ここで少し、梅雨の話をしよう。
梅雨は200年以上昔、蛙吹家の娘として生まれた。実家は古くから神を祀る家系であったが、梅雨は4人兄弟の末っ子であった為に家のことには疎かった。
普通の村娘として生まれ、普通の生活を送っていた。
そんなある日、家の仕事を手伝いながら一人海辺を歩いていた梅雨は、不思議な声を聞いた。
『助けて…』
女の人の声だった。何事だろう、とその時は聞こえてきた言葉の意味をとらえ、ただ慌てて声の主を探した。何度か聞こえてくる声は、その後すぐに見つかった。
同時に、声の主の姿に梅雨は目を見開いた。


『お願い…助けて…』
『あの…あなたは…?』
『あぁ、人間の方。お願いです、どうか私を助けてください。海に帰れなくて困っているのです』


女は綺麗な顔をしていた。髪は長く、海水で湿り艶があった。
しかしそれ以上に驚くべきことは……彼女は、足の代わりに魚のような尻尾を持っていたのだ。


『もしかして、人魚…?』


梅雨も聞いたことがある。太古の昔、この国には様々な妖怪がいて、中には人間にとてもよく似たものたちがいたと。
しかし生まれてこの方そんなアヤカシなど一切見たことがなく、想像上の生き物だと思っていた。たった今、目の前にいる彼女を除いては。


『あの、あなたは人魚ですよね…?』
『えぇ、そうです』
『何故助けを求めていたのですか?』
『実は私、サメに追われて陸の近くまで来たのですが、潮が引いてしまって、戻れなくなってしまったのです。このまま水に浸からないと死んでしまいます。どうか、助けてください』


女はとても悲しそうな顔で梅雨に頼んだ。見れば、体のところどころが傷んでいる。サメに追われて怪我をしてしまったのだろう。
梅雨は近くの草むらから薬草になりそうな葉を摘んでくると、人魚の傷にあてさせた。人魚は痛がったが、我慢して受け入れた。
最後の傷へと取りかかろうとした時、人魚は待って、と梅雨の手を止めさせた。
そして、傷口から滴る血を梅雨の持っていた竹筒の中に流し込み、それを返した。


『ありがとうございます。こんな風に、怪我の手当てまでしてもらえるとは思いませんでした』
『あの、今のは一体…?』
『僅かですが、私の血をその中に入れさせていただきました。人魚の肉を食べると、不老不死になるという話を知りませんか?』
『いいえ、聞いたことがありません』
『私たちの血にはそのような力があります。けれど、私たち人魚が不老不死になるということはありません。私たちの肉を、人間が口にすることで不老不死になるのです』
『それはつまり…』


この血を飲んだら、私は不老不死になるということ…?


『…人の世は戦乱が多いと聞きます』
『えぇ、そうなのでしょう』
『わたくしを助けていただいたあなたに、せめてもの恩をと思いまして…あなたに万が一のことがあっても、私の血を飲めば死ぬことはありません。生き延びられます』


そう説明する人魚に、梅雨は動揺を隠せない。
簡単に‘死ななくなる’薬だと言われてみれば理解はできるが、はたしてそれが梅雨にとって良いことなのか、納得はできない。
困ったように俯いてると、人魚は察して薄く笑った。


『大丈夫です。不老不死になるといっても、血だけでは効果が薄くなります。あなたが望めば、不老不死の肉体ではなくなり、再び元の人間としての暮らしを送れるようになります』
『本当に?』
『えぇ。ただし、ひとつだけ条件があります。それは―――』


人魚は話を続けた。梅雨は黙って耳を傾ける。
人魚の血を飲んだ者が不老不死でなくなる条件。それを聞いて、目を大きく見開く。


『そ、そんなこと…私っ、』
『あなたはまだ若いようですから、気になさらないでください。けれどいつか、私の血が役に立つと思って、私はあなたに血を差し上げました。これをどうするかは、あなた次第です』
『…………』


梅雨は迷った。
血を飲んで不老不死となるべくか。それとも、このままずっと、いつ死ぬかもわからない戦乱の世の中で恐れながら生きていくのか。
結論は出せなかった。

手当てを終えた人魚を海に帰してやると、彼女は最後にこう告げて消えていった。


『人魚の血の効力は、満月の夜までです。それを過ぎて飲んでも、不老不死になることはできません。決断されたのなら、お早めに―――』


梅雨は手にした筒を、じっと見つめた。




その夜、梅雨は筒を持って考えていた。
昼間の出来事は誰にも言っていない。人魚に会ったと言っても、誰も信じやしないだろう。何よりそれを口にするのは梅雨自身、いい気がしなかったのだ。


『不老不死かぁ…』


本当に、血を飲んだだけでなれるのだろうか。あの人魚が言っていたことは本当だろうか。
もしかして、実は不老不死になるという話は真っ赤な嘘で、飲んだらすぐに死んでしまうとか…
そこまで考えて梅雨はぶるっと背筋が震えた。
やめよう。わからないことをあれこれと憶測したところで、答えが出る訳じゃない。もう忘れよう。
梅雨は血の入った竹筒を家族にバレない場所に隠し、今日のことはすべて夢だったと思うことにした。

それから、幾日かして。ちょうど月のよく映える夜に、夜盗の群れが梅雨の村を襲った。





『梅雨!逃げなさい!!』


両親と上の兄弟たちが叫ぶ声を聞いて、梅雨は立ちすくんだ。目の前には鋭い刃を持った男たちが何人も迫っていた。
すぐそばには殺された家族の死体が横たわっている。
梅雨の体は硬直したように動かない。


『お前もこの家の人間か…まだ若い娘だな』
『イ、イヤ……こないで…』
『なぁに、すぐには殺しはしない。殺す前に俺たちの相手をしてもらうからな!』


下品に笑った男たちを見て、梅雨はふつふつと心の底から湧きあがるものがあった。
何が、相手をするだ……誰があんたたちなんかと……っ!
私の家族を、みんなを返して!!!

梅雨は落ちていた包丁を拾うと、わき目もふらず走り出した。男の一人に向かって包丁を突き刺す。
しかし刃が男に触れる前に、鋭い刀が梅雨の胸を貫いた。


『っふ、あ……っ!』
『おいおい、殺してどうする。せっかく見つけた女なのによ』
『仕方ねぇだろ、こいつ俺を殺そうとしてきたんだから』


男が刀を引き抜くと、梅雨の体は重力に従って崩れ落ちた。足に力が入らない。胃から胸から血がこみあげて、これはもう死ぬな、と直感的に思った。
どうしてこんなことに…
地に伏せた梅雨の目に映ったのは、自分と家族の血が混ざった、大きな水たまりであった。


『ほら、女ならあっちで調達した。行くぞ』


男たちは梅雨が使い物にならないと知ると出て行った。
梅雨は苦しくて、悔しくて、悲しくて、涙がとめどなく溢れた。止まらない。嗚呼、息もできず、意識が遠のいてく。
悔しいなぁ、なんでこんなことで、私は死ななくちゃならないんだろう…



『人魚の血の効力は、満月の夜までです』



絶望に満たされそうになった時、先日会った人魚の女のことを思い出した。
そうだ、こんなことなら嘘でもいいから飲んでみるんだった。そうすれば、死ななかったのかもしれない。

閉じかけた瞼を開くと、空に浮かぶ丸い月が目に映った。黄色い月が光々と輝いている。
人魚の血が入った竹筒はどこだっけ…あぁそうだ、その藁の中。すぐ近くじゃない…
梅雨は回らない頭で思考をめぐらせ、最後の力を振り絞って手を伸ばした。指に触れた竹筒の感触に、ゆっくりと力をこめ引き寄せる。
中はまだ入っていた。不思議だ。血が固まっていない。これはどういうことだろう。
嗚呼、それよりも…


(今はただ、喉が渇いた)


人魚の話が本当かどうか、生き延びられるかということよりも、梅雨は飢えていた。
そして、竹筒から零した血の雫を幾ばくか口に含むと、遂にそこで意識を手放した。

二度と目が覚めぬような、深い、眠りの中へ…

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