利吉さんが仕事に戻ってからも、僕の心はずっとモヤモヤしたままだった。吉野先生には何を言われても頭に入らないし、何とか動き回ってみても失敗の連続。いくら僕でも、ここまでしたら…本当にただの役立たずだよ。 いい加減、首にされちゃうかも。それだけは絶対、避けなきゃ…! 「小松田くん、大丈夫?」 「梅雨さん…」 「最近調子が悪そうだけど、何か悩みでもあるの?ね、私で良かったら相談に乗るけど」 愛らしい笑顔を浮かべるのは、僕の大好きな梅雨さん。今日も可愛い。そしてこんなに器量が良くて気立てもいい彼女に心配される僕は、何て幸せなんだろう… 僕は梅雨さんの手を取ると、両手できゅっと握った。梅雨さんは驚いて、一瞬ちらちらと周りを見回してから、そっと握り返してくれた。頬がほんのり桜色に染まって、そうさせているのが僕だと思うと凄く嬉しい。 えへへ、と可愛らしく笑う梅雨さんの顔に自分の顔を近付けていくと、梅雨さんは目を伏せてくれた。重なる唇。 口を離して、目を開けた時に飛び込んできたのは、梅雨さんの潤んだ瞳で。ああどうしよう、凄く可愛い。今からでもギュッと抱きしめたいけど、多分我慢できなくなるから、それは止めておこう。 僕は梅雨さんにお礼を言った。 「ありがとう。何だか凄く、元気がでたよ」 「ふふ…なら良かった」 それから僕と梅雨さんはほとんど何も喋らないまま、梅雨さんを長屋の近くまで送って、別れを告げようとした。じゃぁ、と言って踵を返したところで、廊下から「梅雨さん」という声がかかった。この声は… 「利吉さん?」 「あぁ良かった、帰る前に会えて」 利吉さんはホッとした様子で梅雨さんに近付くと、小さな包みを渡した。中から出て来たのは、綺麗な簪だった。 「あの、これは…?」 「先日、ちょこっとしたツテで手に入れたんです。私が忍務で使うには、過ぎた品だと思いまして…よければ梅雨さんにと」 「えっ、でもそんなに良い品を…悪いですよ!」 「気にしないで下さい。簪も、日の目を見ないよりは、相応しい人に使われた方が本望です」 「わ、私より相応しい人は沢山います…!」 梅雨さんは受け取るのを拒否してたけど、その内利吉さんが無理矢理梅雨さんの手の中に収めてしまって、梅雨さんは渋々と受け取っていた。あの顔は本当にいいのだろうか?と、困惑しているものだ。 そんな二人の様子を突っ立ったまま見てると、ふいに利吉さんが僕を見て口を開いた。 「何か言いたそうだけど」 「え?」 「言いたいことがあるんなら、さっさと言ってくれないかな」 「に…」 「に?」 「入門表にサインしてください…」 「………」 「………」 利吉さんは短い息を吐くと、僕が常備している入門表をひったくり、慣れた手つきでサインをしてくれた。 あれ…おかしいな。僕、こんなことを言うつもりじゃなかったんだけど…気付いたら口が動いてそう言ってた。どうしよう、空気が何だか重苦しく感じる。ちらりと梅雨さんを見ると、梅雨さんも同じ気持ちのようだった。 「はい、じゃぁこれ」 「確かに」 「次はちゃんと正面からくるよ。それから、帰るから出門表も貸して」 「あ、はぁい」 利吉さんは同じように出門表にもサインをすると、梅雨さんにまた来ますと言って行ってしまった。僕は簪を握り締めている梅雨さんに視線を向けると、良かったですね、と言ってしまった。 「でも、こんな簪…私には不相応だわ」 「うーん、いいんじゃないかな?利吉さん本当にいらないみたいだったし…きっと梅雨さんに貰って欲しかったんだよ」 「…、」 「付けてみたら?利吉さんの見立てだもん、似合うと思うよ」 なんて、本当に思ってること半分、付けて欲しくない気持ち半分で、僕は梅雨さんにまくし立てた。梅雨さんは少し戸惑った様子で、小さくそうね…と呟いた。 「付けるのは、また今度にするわ。利吉さんが来た時にでも…」 その言葉を聞いて、僕はズキリと胸が痛んだ。付けるんだ。それを、利吉さんの前で……そっか。 梅雨さんは俯きながらに僕に挨拶し、長屋の中に入って行った。その後を、僕は呆然と見送るだけだった。 永遠より憧れを込めて |