三郎を連れて山で遊びという名の修行をしていた時だ。

一匹の猫が近くを通った。
群れはなく、本当に一匹で。この辺りはえさ場もなく、深い森が続いているので、大方迷ってしまったのだろう。
梅雨が猫を呼んでやると、猫の方は少し警戒した。しかしそれ以上に、傍らにいる三郎の方が怖がった。


「ははうえ、あれ、なに?こわい…」
「あれは猫といって、動物の一種よ。大丈夫…何もしなければ、襲いかかったりはしないから」
「でも…あのねこ、こっちをみてる…」
「それは、私たちが猫を見てるからよ。多分、あの猫は迷子なのね」


三郎の身長に並ぶくらいに屈んだ梅雨は、もう一度猫を呼んでみた。
少し痩せているので、腹をすかせているのだろう。何かあげられるものはあったかな、と考えて、しかしやめた。下手に餌をやって懐かれてしまっては困るのだ。
三郎に、動物というのを教えるのには調度いいかなと思ったのだが、仕方がない。猫だって迷惑だろう。

諦めかけた梅雨が立ち上がろうとした時、三郎は梅雨の着物を掴みながら言った。


「ははうえ、あのねこ…おなかがすいてるのかな」
「…どうして、そう思うの?」
「だって、なんか…ちいさい、よ。まいごのねこなら、おうちにかえれなくて、ごはんたべてないのかもしれない…」
「きっと、あの猫に帰る家はないのでしょう」
「どうしてわかるの?」
「家があったら、わざわざこんなところまでさ迷ってこないからよ」


それから梅雨は、ここがあまり人のやってこれない里であることを三郎に教えた。
その理由は三郎には理解できなかったが、ひとつだけわかったのは、このままだと猫が益々お腹をすかせてしまうのではないかということ。そして、おなかがすき過ぎたら最後にどうなってしまうのかもわからないが、三郎はその時、猫を可哀想だと思ってしまった。


「ははうえ、あのねこに、ごはんをたべさせたい」


三郎の声にキョトンとした梅雨は、じっと三郎の顔を見る。
三郎は一度声に出してしまったらはっきりとそう思ったようで、それから何度も猫に餌を与えたい、と言葉を繰り返した。


「ははうえ、おねがい。あのねこ、かわいそうだから…」
「でもね、三郎。猫は一度餌をやってしまえば、懐いてついてきてしまうのよ」
「いけないの?」
「そうしたら、猫が死なないように毎日餌をやって、面倒をみてやらなければならない。それは動物を飼うってこと」
「まいにち…」
「そう、毎日。ご飯をあげ忘れたりしたら、とっても可哀想よ?だから、動物を飼うなら、三郎が遊びたくても、忘れずに世話をしてあげなければいけないの。それはとても大変なことでしょう?」


梅雨は三郎に動物を飼うことの難しさを説明した。
三郎は梅雨の話をよく聞いて、うーんと考える。
猫に餌をやることは、猫を飼うこと。毎日食べ物をあたえて、面倒をみてやらなければならない。それでも、今目の前にいる猫を、三郎は放っておくのは嫌だった。


「ははうえ…ねこ、かってはだめ…?」


弱弱しい三郎の声が、梅雨の鼓膜を揺らした。


「いけないことはないけど、誰かが世話をしなければならないのよ」
「なら、わたしがやる……わたしがねこのめんどうをみるから、かわせて!あのねこ、つれてかえりたい!!」


三郎が大きな声で頼み込む。
梅雨は、内心どうしようかと悩む。動物に触れさせるにはいい機会となるけれど、果たして本当に三郎が世話をできるのか。途中で飽きてしまわないか。そしてなにより、猫を飼うことを弥之三郎が許してくれるかどうか…
色々と考え、その間も三郎はお願い、と梅雨の着物を掴んで揺する。
あぁもう、あれこれと考えるのはよそうか。


「わかったわ、三郎。そこまで言うなら、あの猫を連れて帰りましょう」
「ほんとうに!?」
「えぇ。でも、猫の世話はちゃんとするんですよ」


言い聞かせるように諭すと、三郎は元気よくはい!と返事をした。
梅雨は改めて猫を見やる。猫は事の次第を見守るかのように、そこにずっと佇んでいた。さて、問題はこれからだ。


「三郎、猫を飼うことは許したけれど…あの猫が一緒に来たがらなかったら、大人しく諦めるしかないのよ?」
「ねこはいっしょにきたくないの?」
「さぁ…それは猫に聞いてみないと。…猫、おいで。腹をすかせているのね、うちにいらっしゃい」


梅雨は三郎を抱き上げると、猫に向かって言葉を投げかけた。当然、人の言葉など通じないから、猫はきょとんと首をかしげる。
しかし梅雨は何度か同じ声を掛けた後、ついてきなさい、と屋敷のある方へと踵を返すと、猫は気になったのか、少し離れて後をついてきた。その様子を見た三郎が嬉しそうな声を上げる。


「ははうえ、ついてきた!」
「えぇ。猫の方も、その気があるみたい」


人の言葉を理解したのか、はたまた単に腹が減って何かおこぼれをもらおうとついてきているだけか。梅雨にはわからなかったが、とりあえず、ついてきてくれていることは確かなので、最後までついてこいと念じながら歩く。
三郎は梅雨の腕の中からずっと猫の方を見ていた。


「帰ったら、うんとご飯を食べさせてやらないとね」


梅雨の言葉に、三郎もうん、と返事をした。








縁側に寝転ぶ二つの影を見つけて、弥之三郎は足を止めた。
一つは息子である三郎のものだ。しかし、もう一つは?
三郎の横に体を伸ばして寝そべるそれを見とめて、弥之三郎は僅かながらに口元を緩めた。すぐ横から、声がかかった。


「あら、弥之三郎様。いかがなされました?」
「ううん、いや、な?猫を拾ってきたんだな」
「えぇ、そうなのですよ。山で見かけて…三郎が気に入ったようなので、動物に慣れさせる為にも良いかと」


説明している間に、弥之三郎は三郎と猫に近づき、そっと両方の頭を撫でた。
三郎が三才になって以来、こうして優しく接するのは初めてのこと。本来ならそのまま厳しく接するのが望ましいのだが、よほどこの光景が愛しく見えたようだ。


「あーぁ、三郎のやつよだれ垂らしてやがる…」


持っていた手ぬぐいでよだれを拭きとり、もう一度くしゃりと頭を撫でる。夕日に晒された三郎は、うーん…と気持ちよさそうに寝息を立てた。
その様子を見て、梅雨は心の底から幸せをかみしめていた。


「やっぱり、父親ですね」
「うん?」
「普段は厳しくても、こうして甘やかしているんですから」


くすくすと笑う梅雨に、弥之三郎は少しだけ照れたように、そんなんじゃないと笑う。


「まぁ、でも。三郎が何よりも大切なのは本当だからな」
「それ、三郎の前で言ってあげれば良いでしょうに」
「今さら信じる訳がないだろ、梅雨にべったりな三郎がなー」


やれやれ、と首を振った弥之三郎は、立ち上がって縁側を後にする。


「三郎のことは全部梅雨に任せているんだよ」


最後に聞こえた声に頭を下げ、梅雨は三郎を抱き上げた。
そうして、柔らかな布団の上へと、横たえさせたのだった。

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