「ははうえ、どうしたんだろうね、たま」 「にゃぁ?」 「わたし、変なこと聞いちゃったのかなぁ」 梅雨のいない夜に、三郎がたまとそんな話をしてから3日後のこと。 鉢屋宗家の屋敷を訪れる影があった。 「三郎、こっちにいらっしゃい」 珍しく顔を変えている梅雨に呼ばれた三郎は、普段いる部屋を出ていくつか離れた座敷へと連れてこられた。梅雨の手によって開けられた襖の向こうには、既に人影がある。その中の一つを見つけて、三郎は驚いた。 そこには、三郎が苦手とする父・弥之三郎の姿があったのだ。 それだけで緊張してしまいそうになる三郎は、咄嗟に梅雨の影に隠れようとした。しかし、梅雨に先を促され、しぶしぶと弥之三郎の隣に座る。 そこでやっと、三郎は目の前の人間に意識を映した。対面する形で3人の人間がいる。少女と、その両親だ。三郎の前に座っているのは、三郎より年下の少女であった。俯いているので顔はよく見えないが、とても綺麗な着物を着ていて、それが安いものでないことは、何となくわかった。 「…さて、皆揃ったな」 梅雨が三郎の隣に座ったのを確認して、弥之三郎は口を開いた。静かな室内に男のものである声が響く。 「三郎、お前の目の前にいる女子は、伊織という。お前の従姉妹で、許嫁だ」 「許嫁って?」 三郎は聞き返すが、弥之三郎は答えない。 少女の母親が、少女の背中を押して顔を上げさせた。 「さ、伊織。三郎様にご挨拶なさい」 「はい、…鉢屋伊織です。よろしくお願いします、三郎様」 「鉢屋?お前も私と同じなのか?」 「………」 「伊織、返事を……申し訳ございません、三郎様。伊織は人見知りが激しく、まだ慣れぬゆえに…」 「別に気にしない」 あまり喋ろうとしない伊織を、母親が諫めて謝った。しかし三郎は特にこれといって気に障ったわけでもなく、ただ紹介された伊織をジッと見つめては、どんな子なんだろうと考えていた。 雷蔵の妹と同じか、それより幼い。少女の体は大層な着物で着飾ってはいたが、小さかった。 その後も当人たちを無視して、話は進められて行く。 三郎の親と伊織の親が言葉を交わし、三郎は暇で仕方なかった。伊織は先ほどから全く喋らないどころか顔を上げないし、梅雨は構ってくれそうにない。これなら、一人で修業をしていた方が良かったのではないか、と思う程に。 それに気付いたのか、梅雨が三郎に言った。 「三郎、伊織を連れて、遊んでらっしゃい」 「いいの?」 「えぇ。でも、屋敷から出てはだめよ。危険なことはしないこと」 「はい」 三郎は言われた通りに、伊織を連れて部屋を出た。 小さな背中が遠ざかっていくのを見送って、大人たちは再び会話を再開した。先ほどとは打って変わり、奇妙な空気が漂う。 片方はホッと安堵するように、もう片方は諦めにも近い哀愁を滲みだしながら。それに気付かず、前者は喜びさえ浮かべる。梅雨は後者だった。 「それにしても、三郎様はお優しいのですね。伊織は引っ込み思案なところがあるのですが、あれで慣れると積極的にもなりまして、将来は必ずや三郎様のお役に立ちましょう」 「えぇ、そうなのでしょう。見ていればわかります」 梅雨はため息交じりに声を漏らす。 悔しいことに、分家とはいえさすがは鉢屋の嫁。教育はしっかりとしているようだった。三郎の方も、伊織を嫌っている様子はなかった。 梅雨は自分が決めたこととはいえ、三郎を伊織に会わせるのは早かったかと、内心考える。 そもそものきっかけは、三日前。妹を欲しいと言った三郎の願いを、何とか叶えられないかと思案した末だったが、それがここまで気にかかるとは。 (妹の代わりといえば、少し違うけれど……伊織なら、三郎の欲求を満たす、いい条件だった) 異性で、年も下。従順で大人しい伊織なら、三郎はすぐに気にいるだろうと予測はできた。 頃合いだと、今まで散々面会を申し込まれていた伊織の両親の話を受け、それをうまく利用したつもりで梅雨は三郎を伊織に会わせた。 わかってはいた。三郎には友達と呼べる存在が雷蔵しかいなく、一緒に遊べる相手に飢えていたのだと。許嫁の意味はわからずとも、伊織を無条件で側におくことを許すだろうということを。 それでも。 (……それでも、三郎の心が伊織に移ってしまうのは…気に入らないわ。あぁ、私ったら、嫌な姑になるわね) 梅雨は内心で愚痴を零し、自嘲した。 実際問題、三郎が大人になり祝言をあげる頃には、梅雨はお役御免で屋敷からは出て行くことになる。再び山に戻り、時折鉢屋と文を交わし、極稀に顔を合わせる程度だろうか。 なぜなら、梅雨と鉢屋の関係を知る者は、鉢屋宗家の当主に限られる。一子相伝というか、この場合は父子相伝というべきか……それ以外に秘密を漏らす訳にはいかず、分家とはいえ必要以上に関わることは許されない。これらはすべて、誰でもない、梅雨の為である。 余計な憂いを払い、外部から守るために、約束を交わした最初の鉢屋家当主が、そう定めたのだった。 にこにこと笑う分家の夫婦と、複雑な心境に気落ちしている梅雨。 対照的な二組を見て、弥之三郎はうーんと唸った。 さて、三郎に引っ張られた伊織は、三郎が普段使っている部屋へと連れてこられた。 伊織は両親から引き離され、突然三郎と二人になったことに戸惑い、泣きそうな顔をしたが、三郎は手を離すことなく足を進める。伊織が着せられていた着物が予想以上に重く、動きにくかったため、何度か転びそうになった。 そうして慣れた様子で目の前の襖を開ければ、いつもの光景が三郎の目に映った。 「ここが私の部屋だ。何をして遊ぶ?」 嬉々として聞けば、しかし伊織はぐっと唇を結んで、喋らない。 「………」 「お前、何で喋らないんだ?わたしのこと嫌いなの?」 「あ、えと……ちがい、ます」 「なら、ちゃんと喋れよ。お前が何したいのか、わからない」 三郎の問いかけにもほとんど答えようとしない伊織。 三郎はそれに少しムッとした気持ちになったが、相手は自分より小さい子なので、わがままはあまり言わないようにする。 改めて何をして遊ぶか、と聞けば、伊織は蚊の鳴くような声で答えた。 「……あ…さぶろうさまの、すきなように」 それが、余計三郎を苛々させた。 「お前、何でわたしのことを‘三郎様’って言うの?」 「え……」 「一緒に遊ぶんだから、わたしたちは友達だろ。友達は、様なんて付けない」 「でも……ははうえに、さぶろうさまは、しょうらいわたしがおつかえするおかただから、しつれいのないようにって…」 伊織にとっても、許嫁という言葉はまだ理解していなかった。 ただ漠然と、三郎の為に生きるのだと教えられて育った。鉢屋ではなく三郎の為に。 三郎は周りから三郎様と呼ばれることには慣れていた。しかし、伊織のような年下の、しかも女の子に呼ばれたことは一度もない。雷蔵の妹に会った時だって、彼女からは三郎と呼ばれた。 だから、せっかくできた‘友達’に、三郎様と呼ばれるのは何となく癪だった。 「お前はわたしより下なんだろ?だったら、私の言うことを聞かなきゃいけないはずだ。わたしのこと、三郎様と呼ぶな」 「でも……」 「いいから!次に三郎様って呼んだら、怒るからな。わたしも、お前のことは伊織って呼んでやる」 「さぶろうさま…」 「伊織!」 「は、はい…っしつれいしました、さ、さぶろう!」 有無を言わせない声で怒鳴られて、伊織は慌てて言い直した。 びくびくと様子を窺う伊織とは対照的に、三郎はよし、と満足げに笑う。あ、怒ってない。そう思った伊織の心からは、自然と恐怖が消えていた。 そして、改めて手を引かれ、座布団の上で寝ている猫の元に連れてこられる。猫は二人が近付いても、大人しく眠っていた。 「伊織に、たまを見せてやる。わたしの大切な家族なんだ」 そう言った三郎の言葉に、伊織はこくんと、少しだけ嬉しそうな表情を出し、頷いた。 |