新学期が始まって、私はいつものようにまたキャンパスへと通い始めた。
寒い冬が過ぎ、段々と春に向かうこの季節。キャンパスには新しい学年が入ってきて、いつもとはまた違う雰囲気である。
あちこちで人が溢れているし、食堂は混雑する。たまに迷子になっている人さえ見かける程だ。
彼等の姿を見ていると、ふいに伊織のことを思い出す時がある。しかしだからどうという訳でもなく、ただ、彼女は兵助の大学に受かったのかしらと…純粋な興味だった。

時間の流れというものは大変恐ろしいもので、兵助と連絡を取らなくなってから一ヶ月以上が経過した今、私は今まで通りに自分を演じられていた。演じる、というのは語弊があるかもしれないが、要は兵助と付き合う前の自分に戻れたということだ。
あのことがあってから、私は最初の頃は確かに酷く落ち込むことも少なくなかったけれど、気の沈みはいつまでも続くことはかった。人間、落ちるとこまで落ちたら上がるしかない。そうやって穏やかに浮上していったのだ。

もちろん、全てが解決した訳ではない。兵助とはあれっきりだし、いずれきちんと話をしなければと思う。自然消滅というのは好きではない。ちゃんと、向き合わなくては。
その為には自分から連絡を取らなければならないのに、どうにもこうにもそれだけは上手くいかなかった。
変に緊張しているのかな。私も彼に酷いことを言ってしまったから、連絡は取りづらい。
そのままズルズルと時間だけが過ぎていく。どうしようもない臆病者だな、と私は自嘲した。

そんな日々を過ごす内に、遂に兵助の方から連絡があった。
もう一度会って話をしたいと言う彼に、一体どのような結論に至るかと思いながら了承した。場所は二人のアパートの中間に位置する、喫茶店だった。




約束の時間より少し遅れて行くと、兵助の姿は既に奥のテーブルにあった。
懐かしい姿を確認しつつ近付けば、気付いた兵助が顔をあげてこっちを見る。痛いくらいの視線に気付かない振りをして、着席と同時にコーヒーを頼んだ。
店員がいなくなった二人だけの空間。何から切り出すべきか、と思考を巡らせた瞬間、突然目の前に黒い後頭部が映った。


「ごめん…」
「………」


兵助は静かに頭を下げていた。
私はそれだけで気持ちのどこかが安堵するのを抑え、小さく問うた。


「…それは、何に対しての謝罪なの?」
「梅雨の気持ちを無視して、軽々しく伊織の面倒を引き受けてしまったこと……梅雨の私物を勝手に使わせてしまったことも、理由を付けて正当化しようとしてた。本当にごめん」
「………」
「それから、旅行のことも…」


兵助の口から出てくる言葉に素直に耳を傾け、私は長い息を穿いた。


「旅行の件はもういいよ。どっちにしろ、あの状態じゃ私だって断ってたし」
「だけど…」
「ねぇ、聞きたかったの。伊織は結局兵助のとこに受かったの? こっちにいるの?」
「あぁ…、後期で無事合格したよ」
「そう…」
「でも、学部が違うからキャンパスは違う。うちからは少し離れたところに部屋を借りたんだ」
「そっか」


彼女、受かったのか。良かったような、面倒臭いような。でも、これからどうなるかわからないし。
運ばれてきたコーヒーにミルクを入れながら、兵助が謝ったんだから私も、と口を開いた。


「兵助の言いたいことはわかった。私も色々酷いこと言ってごめん」
「梅雨は悪くない」
「兵助が謝ったのに、私には謝らせてくれないの? …もういいじゃない、お互い水に流してさ。そしたらきっと、綺麗に忘れられるから…」
「忘れ、る…?」
「その方がお互いの為だよ。兵助だって、本心では伊織の方が大切でしょ?」
「どうしてそうなるんだ」
「だって……二人は、元々付き合ってたんだから」


私がその言葉を投下すると、兵助の目は大きく見開かれた。
そして次の瞬間には大きな声でそれを否定する。


「違う! 伊織とは本当にただの幼馴染だ!」


でもその言葉も、素直には信じられなかった。


「どうかな。そう簡単には信用できないよ」
「なんで…」
「伊織から、兵助の写メを送られてきたの。…多分、兵助も見たくないようなの」
「写メ? 見せてくれ」


私は伊織から送られてきたメールをそのまま兵助に見せた。途端、兵助は真っ青になって頭を抱えこんだ。


「違う…これは違うんだ、梅雨…」
「何が違うの?」
「確かにここに映ってるのは俺だけど…伊織とは幼馴染以上のことは、何もない」
「じゃぁこれは…」
「……梅雨と付き合う前の彼女が撮ったものだ。それを、伊織が元彼女から入手した」


とても苦々しい口調で、兵助は答えた。
元彼女…は、伊織ではない。本当にそうなのか。


「でも、伊織は兵助のこと好きだよね」


要所を付けば、兵助はため息を吐きながら知ってる、と答える。


「伊織の気持ちは薄々気付いてた…だけど俺にはそんな気がなかった。それだけのことだ」
「じゃぁやっぱり、伊織がメールで言ってたことは全部嘘なの?」
「恐らく。俺が知る限りでは、あいつに恋人が出来たことはないし」
「……そっか、そうだったんだ…」


その言葉を聞いてようやく心から安らぐことができた。
兵助が嘘を付くような人ではないとわかっていたけど、ここしばらくの疑惑がようやく解消された。そりゃ、元カノの話が出たことは少なからず衝撃だったけど…正直に話してくれた分、疑おうなんて思わない。兵助だって語りたくはなかっただろうし。


「なら、伊織とはこの先もずっと幼馴染でやってくの? 兵助が彼女を好きになることは?」
「ないよ」


それは絶対に、と念を押した後で…何故か少し俯きがちに兵助は話した。


「というか、」
「ん?」
「今回の件で…色々と思い知ったんだ。俺には梅雨じゃなきゃダメだって」
「兵助にしては珍しいね、そんな感情的な主張は」
「俺だってらしくないとは思ってるよ。だけどこれは理屈じゃなかった」
「…うん」
「梅雨と会わなくなって、連絡すら取らなくなってから、本当に久しぶりに一人の時間を過ごした。元々一人で過ごす事は苦ではないし、何をするのも自由だけど、ふとした時…一人ってこんなにも虚しいものだったっけって感じるようになって…」
「兵助が?」
「そうだよ、この俺が」


思わず聞き返せば、彼も若干の苛立ちを隠せない様子で呟いた。


「特に週末は落ち着かなかった。いつも梅雨が泊まりに来てたから」


それは…私だって、同じ気持ちだったけど…


「…つまり俺が言いたいのは、梅雨にはこれからも俺と一緒にいて欲しいし、その為にはどうするべきかも考えた」
「…どうするの?」
「まずは、3月にできなかった旅行をやり直そう。それと、その途中で…」
「?」
「…俺の実家にも、寄って欲しいんだ」
「それって…!」


驚きを隠せずに兵助を凝視すれば、照れ臭そうに笑いながら、でもはっきりと言ってくれた。


「梅雨をちゃんと両親に紹介したい。そうすれば、何かあった時も実家を頼れるだろ?」


特に今回は、互いの両親に話していなかったところを伊織に突かれ、私は退散することになった。
今後そういうことがないようにと、兵助は穏やかに微笑む。


「いいの、兵助? 何でも慎重な兵助が…」
「いいよ。というか、梅雨と今後も一緒にいればいずれはそうなるんだし、梅雨だから俺も両親に紹介しようと思ったんだ」
「うん…ありがとう、私、こんな子なのに、兵助のご両親に会っても大丈夫かな…?」
「心配ないよ。俺の親なら、梅雨のいいところをわかってくれる」
「っうん、あのね…そしたら、私の両親にも会ってくれる? お父さんもお母さんも、びっくりすると思うけど…」
「もちろん」


兵助の力強い肯定に、私は何だか恥ずかしくなって下を向いた。
まさか、伊織のことがあってから、こんなことになるなんて…全然思ってもみなかった。でも、凄く嬉しい。幸せ過ぎて兵助の顔を見れなかった。


「…この後、うちに来てくれる? 梅雨に渡したいものがあるんだ」


私はこくこくと頷き、二人で喫茶店を出た。


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