ある日三郎を連れて山の中に入った。 山といってもほんの入り口、傾斜は緩く木々も少ないところである。ずっと屋敷の中に閉じ込めておくのも良くないと、梅雨が弥之三郎に許しを得てすぐのことである。 三郎は山に入ってすぐ、辺りの様子に目をぱちくりさせた。 知らない場所で不安があるのだろうか。無意識に梅雨の着物を掴んでいる。 梅雨は三郎を抱き上げたまま、辺りの木を指さしては、あれが樫の木だ、あっちは椿の木だと語りかける。 近くにあった花を一輪手折ると、はいと三郎に渡した。 三郎は初めて見る野生の花に興味津津だった。 「綺麗ね、三郎」 「あー」 「そうね、香りも良いわ」 あっちにはもっと大きな花があるのだけれど、今の三郎にはちょっと手があまるかしら。 そんなことを考えながら、梅雨は山の中を散策した。 夏とはいえ山に入ってしまえば、多少熱気が緩和される。とはいえ木陰に入っていないと子供はいつ熱中症にかかってしまうかわからないので、梅雨は三郎の様子もみながら、慎重に歩き回った。 散歩の途中で河原を見つけると、水がほとんどこない隅で三郎と足を水につけて遊んだ。 三郎はいたくご機嫌な様子であった。 「気持ちいいね」 と、梅雨が言えばきゃっきゃと笑う。 そうして長い一日を終えた。 夜、梅雨が三郎の隣に布団を敷くと、体だけ三郎の方に寄せて既に夢の中へと行ってしまった三郎の頭を撫でてやる。 今日は沢山遊んだから疲れたのだろう。 屋敷に戻ってから、夕餉の前に少し寝てしまっていた。 なんとか風呂と夕餉を済まさせたはいいが、気付いた時にはすでに眠っていて… 梅雨は三郎を起こさないよう、そっと抱き上げた。 「今日は楽しかったね。また遊びに行こうね、三郎」 「…むー……」 寝ながら梅雨の声に反応したのだろうか。 小さな寝言を漏らし、三郎はすやすやと寝息を立てていた。 梅雨も早く行燈の光を消さなければ、と手を伸ばした時、三郎の口から微かに声が聞こえた。 「はは…う…え…」 「―――え?」 「むー……」 梅雨が振りかえると、三郎は相変わらずすやすやと眠っていた。 しかし、先ほど聞こえた声。 あれは確かに三郎のものだった。 小さな声で、‘母上’と…… 聞き間違いかもしれない。けれど、もしかしたら… 梅雨は自然とつり上がる口元を抑えることはできず、幸せに満ち足りた顔で三郎の頬に口づけた。 そして、今度こそ明りを消し、静かな夢の中へと、三郎を追って向かっていったのだった。 |