兵助は優しい。そのあたたかさに、私は甘えてしまう。



『梅雨―?』

久しぶりに聞いた声は、変わらず私の胸にすとんと落ちた。

「久しぶり。ねぇ、今から会えない?」
『これから彼女と約束があるんだけど…どうかしたのか?』
「うん…あのね、兵助。私、三郎と別れたの」

正確には、捨てられたんだけどね。とおどけて言ってみれば、電話越しの兵助はしばらく黙っていた。驚いちゃったか。当たり前だよね。あれだけ私が三郎の為に悩んだこともあったっていうのに、今更…

「へいす…」
『わかった。今どこにいるんだ?』
「え?」
『迎えに行くよ』
「でも、彼女…」
『彼女なら何とでもなる。それより梅雨の方が心配だ』

兵助はそう言うと、私の居場所を聞き出して、すぐ行くと告げた。
恋人よりも友人である私を優先するなんて…何て優しい人。でも、私と兵助はただの友人じゃない。それは、兵助もわかってるはずでしょう?

駅前のロータリーの花壇に腰を落ち着けていると、見慣れた黒のベンツが目に入った。中から合図を送られる。
私は立って、空になったペットボトルを適当にくずかごに捨てると、兵助の車に乗った。中は相変わらず消臭剤のいい匂いがした。

「ご飯食べた?」
「まだ」
「じゃぁ、ドライブスルー寄るから適当に注文して」
「ここで食べるの?」
「違う、俺の家」

兵助はウィンカーを出すと、停車場から一般道へと入る。慣れた手つきでハンドルを動かす様子を見ながら、私はフロントガラスにぶら下げられたお守りを見付けた。こんなの今までなかった。きっと、兵助の彼女があげたんだな…。
少しだけ罪悪感が募る。

「他に欲しいものはないか?」

食料を調達した後、かいがいしく世話を焼こうとしてくれる兵助に首を振り、私たちは兵助のマンションへとやってきた。この家にも足を踏み入れるのは、実に四ヶ月振りだ。夏前にやって来た時は、これからこの部屋も暑くなると思っていたのに、私は肝心の夏に一度も出入りしなかったのである。
ローテーブルに買ってきたものを置いた兵助に続いて、リビングに足を踏み入れる。少しだけ覚えがない匂いが鼻を掠めて、何となく私はここにいてはいけない気がした。
だから聞かずにはいられない。

「ねぇ、彼女はいいの?怒ってない?」
「今更それを聞くのか?とっくに連絡を入れて、断ったよ」
「そう…」
「それより俺が聞きたいのは梅雨のことだ。三郎と別れたって、どういうことだ?」
「………」
「俺を呼び出したからには、良くない別れ方をしたってことだろ?ちゃんと聞いてやるから、話せよ」
「…うん…」

私は兵助の優しさに、それだけで泣いてしまいそうだった。
買ってきた料理にも手を付けず、私は淡々と三郎とあったことを話す。前に同じ店で働いていた女の子と会って、私が風俗で働いていたのを三郎にバラされたこと。三郎が、それに怒って私を捨ててしまったこと。
兵助は黙ってそれを聞いてくれた。言い終わった時、私の目からは涙が零れていた。

「梅雨…」
「っ、私がわるいって…わかってるの、っ、ずっと三郎に、嘘ついてたし…!」
「うん…」
「でも、でもこんな風に別れるなんて、私は予想してなかった……風俗上がって、気が緩んでたのかもしれないけど、っ」
「あぁ…」
「私、三郎と一緒にいたかった…捨てないで欲しかった……私は、わたしは…っ」

子供のように泣きじゃくる私を、兵助は優しく慰めてくれた。胸を貸してくれて、大きな掌が背中を摩る。温かい人の肌に、私は益々すがって鳴咽を漏らした。

「三郎、さぶろ…!」
「なぁ梅雨、どうしても三郎とやり直すことは、もう無理なのか?」
「む、り…だって、さぶろ…傷付いてた!」

怒りよりも、傷心の感情が強かったのが、声だけでよくわかった。私は三郎に手を伸ばせない。今更、どうやり直せばいいというのだ。

「そうか…」

兵助はそれだけ呟くと、私の頭を何度も撫でた。優しい指先が乱れた髪を直し、落ち着かせるように背中を叩く。
兵助は凄い。そんな風に甘やかされると、私はすぐに悲しみが和らいでいく。ついでに、緊張の糸が切れてしまい、眠気が襲ってくる…
私は時折しゃくり上げたまま、体重を兵助に預けた。兵助の鼓動が気持ちいい…

「どうしよう…兵助、眠いよ…」
「ん。寝ていいから、今は何も考えずに休め」
「うん…」
「おやすみ、梅雨」
「おやすみ……ありがとう、兵助…」

泣き疲れた私はそのまま意識を手放し、深い眠りの中に落ちた。

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