夏の暑い日に、梅雨は三郎を連れて海に行った。

鉢屋衆の存在する忍里は、深い森に囲まれた山のふもとにある。そこを流れる川をずっと下っていけば、海にたどり着いた。
町よりは少し遠いために、日帰りではなく途中をで宿をとることになる。必然的に屋敷を離れる時間も長くなり、梅雨は弥之三郎の意見を仰いで、家の者を何人か付けることにした。
といってもおおっぴらに並んで歩く訳ではない。表向きはいつも通り梅雨と三郎の二人で、あくまで親子水入らずである。

そしてこれが、三郎にとって初めての旅行となったのだった。




ジリジリと焼けつくような熱い日差し。風に乗って届く磯の香り。そして、空にも負けないくらい真っ青な水の塊――海だ。
三郎は生まれて初めて見る海を凝視し、端から端までを眺めた。波が白い泡を立てて寄ってくる。


「ははうえ、これがうみ?」


大きな目をぱちくりとさせながら尋ねた。梅雨は、えぇそうよ、と答えながら自身も久しぶりに訪れた海を見つめ、少しだけ感傷に浸る。昔のことを、思い出して。

――この海には、彼女の仲間がいるのだろうか。

三郎と手を繋いだまま、海岸沿いをゆっくりと歩く。三郎は色んな声をあげて喜んだ。
訪れた時間帯がちょうどよかったのか、潮が引いた跡からは干潟が顔を出し、小さな生物があちらこちらを移動している。三郎は目を輝かせながら聞いた。


「ははうえ、あれなに?」
「あれはカニよ。もっと大きいのになると、食べられるの」
「あれは?すごくへんなかたちしてる」
「あぁ、ヒトデっていうの。おもしろいわよね。…あ、ほら見て三郎、ここら辺に沢山あいている穴ね、この穴の近くを掘ると、貝がとれるのよ」
「ほんとう!?」
「少しだけ持ち帰って、宿で調理してもらいましょうか。今は随分と暖かいから、屋敷まで持ち帰るのは無理だけれど」
「とる!わたし、いっぱいさがすよ!」
「ふふ、でも最終的に持って帰れるのは、食べられる分だけよ」


それでも初の潮干狩り体験に、三郎は嬉々として取り組んだ。
素手で浜に穴を掘り、アサリやハマグリといった食べられる貝を探す。梅雨も手伝って、手本をみせてやった。
少し離れたところでは、同じように貝をとる人たちがいる。沖の方では、船に乗って漁をしている人たちもいた。


「ねぇ、ははうえ。ははうえはどうして、うみにいこうとおもったの?」


穴を掘りながら、三郎は聞いた。


「そうねぇ…暑いからっていうのもあったけど、一番は、私が海に来たかったからかしら。海は私にとって、特別な場所なの」
「とくべつ?」
「昔……とっても不思議な出会いをしたのよ。ここではない海でだけどね。あの出会いがなければ、今の私はなかった…そんな特別な、不思議な出会い」
「ははうえ…?」
「運が、良かったの。私があの場所で、‘あれ’と出会ったことは……今でもとても信じられないことだけど、それがなかったら、私は死んでたから。そう、とても運が良かった……でも、運が良いことが、正しかどうかは別。私にとって、今を生きていることは、良いことかどうかわからないから…」
「いきてちゃいけないの…?」
「……わからないわ」


梅雨の脳裏に浮かんだのは、長い時を経てすっかりと薄くなってしまった、家族の記憶だった。

あの夜、生死の境を彷徨っていた梅雨は、一か八かの賭けをして、それに勝った。人を不死身の肉体へと変える人魚の血の効力が、梅雨を瀕死の状態から救ったのだ。けれどそれは同時に、彼女は多くのものを失ってしまった。
奇跡的に目を覚ました梅雨が見たものは、血の海と、その中に横たわる大切な家族の姿だった。両親も、二人の兄と一つ上の姉、そして一緒に暮らしていた祖父母も、みんな息絶えていた。梅雨だけが死の淵からよみがえり、一人この世界に戻ってきたのだった。

親兄弟はみな酷い傷を負っているにも関わらず、梅雨の体だけ、山賊に斬られた傷は消えていた。
呼びかけても誰も返事をしない。
家から出て、村の中を探しても、生きている者は梅雨以外誰ひとりとしていなかった。…否、たった一人の少年を除いて。

梅雨が少年を見つけられたのは偶然だった。恐らく、もう少し時が遅ければ、彼は訃報を聞きつけた親戚に引き取られていたはずだから。
梅雨は少年に話しかけた。

『…みんな死んじゃったね』

少年は泣き叫び、血だらけの着物を身に纏う梅雨の胸に縋りついて泣き喚いた。
そして、彼は梅雨と共に村があった場所を去った。これから、生きる場所を探して。村で唯一生き残った梅雨と二人で、もう誰にも奪われない為に。強くなることを決意して。

少年の名字を、鉢屋といった。


(…失ったものは、とても多かった)


大切な家族を、人としての寿命を、帰る場所も、生きる意味も、梅雨は全て失ってしまった。それは少年にとっても同じで、二人は身を寄せ合って生きた。
そして梅雨は少年に告げた。自分は、もう死ぬことがないのだ。人として年を重ねることもないし、自分に関わった人は皆先に死んでいく。誰も、覚えている者はいない。私は、人の世から切り離された存在なのだと。
ならば、と少年は答えた。

『私が、あなたを覚えていよう。村を潰されて、家族を殺され、共に孤独であったあなたを、私は忘れはしない。私のことを理解してくれるのは、後にも先にも、あなたしかいないのだから。あなたは私の特別であると同時に、私もあなたの特別でありたい』
『けれど、言ったでしょう?私はあなたより先に死ぬことはない。あなたのその言葉が守られるのは、一生の内でしかない。死んでしまったら、そこでおしまいよ』
『例え私が死んでも、あなたのことは私の子孫が覚えている。そうやって、あなたのことは受け継がれていくのさ。何、問題はない。この先、何人の子が死んだとしても、私の血が絶えることがなければ、約束は守られ続けるのだから』
『あなた…』
『なぁ、人でなくなったあなたに、それでも一つ、人間らしいことをさせてくれよ。約束…これを、守らせてくれ』
『やく…そく……』
『私はあの時、あの村であなたがいなければ、悲しみのあまり、自ら命を断っていただろう。一人残される絶望は計り知れない…でも、あなたがいてくれた。それだけで私の救いとなった』
『それは、私だって…』
『そう、だからこそ、だ。この先もずっとあなたがこの世に残されるというなら、側には私がいる。私があなたを想い、私の子孫があなたを守り、生きて、死んでいく。そうやって、一人にならずに、生きてくれ。私は決して、あなたを一人にはしない』
『………』
『だから……、おや、泣いているのか?普段は気丈なあなたが』
『っ、泣いてなんかないわ…』
『そうか。あなたがそう言うのなら、そうなのだろうな。いいんだ、私はあなたが悲しみで泣いていないのならば』
『だから……泣いてなんか、』
『ねぇ、約束だ。鉢屋はあなたから離れない。あなたを守るために血を絶やすことはないだろう。そして、願わくば…』
『…願わくば、?』


『……私はもう一度、あなたに会いたいよ、梅雨』





ぼんやりと思い出に浸る梅雨に、三郎は声をかけるかどうか迷った。子供にしては珍しく、そっとしておく方が良いのかもしれないと思った。それは、先日熱を出して寝込んだ梅雨に対して思った時の、何倍にも。
しかし梅雨の頬からおもむろに、つう、と涙が伝ったのを見て、三郎は酷く驚いた。優しい梅雨が怒ることは滅多にない。悲しむ顔だって、本当に稀にしか見たことがないのに、このように泣いているところなど……初めてだった。


「ははうえ、ははうえ、」


三郎は必死に梅雨に縋りつく。
どうにかして、梅雨を泣きやませたかった。その時目に入った綺麗な貝殻を差し出して、梅雨に差し出した。


「ねぇ、ははうえ。なかないで、げんきだして?これ、あげるから」
「三郎…」
「わたし、ははうえがだいすき。だから、ははうえがいないのは、いや。ははうえが、ないてるのもいや。ははうえに、わらってほしい。ははうえが、ほめてくれるときのかおが、すき。そのためだったら、わたし、つらいしゅぎょうだって、がんばれるよ。きらいなものだって、ちゃんとたべる。ははうえのへんそうも、みやぶれるようにする。だから、だから…」


ぎゅっと梅雨の裾を掴む。
三郎は、とても真剣な目で、梅雨に伝えた。


「わたしは、ははうえがよろこんでくれるなら、なんだってするよ。だって、わたしは、ははうえがいっとうすきだから」


ぽろり、と三郎の目からも大粒の涙が零れた。
梅雨は静かに、落ち着いた動作で三郎の体を抱きしめる。だがその心の内に湧きあがるのは、抑えようもない感情だった。


「ありがとう、三郎…っ」


――私は、生きていて良かった。

これほどまでに三郎に求められているのに、あの時の判断が、生きたいと願ってしまったことが、何故正しくないことだと思ってしまったのだろう。
それはきっと、罪悪感。人の道を外してまでも、生に執着してしまった自分への後ろめたさ。本当の家族への、裏切り。
それが、ずっとずっと梅雨の心を苦しめていた。


「私…生きてて良かった。三郎に会えて、良かった…」
「うん…」
「だから、これからも精一杯生きるわ……三郎のために」


そして、約束が果たされ続けるように。

梅雨はこの日、数十年ぶりに涙を流した。まるで、本当に人間に戻ったように。
忘れていた感情を取り戻すかのように、嗚咽は長い間止まらることを知らなかった。

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