った。

「ラーイにはあぁ言ったけど、これからどうしようか。さっきの幽霊は、この部屋から出るなって言ってたよね」
「…少し調べる必要があるな。部屋を出るかどうかを決めるのはその後だ」
「わかった」

方針が決まると、二人はソファを立って部屋の中を見て回った。といっても調べられるところはほとんどなく、せいぜい机の引き出しをあけるくらいだ。中には栄養ドリンクらしきものが一本入っていたが、手を出さずに元に戻す。

「あとはこっちの部屋だが…」

男が消えて行った方ではない扉を開けて遊作は中を見渡した。ベッドとサイドボード、タンスがある。どうやらここは寝室のようである。

「タンスの中身は……って、なにこれ」

悪いとは思いつつ中を調べようとしたわらしは、両開きの取っ手がワイヤーでぐるぐる巻きにされているのを見て顔をしかめた。これでは蓋を開けることができない。

「何か隠してあるのか……よっぽど見られたくないものがあるのか…。どのみち開けるには、何か切るものが必要だな」

冷静な遊作の考察を聞きながら、今度はサイドボードを見る。そこには革の手帳が置いてあった。手に取って中を見てみる。

「これは…人物ノートだな」
「人物ノート?」
「どういう理屈かはわからないが、俺たちが今までに会った人たちのことが記されている。ご丁寧に写真付きだ」
「うわぁ……ほんとだ…」

ページ1枚につき一人の人物についての説明が載っている。1ページ目は遊作とわらしが最初に会った警察官。2ページ目は列車の車掌。次のページにはヘンリー・オズモンド、次がウィリアム・ロックウェル、さらにその次がクレア・ロックウェルと続き、6ページ目には先ほど二人をこの部屋に招いた男が載っていた。残念ながら、写真は幽霊の姿だったが。

「Greg Capstan……あの男は船長だったのか」

説明文に船長、と書いてあるのを読み呟いた。他にも、“船首甲板/船長室”とあり、どうやら出会った場所が書いてあるらしい。この上なく便利なノートだ。

「…もしかして、全部自動で書き込んでくれるのかな」
「……持っていこう」

遊作は手帳を鞄に詰めると、他に目ぼしいものがないか調べた。寝室からさらに奥に入る扉があり、開けてみればそこはバスルームだった。バスとトイレが一体型のバスルームだ。

「一部屋一部屋は狭いけど、全部合わせると結構広いよね…。もしかして船長さんの部屋なのかな、ここ」

二人は最初の部屋まで戻ると、この後のことを話し合った。

「結局、得られたのはこの人物ノートだけだ。船長はああ言ったが、いつまでもここに留まる訳にはいかない。外に出るぞ」
「これがホラーゲームだったら忠告を無視するってすっごく嫌な予感しかしないんだけどね……それが一本道なら我慢して通るよ…」

諦めてわらしも同意する。

「むしろフラグは積極的に立てていくべきだと思う」
「ホラーじゃなかったらそれでもいいよ。でも幽霊が出てる時点で、これ絶対ホラーだから…」

話しながら手を繋ぎ、二人は船長が消えて行った扉を開いた。


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