梅雨が異変に気付いたのは、前日の夜のことだった。 体が変に重い。動きが鈍く、反応するのに時間がかかる。いつものように三郎の相手をしているけれど、ちゃんと返答できているか自信がなかった。 ――これは、完全に風邪をひいたかな… 少し火照る体を案じ、額に手をあてる。いつもより体温が高い気がした。 梅雨は、三郎を連れて寝室に入ったのだったが、今夜は一人で休むことにした。敷いた自分の分の布団を片づけ、三郎だけを寝かせる。 三郎は隣から梅雨の布団がなくなると、目をきょとんとして聞いた。 「ははうえ、いっしょにねないの?」 「えぇ…少し、風邪を引いたみたいだから、隣の部屋で寝ることにするわ」 「かぜ?だいじょうぶ?」 「大丈夫よ…寝てれば、治るから」 風邪、という言葉に心配そうに表情を歪ませる三郎。 三郎は生まれて1年にも満たない時から、何度も風邪を引いては苦しんできた。だから、風邪のつらさを知っている。 梅雨は三郎のように免疫力が低い訳でも、幼い子供でもないから、安静にしていればすぐに良くなるはずである。しかし、三郎にうつしてしまえば、どうなるかわからない。年齢とともに徐々に上がってきているとはいえ、三郎は同年代の他の子供と比べると、免疫力が低いのだ。 表情を暗くした三郎の頬を撫で、梅雨は三郎に、今日は一人で寝れるかを聞いた。 「三郎にうつしちゃいけないから、私は隣の部屋に移るけど…三郎は一人でも大丈夫?」 「ん………ははうえが、そういうなら、いいこにしてる…」 「そう、三郎は偉いわ」 それから、梅雨は今夜はたまと一緒に寝るように言って、隣の部屋へと移った。 一人ぽつんと残された三郎は、言われた通り、たまを布団に入れて苦しくない程度に抱きしめた。暗い部屋の中で梅雨と夜を共にしないのは初めてである。 何だか落ち着かなくて、変に目が冴えてしまった。腕の中のたまは、すやすやと眠っているのに。 「ははうえ…だいじょうぶかな、」 三郎にとって、梅雨は一番のよりどころであり、絶対的な存在。その梅雨が苦しんでいる。同じ屋敷にいるのに、会えないと思うと…不安で仕方なかった。 そっと布団を抜け出し、やっぱり一緒に寝たいと頼んでみようと思った。 風邪を引くのは嫌だけど、顔を見れないのはもっと嫌だ。いつも隣に感じている体温が安心をくれるのに、今夜はそれがない。 風邪といっても、あんまり酷くないみたいだし… そう考えた三郎が、襖に手を触れようとした瞬間である。 隣の部屋から、咳き込む音が聞こえてきた。 『げほっ!…ごほっ、げほ…っ』 「!」 襖に伸ばした手がぴたりと止まる。 中からは何度もむせる音がして、その度に苦しそうな声が聞こえてくる。三郎は、本当に中に入って良いのかを考えた。 恐らく、梅雨は三郎が中に入ってきたとしても、叱ることはない。三郎を愛し、溺愛しているからだ。しかし、一緒に眠ることはやはり許してくれないだろうと思った。三郎を大切に思うがゆえに、今まで三郎が怪我をしたり危険な目に遭うことは、絶対的に避けてきたのである。 愛されている、という自覚はあった。だから、心配だけどそっとしておいてあげよう。自分が風邪を引いてしまったら、梅雨はもっと悲しむ。 三郎は布団に入り直すと、眠っているたまを再び抱きしめ、じっと耐えるように睡魔がくるのを待った。隣の部屋からは、時折咳き込む音が聞こえてくる。三郎は、それが気にならないよう、頭から布団を被って遮断した。 今はただ、梅雨が元気になるよう祈るだけだ。遠い朝日を待ち焦がれながら。 結局、梅雨はそれから2日程寝込み、三郎の世話は他の者がすることとなった。 三郎は、うつってはいけないからと、梅雨に会わせてもらえなかった。面会が許されたのは、熱も下がり、咳も止まった3日目の昼ごろだった。 会った瞬間に抱きついてきた三郎を抱きとめ、梅雨はいつものように微笑んだ。 「心配かけちゃってごめんね、三郎。もうすぐ、元気になれるから」 「ははうえ……はやく、いっしょにごはんたべたいし、いっしょにおふろはいりたいし、よるはいっしょにねたい…」 「えぇ、元気になったら必ずそうしましょう。私も、三郎に会えないのは寂しいわ」 「うん…」 自分に張り付いて離れない三郎の頭をそっと撫でながら、梅雨はふと、あることを思いついた。 「ねぇ、三郎。今度、海に行きましょう」 「うみ…?」 「川よりも、ずっと大きな場所で、たくさんの水があるところ……そろそろ暑くなってきたものね。一緒に、遊びに行きましょう」 そこは梅雨にとって、思い出深い場所である。たとえ昔行った場所は違えども、遊びに行くのに支障はない。それに、海は繋がっている。梅雨は自分が大好きな海に、三郎を連れていってやりたかった。 ふわり、と笑った梅雨に、三郎は力強く頷いて答えた。 「ははうえと、うみにいく!ぜったいいくから、はやくげんきになってね!」 その声に、梅雨は微笑んで応えたのだった。 |