梅雨がすっかりと明け、山中の靄も大分減ってきた頃。
梅雨は使いの者と共に、住み慣れた我が家を離れた。
下山するのは多少勇気のいることだったが、先のことを考えるとそうも言っていられない。山のふもとに下りれば、すぐに新しい家に着く。そうしたらきっと、今まで以上に忙しい日々が続くことがわかっていたので、さっさと覚悟を決めた。

使いの者は道中何も喋らなかった。最初は後ろを歩く梅雨の様子を覗っていたが、梅雨が問題なく着いてこれるので杞憂に終わった。
使いの者と言っても彼(もしくは彼女)は立派な忍なのだから、あれこれと言葉を紡ぐこともないだろう。
しかし、それはそれでつまらない。
梅雨は、これからこのような人たちに囲まれながら生活することに不安を覚えつつも、胸の中では早く子に会いたいという気持ちを抱きながら、黙々と足を進めた。

半日程経って、ようやく深い山から脱出することに成功した。
日の出と同時に出発したのに、日はもう傾き始めている。
梅雨たちは山のふもとにある大きな屋敷へとさらに道を進んだ。
入口には誰も立っていないが、ちらほらと梅雨覗うような気配がある。梅雨は何も知らないふりをして、敷地の中へと足を踏み入れた。


「蛙吹様は、こちらでお待ち下さいませ」


入口で人が変わり、案内された部屋で腰を落ち着ける。久しぶりに歩き回ったので疲れていた。
すぐに茶と菓子が運ばれると、躊躇いもなく口をつけた。
そうして一人部屋で待たされていると、しばらくして襖が開いた。相変わらず、音がない。
突然現れた知人の気配に、梅雨はようやく顔をあげた。


「久しいな、梅雨」
「…お久しぶりです、当主」
「こうして再び顔を合わせるのは何年ぶりだったかな。夏だというのに、白い肌だ」


鉢屋家の当主――鉢屋弥之三郎は、屈託のない笑顔で梅雨の前に座ると、顎に手をあてた。その様子はどこか子供っぽく、梅雨ともあまり年が変わらないように見える。
梅雨はまず、本題に入る前にこれを口にした。


「此度の事は、まことお悔やみ申し上げます」
「―――」
「弥之三郎様から祝言の文をいただいてから、三年と経っておりませぬ。さぞかし、お辛いことでしょう」
「そうは言っても、四十九日は過ぎた」
「人の心なんてそんな簡単に割り切れませんよ」
「私は忍であって人ではない。…人の心など、とっくに捨ててしまったよ」


弥之三郎は苦笑したように呟いたが、梅雨にはわかっていた。いくら忍とはいえ、妻を亡くして悲しくないはずがない。特にこの人は。
立場上、人前で泣くことも叶わず、心中は決して穏やかではない。
三年前に受け取った文には、それこそ人には言えぬような心の内を、彼は梅雨へとつづったのだ。
だからこそ、最愛の妻が残した最愛の息子を大切に育てたい。
梅雨を呼びつけた理由は、梅雨にもはっきりとわかっていた。


「過ぎたことはいい。本題に入ろう」


弥之三郎は冷静に話を打ち切り、顎から手を離した。


「わかっているとは思うが、私の息子がどのような立場にあるかは理解しているな?」
「えぇ。弥之三郎様のご子息、鉢屋三郎様は、鉢屋家の跡取りとなるお方。それはつまり、鉢屋衆忍頭の筆頭候補ともなります」
「その通りだ。三郎は、まだ小さい。生まれたばかりの赤ん坊だ。しかし…それでもこの家に、私の子として生まれてきた以上、その運命からは逃れられない」


弥之三郎は重々しい表情で座敷を見つめた。
生まれた時から決まっている運命。彼の父がそうだったように、三郎もいずれは忍へとなる。否、それ以外の道は最初から選択肢にないのだ。


「正直、家の者はお前のことを認めていない者が大半だ。得体が知れず、疑っているという状態といおうか」
「承知しております」
「だが、それでも私は梅雨に息子を頼みたい。忍の世界で、誰も信じれず、偽りばかりの中で……お前だけが、唯一変わらない存在だ」
「……弥之三郎様、それは…」
「三郎には十になるまで、真実は伏せておく。それまで、本当の母親として接してくれ」
「よろしいのですか?」
「他でもない、梅雨だからな」


多少困惑する梅雨に、弥之三郎はふっと笑みさえこぼして、頷いた。それはまるで自分自身に言い聞かせているよう。
梅雨は、そんな弥之三郎を見据えると、ややあって口を開いた。


「元より、そのつもりで参りました」


どうか、私を三郎様の母親役として命じてくださいまし…

そうして深々と、頭を下げた。
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