深夜。梅雨は隣から発せられる甲高い声によって起こされた。
声の主は三郎。赤子の典型的な夜泣きであった。

梅雨は三郎を抱き上げると、自分の布団の上でよしよしとあやす。夜泣きをする理由は大抵が授乳の催促だ。
しかし梅雨は子を産んだ経験もなく、当然母乳が出るはずもない。
米のとぎ汁や白湯、時折ヤギの乳を与える他は、近くから取り寄せた人間の母乳を与える他ない。けれど、昼夜問わず泣きじゃくる三郎に飲ませてやれるのは、米のとぎ汁が大半だった。
梅雨は隣室に控えていた者に、米のとぎ汁を温めてくるように頼むと、それまで三郎をなだめる作業に専念した。

こうして夜中に起こされるのは初めてではない。生まれたての赤子は、ある程度の大きさになるまで成長しないと、こうして食事を催促する。
それは昼夜問わず。朝も、昼も、夜中も、定期的に三郎は泣き叫んでいた。


「よしよし、もう少し待ってね。もう少しでご飯が届くから…」


三郎を抱き上げて、背中をポンポンと叩きながら言い聞かせる。
こういう時、梅雨は自分のふがいなさに少しだけ落ち込む。
弥之三郎に頼まれて母親になってはみたものの、これでは全然役に立っていないではないか。せめて私の乳房から母乳が出れば…いや、どう考えてもそれは無理だ。なら、とにかく三郎をあやすしかない。

夜中だからだろうか。とぎ汁が届くまで、時間がかかった。温めるのにも火種を起こさねばならない。

梅雨は泣き叫ぶ三郎を見ると不憫で仕方がなく、色々と思い悩んだ結果、近くにある手ぬぐいを手にとった。そして、着物の端から自分の乳房を取り出し、一度手ぬぐいで拭くとそれを惜しげもなく三郎の口へと含ませた。
母乳は出ないけれど、少しの間だけ…こうして三郎の気がまぎれるのなら。
梅雨は必死に乳首に吸いつく三郎を見て、まるで本当の母親になった気分でいた。

嗚呼、可愛い三郎。私の三郎。愛しい子…



「お待たせしました」


襖が開き、壺と小さな器を持った者が戻ってきた。
梅雨は必要な分のとぎ汁を器に移し、それを三郎の口に寄せた。三郎は与えられた器にも気付かず、ずっと梅雨の乳首に吸いついている。
それを見た梅雨は、なんだかおかしな気分になった。


「ほら、三郎。ごはんはこっちなのよ…口を離して、」


母乳が出ずに、とうとうぐずりだした三郎に向かって、梅雨は静かに語りかける。
真夜中に、三郎の泣き声がこだましていた。



翌日、眠たい体を起こして縁側でなごんでいると、弥之三郎が通った。
弥之三郎には梅雨が目を離さないなら、三郎を連れて屋敷の中を歩き回って良いという許可を得ていたので、天気の良い日はこうして太陽の光を浴びせることにしている。
二人の姿を目に留めた弥之三郎は、ふっと柔らかい笑みをこぼした。


「なんだ、酷く眠たそうだな」
「えぇ、そりゃ夜中に何度も起こされていますから…」
「知ってる。私の部屋にまで聞こえてくるぞ、さすが私の子だなぁ」
「きっと将来有望ですよ」


そう言って、二人で笑い合う。
相変わらず屋敷の者は梅雨に対する態度を決めかねているが、弥之三郎とはこうして冗談を言い合える程である。


「でも、三郎はいい子ですよ。とても」
「そうか?」
「えぇ。出ないとわかっていても、私の乳に吸いついたら、とりあえずは泣きやんでくれるんです。きっと、人の心がわかるんですね」
「そ、そうなのか…」


梅雨の発言に少しだけ動揺しつつも、弥之三郎は三郎を見て頭を撫でた。
まぁ、本当に珍しいと梅雨が言葉を漏らすが、弥之三郎はどうせわからないから、と答えた。


「大人になったら、三郎も私に撫でられたことなど、微塵も覚えてないだろう。今だけ、許される時間だ」
「弥之三郎様…」
「あぁ、あいつにも見せてやりたかったなぁ……三郎が成長するところを、」


ま、そんなの無理だってわかってるけど。

弥之三郎は独り言のように呟くと、音もなくその場から離れた。
初めてだった。こうしてはっきりと、亡くなった奥方に未練を残す言葉を聞いたのは。きっと、三郎の顔を見て思い出したのだろう。
三郎は本当の父と母に愛されることはできない。本当の母親の顔すら、永遠に知ることはないのだ。

それはなんと哀れなことだろうと梅雨は思う。だからそれ以上に、自分が持てる愛情全てを注いでやらねばとも。


「…でもね、弥之三郎様。三郎はきっと、忘れたりなんかしませんよ。父親に、頭を撫でられたことを」


きっと大人になってもそのぬくもりは覚えている。誰の体温でもない、弥之三郎の手のぬくもりを。

言葉でなく、表情でもない。
ぬくもりというのは、決して忘れられるものではないのだ。
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