長い夏休みを、三郎はこれまで以上に活発に過ごしていた。 初めて学園から出された夏休みの宿題に、日課の鍛練、それから伊織を交えて雷蔵と川遊びや虫取りを楽しんだりと…充実した一ヶ月余り、暑さに負けずよく動いたと三郎自身も思っていた。同じろ組の八左ヱ門から届いた少し歪んだ字の文には律儀に返事を出し、まだ朝焼けもない時間帯に梅雨に手を引かれて、こっそりと実母の墓へも足を運んだ。 沢山の思い出を胸に、時間はあっという間に過ぎていく。学園に戻るまでもそう日数は残っていなかった。 梅雨は毎日三郎を甘やかしては一緒にいられる時間を喜んでいた。三郎が屋敷にいる間は鉢屋衆での忍務もなく、比較的平和で幸せな毎日を送っている。三郎と伊織の仲を取り持つことは予想以上に難しかったが、それもあと数年の辛抱だろうと思えばほほえましく見守っていたいと思った。 しかしそんな三郎は、帰省してからまた毎日梅雨と風呂に入るようになり、その度に小さな胸を痛めていた。 梅雨の胸には、ちょうど左右を隔てるようにして大きな刀傷が入っている。それは一年以上前に付けられた三郎の命を守った代価であり、親子の愛情の証。けれど、外見が若い女の肌にはどう考えても相応しくない…一体何があったと、知らない人間は邪推するだろう。何より、多少薄くはなったとはいえ、くっきりと目に見えて残る傷痕を視界に収める度、三郎は悔しい気持ちを抱いていた。 もし、自分があの時もっと力を持っていたら…自分の身くらい守れたのなら、母上はこんな傷を負わなくて済んだのに。忌ま忌ましく梅雨の体に残った痕を見る度に、無力さと後悔が入り交じる。じっと己の胸元を見つめる視線に気付き、梅雨は三郎を抱き寄せた。 「また見てるのね?」 「だって…」 「もう。三郎が気に病むことではないと言ってるのに…でも、優しい子」 くすり、と梅雨が苦笑を漏らす。 「いいのよ。親が子を守るのは当然のこと……そうでなくとも、私は死なない体を持っている」 「けど、痛みはあったでしょ。それに…母上の綺麗な肌に、こんな傷があるのは嫌だ…」 つい、と指で傷痕をなぞる。柔らかい丘の窪みには、汗の玉が浮かんで滑った。少し横に視線を向けると男にはない膨らみが程よく弧を描き、三郎の興味を引いた。遠慮がちに触れてみると、梅雨は驚いたがすぐにいつもの笑顔に戻って、三郎の体を背中から抱え込んだ。 「こらこら、もう赤子ではないでしょうに」 「母上の胸…柔らかかった」 「女の人は、成長するとこうなるものなの。いつか産む子のためにね」 「じゃぁ、母上はいつ産むの?子を産んだら、歳をとれるようになるんでしょう?」 「さぁ……いつかしら。私にはもう、三郎がいるから」 寄り掛かる三郎の頭を撫で、梅雨はどこか遠くを見る仕草で答えた。 実際、いつ人間に戻るかという問題に関しては、梅雨はいつも答えを先延ばしにしてはっきりした考えを持っていない。ただ漠然と三郎の成長を見守ることを理由に、考えたくもないことは頭から弾き出し、いつまでもこの状態であることを望んでしまう。愛しい三郎が、小さな赤子から今やこうして忍術学園に通うことができるようになったのを、近くで見守ることができたのも大変喜ばしかった。けれど梅雨はいつだって見守るだけで、同じ時を歩むことはない。 生き続けると決めてからずっと繋がれていく自分の命。いつかは、終わりがくるのだろうか。もはやそれすら幻想のような気がして、具体的に思案することもない。 「もし母上が子を産んだら、私の兄弟になるんでしょう?」 「三郎と一緒にいる時ならね」 「私がいなかったら?」 「きっと、兄弟とは呼べないわ」 三郎との関係が断ち切られればまた山にこもらなければいけないことを、梅雨は自分の中で痛い程理解していた。だからこそもう二度とこのようなこと――鉢屋の子育て――はしないだろうし、そもそも子を作る機会だってないだろう。 何故なら今が梅雨にとって特別な時間であり、かつ俗世との関わりがあるだけで、彼女は本来隠されるべき存在である。これではまるで、死ぬことを許さないとでも言われているようだ。梅雨を隠し深い山の中に押し込める目的は違えども、結果的にはそうなる。 ざばん、と湯を揺らして風呂釜から出る。三郎は目の前で弾んだ胸を目で追い、まっ平な自分の胸と比べた。梅雨のはあんなに柔らかいのに、どうして男の体というのは固くなるものだろうか。 「それはね、男が女を守るためよ」 梅雨に言われて妙に納得してしまった。そしてそれが本当なら、自分の固い体さえ嬉しく思う。 「なら、私もっと固くなるようがんばる」 「その気持ちは大切よ」 「それで…大切な人を守りたいんだ」 幼ながらに誓った決意は変わらない。 梅雨は、にっこりと微笑みながら三郎の柔らかい頭を撫でた。 「そうね、三郎は沢山のものを守らなければならない。けれど、その中で一番大切なものが何なのかを知って、その為にどうしたらいいのか、それをよく考えなければならないわ」 「うん…」 「伊織は強い子だけれど、女の子。彼女の気持ちをわかってあげなきゃだめよ」 「――え?」 「三郎にとって一番大切な人は、伊織になるんだから」 梅雨に言われた言葉に、三郎は何も返せなかった。違うんだと言いたくても思考が停止してしまって、体は硬直してしまって……とてもじゃないが、その言葉の意味を信じたくなかったのだ。 体を拭き終わって夜着に袖を通す梅雨に、慌てて駆け寄って縋るような視線を向ける。梅雨は何となく、三郎の気持ちを察していた。 「私が一番大切な人は…母上じゃいけないの?」 「三郎、あのね。三郎の気持ちはとっても嬉しいのよ。でも伊織は三郎の許婚でしょ?」 「母上だって母上だ…」 「でも、私は歳をとらない。死ぬこともない。三郎が私の年齢を追い越してしまうのは時間の問題で……その時には伊織が、三郎を支える為に隣にいるの」 「………」 「伊織は三郎の子を産んで、鉢屋を守ってくれるのよ。その伊織を守るのは、三郎じゃなくちゃ…」 「っ、嫌だ!」 宥めようとする梅雨の手を払い、三郎は泣きそうな顔をして梅雨を見据える。それは子供ながらに必死な顔で、三郎は自分の気持ちを伝えようと、全力で梅雨にぶつかった。 「母上はいつも『私は死なないから』って言って、私を守ることばっかり優先する!自分のことはなおざりにしてしまって…!」 「っ、さぶろ…」 「母上は、よく人間じゃないって言うけど、歳を取らないだけの、ちゃんとした人間だよ!…痛いって言ったじゃん。風邪引いた時は熱を出して苦しんでいたじゃん。母上だって、ずっと鉢屋の為に尽くしてるんだったら…守られたって、いいじゃないか…」 「………」 「母上は、伊織よりずっと私を支えて、守って、私を強く…育ててくれたよ。今度は、私がもっと強くなって母上を守れるようになりたい……母上を、私は母上を…」 「もういいわ、三郎……ありがとう」 ぽろりと涙を零した三郎の体を抱きしめ、梅雨は自身の目尻にも熱い水滴を感じる。 「ずっとそんなことを想って頑張ってくれたのね…三郎はいい子よ」 でもね、と否定する為ではなく次の言葉へ繋ぐ為に紡ぐ。 「三郎にはよくわからないかもしれないけど、私はもうずっと三郎や…弥之三郎様、三郎の御祖父様たちに守られてきたの。私が今こうして三郎と不自由なく幸せな時間を過ごせるのも、彼等に守られている証拠よ」 「…だけどっ…」 「不思議なものなのよ。これだけ長い時間を生きていると、人はきっとおかしくなってしまう。けれど私は何の苦しみもなく、重い悩みを抱える事もなく生きていられる……それって、凄いことじゃない?」 「……わか、んない…」 「えぇ。今はわからなくていいの。いつかはわかる時がくるから…」 だから本当に大切なものが何なのか。それを、焦って今から決めてしまわないで。大人になれば、今まで見えなかったものが多く見えてくる。 梅雨は三郎にそれを伝えたかった。自分を見て欲しい気持ちは十分あるが、それでは三郎の為にはならないと……いずれはやってくる別れの為に、三郎が深く思い込む前に教えてやらなければならない。 (一緒にこうして過ごせるのも、あと数年ばかり…) それまで、三郎には自分の全てを教えてやりたい。 少しずつ成長する体を抱きしめながら、梅雨は強く強く願った。 そんな二人のやりとりを、弥之三郎が聞いていたとも知らずに。 |