人の気配のしない廊下を、足音を消して歩く。 ここは夜の実習の為に時折使用される長屋で、僕がここに来るのは実に三度目。 一度は忍たまの為の実習、もう一度はくのたまの実習の相手として。 そして三度目の今夜もまた、くのたまである…彼女の相手として。 正直ここに来ることは最後まで悩んだ。 僕は、実習があまり得意ではないということとは別に、相手が彼女であるということで、断るべきだと思ったのだ。 だけど同じように通知を受け取った級友から耳を挟んだ話だと、今回の実習の相手はくじで決めたのではなく、くのたまの希望で選ばれたのだという。 それを聞いて僕は酷く驚いた。 だって、僕を嫌っている彼女がわざわざ僕を選択するとは、到底信じられなかったのだから。 やはり、その話は嘘なのではないかと思う反面、もし本当だとしたら…という考えが過ぎり、気付いた時にはこの長屋に向かって足を進めていた。 彼女は、一体どういうつもりなのだろう… 指定された部屋の前に着くと、障子越しにうっすらと明かりが見えた。 ゆっくりと手をかけ、中を見る。 一組の布団の横で、女が待っていた。 緩く結ばれた黒髪が、明かりに反射して艶を生み出していた。 彼女は僕を見上げると、しばらく黙ったままで、やがて小さな声で「お待ちしていました」と言った。 その顔は、僕の知らない――何とも淋しげなものだった。 僕は静かに障子を閉めると、彼女…梅雨の前に腰を下ろした。 「何が…あったんだい、」 僕が絞り出せた声は小さく、掠れていた。 梅雨はゆっくりと、呼吸をする。 「…何のことですか」 「友人に聞いたけど、今夜の実習の相手は、くのたまが選んだって…」 「そんな話を信じているんですか?」 「それ…だけじゃない。昼間のことも気になったから…」 「昼間?」 「君が、僕の視界から逃げなかった」 「………」 「どっちにしろ、何かあったか心配だったんだ。だから、ここには来たけど、僕は君を抱きはしないよ」 だって、僕に君が抱ける訳がないじゃないか。 そう言えば、彼女は黙ったまま僕を見つめる。 理由はお互い十分にわかっている。 僕たちは実習を抜きにしても一線を越えることが許されない、正真正銘血の繋がった、腹違いの兄妹だったから… 「…もし、」 「え?」 「もし本当に、今夜私が善法寺を選んだって言ったら、どうする?」 梅雨は静かな声でそう言った。 「まさか、そんな――」 「私があなたに抱かれる為に、あなたを選んだの。そう言ったら信じてくれる?」 「梅雨…?」 「…あぁもう時間だわ。ほら、早く。先生方が見回りに来た」 梅雨は僕の手を取ると強引に布団の中に連れ込んだ。 咄嗟のことで判断できなかったけど、まずい、と思った瞬間には、唇が塞がれていた。 しっとりと柔らかいものが、僕の唇を覆う… 「梅雨っ…」 君は、何てことを… 本気で僕と事を致そうとしているの? 上に乗っかった体を退かそうとして、梅雨の肩を掴んだ僕は、はっとした。 震えている… 僕より小さな体の梅雨が、カタカタと強張らせていたのだ。 「梅雨、君は…」 僕が信じられないといった顔で見上げていれば、再び唇が重ねられた。 そっと離された後で、互いの息遣いが聞こえる距離で梅雨は言った。 「お願い、伊作…一度でいいから、私を抱いて……」 言葉を紡いだ梅雨の声が、酷く泣きそうに聞こえて。 僕は梅雨の背中に腕を回していた。 梅雨の口から聞いた僕の名前。 あの日以来だな、と思いながら、意識はすぐに目の前の梅雨に戻って。 僕は梅雨を抱いた。 僕を求める腕に応えて、何度も何度も… 優しい口付けを繰り返しながら、自分たちが兄妹だということも忘れて。 妹を愛しく思う以上に、ただ一人の女性に対する間違った感情を抱きながら。 次に意識を取り戻した時、梅雨の姿はそこになかった。 残された一人分の温もりだけが痛いくらいに残酷で、僕は今更ながらに後悔していた。 この手で梅雨に触れてしまったこと。 一線を越えてしまったこと。 それが例え、同意の上であったとしても…僕は手を出してはいけなかったんだ。 「梅雨…」 呟いた声を拾う者はいない。 僕の後悔だけが、延々と募り続けた。 |