話があるの、と梅雨さんに呼びだされたのは、普段は使われていない、長屋の一室だった。
僕はすぐにでも返事を聞きたかったから、ここでいいよって言ったのに、梅雨さんはきっと長くなるから、と首を振った。なので一日の仕事を終えた僕は、すぐに指定された場所へとやってきた。
梅雨さんは夜着ではなかったけど、事務員の制服でもない、私服の着物を着ていた。それを見て、やっぱり制服より似合う、と思った僕は正しいと思う。だって毎日制服姿の梅雨さんを見ている僕だけれど、初めて会った時の梅雨さんの姿が忘れられないんだもの。

梅雨さんは、笑って、明るい方が似合う。


「この間の、返事のことなんだけど…」


僕から少し距離をとった梅雨さんは、躊躇いながらに口を開いた。


「私、小松田くんの気持ちには、応えられないわ…」
「どうして?」
「小松田くんが優しくていい人だっていうことは、同じ事務員をしているから、十分に知ってる。でも、私は小松田くんの要求には答えられないから…」
「要求って何?僕、梅雨さんには、笑っていて欲しいなぁと思っただけだよ」
「口ではそう言ってても、本音なんてわからないわ…!」
「梅雨さん…?」
「ごめんね、ごめんね小松田くん……私の話、聞いてくれる…?」


梅雨さんがまた、泣きそうになったから、僕は慌てて彼女の体を支えた。
大丈夫だよ。僕は君が何を言ったってこの気持ちは変わらない。話して。梅雨さんがどんな考えを持っているのか、今までにどんなつらいことがあったのか。
僕に、教えて。


「私ね…離縁されたのよ」
「え?」
「十四の時に嫁いで、夫を持ったの。夫は、凄く優しい人で、家の人もみんな私のことを愛してくれた。だから私も、親が決めた相手とはいえ、あの人のことを愛し、幸せだった。本当に、幸せだったのよ…」
「梅雨さん…」
「でもね、幸せなの日々は長く続かなかった。1年、2年と月日が経つうちに、姑から私への風当たりが強くなって、3年目で夫から言われたの。『お前はいつ、俺の子を産むんだろうなぁ…』って」
「そんな、」
「その時私はようやっと気付いたの。夫は、確かに私を愛してくれているけど、それは私があの人の子を産むことが前提だってこと。私だって、嫁ぐ前からそれは理解してたけど、それにしたって、愛する人の口から、そんな言葉は聞きたくなかった。だから、早く子供ができて欲しい。子供さえできれば、もうそんな事を言われることもなくなるのだからと…」


そこで梅雨さんはふっと視線を落とした。
目には、大粒の涙が溜まっている。


「でも結局、私はあの人の子を宿すことはできなくて、5年目の春がくる前に、離縁されてしまった…」


だから、いつも空を見上げているの。そうすることで、自分はもの凄くちっぽけな人間だと思い知らされるから。
だから、名字で呼ばれるのが嫌なの。離縁されて、実家からも厄介払いされた私に、蛙吹の姓を名乗る資格なんてないから。


「私には、他に行くあてがなくて、昔優しくしてくださった、学園長先生を頼るしかなかった。学園長先生は当時と変わらず、私に接してくれる。そしてここには私を知る人は、学園長先生しかいない。私は、ここでなら生きていける…ううん、ここでしか生きていけない。そう思ったから、追い出されないように、一生懸命尽くすことにしたの」


梅雨さんは、一気に語って、長い息を吐いた。
僕はこんな時、なんと声をかけて良いのかわからない。梅雨さんの悲しみは梅雨さんにしかわからないから、下手な同情は彼女を傷つける。
梅雨さんはもう一度息を吐いた後、続けた。


「小松田くん、前に言ったよね。私は何でもできるから羨ましいって…」
「うん…」
「でも、私は、そんなのちっとも嬉しくない。私は、何もできなくて良かった。子を産むことができれば、他に何もできないままで良かった。なのに、神様は私の願いを聞き入れては下さらなかった。私は、石女(うまずめ)と罵られて、愛する人から見放され、一人になってしまった。そんな、役に立たない私を、好きになれるはずがないでしょう?」
「梅雨さん、それは違…」
「小松田くんだって、私と一緒になったら、いつかは子供が欲しいって思うはずだわ。でも、私にはそれができないの…だから、ごめんなさい。私は、小松田くんの気持ちには応えられない…本当に、ごめんなさい……」


僕の手を振りほどいて、梅雨さんは去ってしまった。

また…泣かせちゃった。好きな人なのに、僕は泣かせてしまった。
違うんだよ。そうじゃないよって言いたかったのに、梅雨さんは、聞いてくれなかった。それほどまでに、彼女の心は傷ついていたのか。繊細で綺麗な梅雨さんが、ずっとずっと負い目を感じていたもの…
僕は、ゆっくりと目を閉じた。

あのね、梅雨さん。
僕は、梅雨さんの話を聞いて、凄く驚いたよ。結婚してたなんて知らなかったから、相手の人に嫉妬もしたよ。でも、これだけは言える。僕は、梅雨さんが子供を産めなくても、嫌いになったりしない。花のように笑う君が好きなんだ。
だから、待ってて。今度こそちゃんとその気持ちを伝える。前みたいに、すれ違ってる暇なんてないよ。僕は、君が好きなんだ!


「梅雨さんっ…!」


目を開けた僕は、走り出した。
たった一人の、愛しい人のために。今もなお、一人で涙を流しているだろう梅雨さんの元に。



黄昏時に彼女を想う


理性なんて、しったことか!

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