木々に覆われた山の中は鬱蒼として、昼でも日の光はあまり届かない。 常に空気は湿り、呼吸をすると肺の奥までが洗われる感覚。 どこかで狐の声がこだましている。 人気のない、山奥にひっそりと建てられた小さな社の中では、ただ一人、梅雨だけが生活していた。 親兄弟はいない。 友人と呼べるものもいない。 梅雨は、隔離されたこの山の中で巫女として、自給自足の日々を送っていたのだ。 もうずっとずっと、昔から。 「…雨が、続くなぁ」 ぽつりと零した声が誰かの耳に届くこともなく、彼女は座敷から家の外を見やった。 梅雨が始まって、数日。 山の中は特に雨が続いて、空気はひんやりとしていた。気温はだいぶさがっている。 今朝も今朝で、変わらず朝餉を終えて休んでいたころ、一本の矢文が届いた。 家の入口のすぐ横、大木の幹に静かに、けれど確実に打ち込まれたそれ。 梅雨は、膳を片づけるとすぐに目を通した。差出人は、梅雨にとって唯一ともいえる、旧知の忍であった。 拝啓 蛙吹梅雨殿 突然の文、許されたい そう書かれて始まった文章には、彼の近況のことがつづられていた。内容は主に家のことだ。 先日、妻が後継ぎを出産した 待望の息子であった 私はこれに三郎という名を付けた しかし、妻は息子を出産すると同時に命を落としてしまった 今は葬儀も済み、大分落ち着いている 梅雨はジッとつづられた文字を追った。 三郎は鉢屋家の後継ぎとなる だが、母親がいないのは何かと不都合であり 三郎にとっても不憫となろう 私は自分の忍務で手をかける暇もない そこで、梅雨さえ良ければこちらにきて 三郎の母となって欲しい 梅雨のことならこの私が良く知っている 小さな赤子一人、今更手に負えない訳ではなかろう 無理に頼みはしないが、これは私の希望である 用件はそれだけだ 取り急ぎ、使いの者を送る そこで返事を聞かせてくれ 「………」 梅雨は文を閉じると、丁寧に畳んで引き出しの中にしまった。 まさか、このような頼みをされるとは思わなかった。同時に、何と返事をするべきかと悩んでいた。 この家は、手紙を寄こした忍の祖父にあたる者が、梅雨の為にと無償で建ててくれた社である。 俗世を断ち、人との関わりを最低限にするべきであると、先々代が何かと世話を焼いた。人も近寄らぬような場所で生活するために、必需品や食糧を定期的に届けてくれる。 そしてその役割は先代へと引き継がれ、今ではその息子である現当主にまで引き継がれている。 梅雨は一家の者に感謝こそすれ、当主直々のお願いを無下にするつもりはなかった。 けれど―――突然、息子の母になれだなんて。 梅雨は水たまりに映った自分の顔を見て、ため息をつく。 見かけは年頃の女の子。普通はこのような女子に、後継ぎの世話役など、重い役割は回ってこない。せいぜい庶民の子守程度であろう。 しかし、梅雨はその若々しい外見に見合わず、実際はそれ以上に年をとっていた。 それはもう、遥かに。 だから、当主は梅雨に文を寄こしたのだろう。梅雨以上の適任がいないと判断して。 梅雨は一家との関わりも深く、さらに忍についての見識が深かった。 これはもう、断れない。 梅雨はそっと障子の隙間から、外界の様子を覗き見た。 外はまだ雨が降ってる。夏に程近い、梅雨の時期のことだった。 |