翌朝、いつも通り飼育小屋の前で待っていると、少しだけ遅れたハチが現れた。 「おはよう」 と、声をかけた私にビクリと体を揺らし、「はよっ!」と手を上げたハチ――の右頬には、白い布が貼っ付けてあった。昨晩、私が殴った痕だろう。 「その顔、どうしたの?」 「いや、自主練中にちょっとぶつけてさ…」 「やだ、痛そう…」 「大丈夫大丈夫、こんなのすぐ治るって!」 一応、何も知らない振りをして聞いてみれば、ハチは昨晩のことなど一切口にすることなくごまかした。当然だ。未遂とはいえ、私と間違えて他の女を襲ったと聞いたら、私は酷く怒るに決まってるから。 飼育している動物たちに餌をやりながら、私は口を開く。 「そういえばね、昨日くのたまの部屋に忍び込んだ人がいたみたいで」 「ぅえっ!?」 「…どしたの」 「いや、何でもない!何でもないって!それで?」 「…幸いにも、大声出したからその子はすぐに助かったみたいなんだけど…その男、実は忍び込む部屋を間違えてて、本当は他の部屋に行く予定だったみたい。胸を触られて、違うことに気付いたみたいよ。酷い話よね」 「そ、そうだな…」 「ま、私の場合はこんな小さな胸が狙われることもないし、大丈夫だろうけど。その子は凄く怖かっただろうなぁ…」 「そう…だな、」 胸が小さいってとこ否定しなさいよ。 私は内心無茶苦茶なことを思いながらも、話を聞いて目を白黒させるハチの姿に、若干満足する。 …昨日はホントに怖かったんだから、これくらいのことは言っても構わないわよね。大体、最後の台詞が気にいらない。犬に噛まれたとでも思って、忘れろって?それはないんじゃない? 「しばらくはくのたまの長屋も警戒するみたいで、一人部屋の子は集まって寝るんだって。その方が安全でいいわね」 「そうだな…」 「やだ、ハチったらさっきから「そうだな」しか言ってない。何か気になることでもある?」 「い、いや、何もないって…!」 「ふぅん…」 「本当だって…それより、早く毒虫たちに餌やっちゃおうぜ!朝飯遅くなっちまうし、な?」 「そうね…混むのも嫌だし」 「よし、じゃぁ急ごう!」 ハチはそう言って話を切り上げた。顔に汗が滲んでるけど、本人は気付いていないんだろうな。 けれどハチの言う事はもっともだったので、私は朝食を食べ損なうことがないように、さっさと手を動かした。追及は、また後にしよう。どうせ今日は、どこもこの話で持ち切りになるはずだから。 朝食を終えて一人のんびりしていると、鉢屋がやって来た。鉢屋は私の姿を見付けると、いつもニヤッとした笑みを浮かべるから嫌だ。今度はどんな企みをしているのかと、警戒しなければならない。 「聞いたよ、蛙吹。八左ヱ門に犯されそうになったって?」 「何がどうねじ曲がって昨日の話が私になったのかは知らないけど、ハチはそんな事をする人じゃないわ」 「とぼけるなよ。なに、私もすっかり騙されていたな…蛙吹のその胸は偽物だったのか」 「人を底上げみたいに言わないでよ」 「ああ、蛙吹の場合は逆だったな…あるのをわざと無いように見せている。大方、動きを重視しての処置じゃないか?」 「わかってるなら、わざわざ聞かないで」 不機嫌に答えれば、鉢屋はますます面白いように笑った。とても不愉快だ。ハチはわからなかったのに、鉢屋には見抜かれたことが。 「しかし、これではっきりしたな」 「何が」 「八左ヱ門と関わる女は、みんな胸が大きい」 「本人は偶然だって言ってるけど」 「偶然なはずがあるか。あいつは多分…そう、本能的に相手が巨乳かどうか見分けられるんだ。そうでなければ説明がつかない」 「………」 「なんだ、蛙吹。そんな目で私を見て。言いたい事があれば言えよ」 「いや…鉢屋って、想像以上に馬鹿だったんだなぁと思って」 「何だよそれ」 「言葉通りの意味。…話はそれだけ?私、授業があるから行くわね。あと、このことはハチには言わないでよ」 「さて、どうしようかな」 いたずらに笑う鉢屋を放っておいて、私はさっさと移動した。鉢屋はああ言ってたけど、恐らくハチに伝えることはない。何故なら、黙っていた方が面白いと判断するからだ。 教室に着くまでの間、あちらこちらで昨夜の話をしているのを聞いた。もうそこまで回ってるのか。くのたまの情報網は凄い。 私は少しだけ笑いそうになるのを抑えて、席に着いた。ハチが私の部屋を改めて訪ねてきたのは、午後の授業が終わってしばらくした後、夕方のことだった。 くのたまの友を持った私の前に、天井裏からハチが降ってきた。驚いたのもつかの間、ハチは私の前で急に土下座をしてきた。 「梅雨、悪い」 「ど、どうしたのよ急に…」 「実は昨夜くのたまの部屋に忍び込んだ奴って言うのは、俺だったんだ」 「は…」 私は言葉を失ってほうける。わざわざそれを、謝りにきたの? とりあえず私は何も知らない振りをして、事情を聞き出した。 「嘘でしょ…そんな、ハチが…」 「…すまん」 「何でそんなことしたの!?私、ハチがそんな男だとは思わなかった!」 「す、すまん!実は入る部屋を間違えたんだけど、本当は梅雨の部屋に来ようとしてて…」 「私を襲おうとしたって?」 「………すみませんでした」 「もうやだ!ハチ何考えてるのよ!こんな恥ずかしいことってないわ!!」 私はギャンギャンと喚いた。ハチは慌てて私を止める。あまり大きな声で怒っていると、変だと思われると言った。でも、そんなことはいいのよ。私は、ハチがした行動が許せない。 「同室の子がいないって聞いたから?それで今夜ならって考えてたの?」 「その通りです…」 「私の了承も無しに?」 「いや、行ったら受け入れてくれるかなー…って」 「抵抗しようとしたら?」 「そこは…諦めるけど。いくら俺でも、無理矢理は嫌だし……梅雨を傷付けたくはないし…」 「ハチ…」 「本当に悪かった。この通りだ。許してくれ」 ハチは額を床にこすりつけて、私の許しを乞うた。仕方ないわね。 私はため息を吐いて、ゆっくりと口を開く。 「わかったわ…ハチがそこまで言うんなら、私は許してあげる。でも、」 それは飽くまで私の立場として。謝らなくちゃいけない相手は、もう一人いるでしょ? 「私と間違えられた子は、きっと物凄く怖かっただろうなぁ…」 私の言葉に、ハチはビクリと肩を揺らした。 << < 1 2 3 > |