出立の朝は、やけに晴れ晴れとした空が広がっていた。
変に高ぶった気持ちがそう見えたのか、といえば否定はできない。三郎は、朝早くに弥之三郎との挨拶を済ませ、家の者に見送られながら、伊織に別れを告げて里を出た。最近ではめっきり里の外に出なくなっていたので、出かけること自体が久しぶりだ。
隣を見れば、変装し三郎の横を歩いている梅雨がいる。学園までの道のりは子どもの足でも二日あれば事足りるのだが、初めての場所でよく知らない道を歩く以上、やはり最初は梅雨が付き添うことになった。曲がりなりとも、三郎は鉢屋宗家の嫡子である。
緩い傾斜の山道を進みながら、梅雨は時折三郎の方を窺って歩く速さを調節した。それに気付いた三郎が、ぐっと力強い足取りで梅雨の隣を歩く。


「母上、私なら大丈夫だから」
「あら、気づいてたの?」
「…もう子供じゃない。昔みたいに、疲れて歩けなくなるなんてことはないし…」
「そうねぇ、あの頃が懐かしいわ。三郎をおぶって町から歩いて帰ったの…三郎ったらいつの間にか寝ちゃって、」
「それより、母上の方は大丈夫なの?歩いても、傷に障らない?」
「まぁ、あれからどれだけ経ってるというの…すっかり完治してるわよ」
「…でも、時々傷が痛むって…」
「滅多にないわよ。大丈夫、歩くくらいで痛いのなら、三郎の修行になんて付き合えないわ」


昔の話を振られるのが嫌で、三郎はうまく話を梅雨に向けた。梅雨は気付いているかもしれないが、時々天然なところを見せるので、今がどっちなのかはわからない。結果的には自然を装えたので、三郎は気にしていないが。

1年前の事件で、梅雨の体には、胸から腹にかけて大きな傷が残った。不老不死の体を持つ梅雨が死ぬことはなかったが、傷は消えぬのだという。そして、当然痛みも受ける。
人と違うのは、傷を負ってもすぐに血が止まることと、いくら血を流して気を失っても、死ぬことはないということだそうだ。だからこそ、病に伏せることはあるし、いずれは完治しようと、その間苦しむことは十分にあると言った。
山にこもってから、梅雨が怪我をしたり、病気になったことはほとんどない。昨年の事件は、まさに生死の境を彷徨う出来事だった。梅雨でなければ確実に死んでいただろう、という弥之三郎の話を聞き、三郎は背筋が凍りついた。一緒に風呂に入る度に、梅雨の体に残った痛々しい程の傷を見ては、言いようのない感情が渦巻く。
三郎は梅雨が大切で、心配で、例え死ぬことはないと言っても、傷付くことを酷く嫌った。大切に大切に育てられたからこそ、三郎は人を傷つけるだけでなく、いたわると言うことを知っている。傷つける怖さを知り、覚悟を持っている。それもこれも全て、梅雨の教育の賜物であった。


「…学園に行ったら、」
「うん」
「もう…しばらくは会えなくなるのね」
「………」
「次に会えるのは、夏休みかぁ…寂しいわ」


ぽつりぽつりと零す言葉を、三郎は一言も逃すまいと耳をそばだてて聞いていた。
屋敷にいる間は気丈にもそんな言葉は出さなかった。決意した三郎の気持ちを揺るがしてはいけないと、梅雨が自制していたのだろう。けれど、淡々と別れの時が迫っている今になって、我慢できなくなったのだ。
歩きながら、少しずつ声の調子が下がっていく。


「三郎が色々考えて、学園に入る決意をしたのは知ってるわ。だから、私は口を出さないけど、」
「…うん、」
「それでも、会えないのはやっぱり寂しくてどうしようもないわね……あれだけ一緒にいたんだもの。一日や二日の、忍務とは違う」
「私だって、母上がいない日は、嫌だったよ…」
「えぇ、知ってるわ。いつだって、帰ったら一番に飛びついてきてくれたもの」


でも、もうそんなことは言っていられない。
三郎が学園に入学するということは、これから6年間、年に数回の休みを除き、会うことは叶わない。文のやり取りはできるが、常に一緒にいたこの母子にとって、顔を見れないというのは大きな障害だ。
歩きながら、三郎はさりげなく梅雨の手を掴み取る。拒否されることなく、梅雨は受け入れた。きゅっと、互いの熱が伝わった。


「私も、そろそろ子離れしないといけない時期にきてるのかしらね、」


と、泣きそうな顔をして言った梅雨に、三郎が答えることはなかった。




宿で一泊し、翌日の昼には学園に着いた。余裕をもって来たせいか、周りに他の生徒や入学希望の子どもの姿は見えない。
梅雨は、三郎に持ち物等の最後の確認をさせた後、ぎゅっとその体を抱きしめた。
幼き日からこうして甘やかされているとはいえ、さすがに十才になった三郎には、人目につく可能性がある場所では恥ずかしい。しかし、梅雨の気持ちを知っているからこそ、これが最後だと自分でも思うからこそ、抵抗はしなかった。梅雨の背に手を伸ばすと、耳元でゆっくりと言葉が紡がれた。


「元気でね…怪我や、病気に気を付けて…」
「はい」
「何かあったら、すぐに文を寄こすのよ。鉢屋は三郎の為なら、何も惜しまない…もちろん、私も」
「母上、安心して…私なら上手くやってみせるから」
「そうね…三郎はとても優秀な子だもの、大丈夫よね…信じてるわ」


ぎゅう、と力を込められてその存在を確かめる。梅雨は既に泣きたくて仕方がなかった。三郎も、つんと鼻の奥が詰まった感じがした。しかし子どもではないと言った手前、もう泣かないと決めていた。
しばらく二人は抱き合った後、体を離して、見つめ合う。ふわりと、梅雨の手が三郎の頭を撫でた。


「絶対…何が何でも、夏にはまた、元気な顔を見せてね」
「はい」


三郎は短く、けれどしっかりと返事をし、学園の門をくぐった。
その後ろでは、梅雨が三郎の背中を見つめて、見えなくなるまで、じっとそこに立ち続けていた。






話を受けたのは、唐突のことだった。けれど心のどこかで、いつかはくるだろう、と覚悟を決めていた。絶対に避けられぬことだから。


「これからのことだが、」
「はい」
「…梅雨には、三郎の世話をいつまで任せるかについて、周りから少しせっつかれている」
「そうでしょうね…」
「学園に入ったからには、教育係はもう必要ないと。私はそう思っていないと言ったんだが、事実、三郎がいない間は梅雨に仕事はないからな…」
「それなら、忍務を受けさせて下さい。色は使えませんけど、私だって200年生きて、忍として生きていた時もあります。弥之三郎様のようには働けませんが、足を引っ張るような真似は致しません」
「しかし…」
「私は長い間、鉢屋であるあなたたちに守られてきました。けれど、守られてばっかりではいられません。少しくらい、お役に立ちたいのです…せめて、三郎の母親であることだけは、務め上げさせて欲しいのです。その為に必要であれば、忍務だってこなしてみせます」
「それでもし、梅雨のことが他の連中にバレたらどうする。梅雨を狙って、里全体を脅かすことにだってなるんだぞ」
「その時は自害致します」
「自害って、」
「私のことが知れ渡る前に、男と寝てしまえば私は不老不死でなくなる訳です。そうしたら、例え実験の為に殺されようと、何があろうと、秘密は守りぬけます」
「…そう簡単に言うな。死んだら、三郎の母親としての任は果たせなくなるんだぞ…」
「私は、軽々しい気持ちで三郎の母になったつもりはありません。自害するのは万が一の場合ですが、決してそのようなことには致しません。何が何でも忍務をやり遂げて、私は三郎の母を務め上げます」
「………」
「それが私の…永遠を生きる私の、最初で最後の、大きな役目だと思うから…」
「………、決意は揺るがないか」
「………」
「わかった、梅雨の話を呑もう。梅雨にはこれから、鉢屋衆としての忍務をしてもらう」
「ありがとうございます」
「だけど約束してくれ。絶対に、死なないと。三郎だけじゃない…梅雨が死んだら、私だって悲しいってことを、忘れないでくれ」
「弥之三郎様…」
「不老不死であることを除いても、梅雨は私たちにとって大切な存在であることには変わりない。鉢屋を見守り、誰よりも鉢屋を慈しんでくれる梅雨が、私は好きだよ。だから三郎の為にも、それだけはお願いだ」
「はい…」
「三郎が学園を卒業するまでの間は、屋敷にいられるよう説得する。これからは大変だろうが、やれるな?」
「元より、そのつもりで参りました」
「…そうだったな」


三郎を頼む、と改めて口にした弥之三郎様の表情は、私に屋敷に来た時のことを思い出させ、少しだけ懐かしく思った。

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