春の気配が色濃くなり、青々とした空が広がるとある日のこと。 三郎は、三才の誕生日を迎えた。 屋敷の中に慌ただしい様子はなく、祝うための準備が進められる訳でもなく、いつもと変わらぬ雰囲気である。 しかし、今日は鉢屋宗家の嫡子の誕生日である。それも、三才という節目の。何もない訳ではない。 表向きは静かでも、水面下ではひっそりと…大きな転機を迎えていた。 「三郎、お誕生日おめでとう」 梅雨は三郎を座らせ、まずは祝いの言葉を贈った。 三郎は嬉しそうに頬を緩めた。 「三郎がもう三才だなんて…月日が経つのは早いわね」 「ははうえ、わたし、三才!」 「えぇ、とても喜ばしいことだわ」 嬉しさに思わず飛び跳ねる三郎をあやしながら、梅雨は抱きしめることなく再び座敷に座らせた。 甘えたい三郎は抱っこ、を繰り返すが、それをやってやることはなかった。 梅雨は今日から三郎の忍としての教育を始めなければならないのだ。 「三郎、座りなさい」 凛とした梅雨の声が通ると、三郎は戸惑いながらも座りなおした。 そして、少し様子をうかがうようにおどおどとした視線で梅雨を見る。 「今日から、忍としての訓練を始めます」 「しのびって?」 「忍とは、忍び生きる者……お父様や、この屋敷にいる者は皆忍者なのよ」 「じゃぁ、ははうえも?」 「そうね……現役を離れて随分と時が経つけれど、私も忍の一人」 そこまで言って梅雨は一旦言葉を切った。 「鉢屋家は、鉢屋衆をまとめる宗家。そしてその頂点にいるのが弥之三郎様……三郎、あなたのお父様。三郎は、いずれはお父様のように立派な忍者となって、鉢屋家を、鉢屋衆をまとめていかなければならないの。そのために必要な知識や術を、これから少しずつ学んでいくのよ」 梅雨の説明に三郎はきょとんとした顔で首をかしげた。 まだ幼い三郎に、鉢屋のしきたりや決まりごとを教えても、理解できないだろう。だから、この話は追い追いしていくことにする。 今日はひとまず、三郎が‘鉢屋三郎’であることを認識させることから始める。 座っている三郎に近づき、梅雨は用意しておいた変装の道具を使って、三郎の顔を違う人物へと変えた。 初めて体験する変装の感覚に、三郎はくすぐったいような、鬱陶しいような、不思議な気持ちへとなる。 「ははうえ、これなぁに?」 問えば、梅雨はよく磨いた銅の鏡を持って三郎に見せた。 途端、大きな声が上がる。 「ははうえ!これ、わたしじゃない!!」 「えぇ、三郎じゃないわ」 「なんで!?わたし、いやだ、こんなのいやだ…!」 自分のものではない顔にびっくりした三郎は、すぐにでも変装を解こうとした。けれど、それを梅雨は許さなかった。 「だめよ、三郎」 「どうしてっ?」 「三郎は、あなたは次期鉢屋家の当主となる…‘鉢屋三郎’なの。おいそれと、人に顔を見せてはならない」 「でも、わたしはいつもははうえといっしょだから…ほかにあうひと、いないし」 「いつ誰がこの屋敷に来るかわからないわ。その時のために、いつも変装をしているの」 「ずっと?」 「えぇ、ずっと」 「そんなの…やだ!」 ずっとこんな変な感覚を受けていなければならないのか。 三郎はわがままを言って、駄々をこねた。しかし梅雨も依然として許さない。 本当は、梅雨だって三郎の嫌がることはしたくない。けれどこれは、三郎の為でもあるのだ。いつ命を狙われるかわからない‘鉢屋三郎’を守る為には、変装は重要なスキルとなる。そして、鉢屋を治める者としては当然、習得しなければならないものである。 「言うことを聞きなさい、三郎」 「だって…」 「弥之三郎様も、三郎のお爺様も、鉢屋に生まれた者はみんなそうしてきたのよ。三郎にだって、できるでしょ?」 「………」 優しく諭すように言ってもまだ不満げな様子。 ずっと甘やかして育ててきたせいもあり、三郎多少わがままなところもある。こうしてへそを曲げると、機嫌は中々直らない。 仕方ないか、と息を吐いて、梅雨は三郎を抱き寄せた。 「今はその感覚が嫌なんだろうけど、そのうち慣れるから」 「きもちわるい…」 「そうね、じゃぁお菓子でも食べましょう。好きなことをしていれば、忘れるわ」 それに、今日はせっかくの誕生日でしょう? 誕生日、という言葉に三郎が反応する。ぱぁっと顔を綻ばせた。 その様子を見て、梅雨はくすくすと笑いながら三郎の体を抱えて立ち上がった。 そうだ。今日は誕生日だった。嬉しいできごとなのだ。 甘えるようにすり寄る三郎を撫でて、菓子のある部屋まで移動する。その途中で、三郎は梅雨に尋ねた。 「ははうえ、わたしはみっつ」 「えぇ、みっつになったわね」 「ははうえは、いくつ?よっつ、いつつ?」 「さぁ…いくつだったかしらね」 「わからないの?」 「覚えてないのよ」 だってもう、二百年は生きているのだものねぇ… 三郎にこの話をするにはまだ早すぎる。話すのは、もっともっと大人になってからだ。 我が身に受ける三郎の重みを実感しながら、梅雨は口をつぐんだ。 |