それは、三郎が10才の誕生日を迎える前夜。唐突のことだった。

梅雨は周囲に感じたただならぬ気配に素早く身を起こし、警戒する。隣で寝ていた三郎は、まだ眠たそうな顔をしていたが、それでも日々の訓練が役に立ったのか、異変は感じとったようだ。ごしごしと目を擦り、梅雨に縋りつく。


「ははうえ…?」
「シッ、黙って、三郎」


屋敷の中が騒がしくなる。それは、一般の人には決して気付かれないようなほんの小さな変化だったが、梅雨は見逃さない。多くの殺気をまとった影が、自分たちの部屋を目指して蠢いているのだ。
梅雨は一瞬で自分の顔を変えると、同じように三郎の顔にも変装を施した。さらにその上から互いに狐の仮面を被り、仮面を被った親子の出来上がりである。
夜着の上から忍装束を羽織る。クナイと少しの忍具を手にし、三郎を抱きかかえて移動した。三郎が咄嗟にたまを手にしたので、実際には1人と1匹を抱えている。
しかし、今の梅雨にはどうでもいいことだった。早く三郎を安全な場所に移さねば…それだけで躍起になっていた。

(何故、鉢屋を襲う…仮にもここは忍里。早々と見つかる訳でもなければ、鉢屋の恐ろしさは知っているはずなのに…)

敵の気配を読み、屋敷の中を巧みに移動する。何といっても地の利はこちらにある。隠し扉や特別な逃げ道までは、敵も把握していないだろう。だが、侵入(はい)ってきた者たちへの報復は、しなければならない。
何故ならここは偉大なる鉢屋宗家の屋敷である。三郎を守る為にも、梅雨は全力を尽くす。攻撃とは、最大の防御なのだから。

音もなく開いた隠し扉の向こうに、梅雨は三郎を隠した。


『万が一の時は、自分が逃げることを優先しなさい』


口ではなく、矢羽根を使い伝えられたその言葉。三郎はこの時初めて、どれだけ事が緊迫しているかを知った。
使いなれた三郎のクナイを渡される。
そして、梅雨は扉を閉めて再び気配がする方へと戻ろうとする。三郎は慌てて『行かないで!』と伝えようとしたが、それよりも先に優しい手がふわりと頭を撫で、三郎の前から消えた。

真っ暗闇の室内は、狭く息苦しい。
三郎はたまを抱きしめながら、恐怖に怯える自分を何とか諫めた。
大丈夫、ははうえがいるから、絶対に大丈夫…と言い聞かせて。壁の向こうでは何が起こっているのかわからない。思いのほか、壁は分厚いようだ。ただ、どうしてこんな状況になってしまったのか、それだけがずっと不安の材料だった。

(ははうえは前に言ってた…わたしが父上の跡取りとなるから、そのせいで命が狙われる可能性があると)

三郎は鉢屋衆の長である鉢屋弥之三郎の一人息子にして、次期当主である。狙われる原因は十分にある。
また、鉢屋衆というのは三郎が生まれるずっと以前から、優れた忍集団として有名だった。その長を殺ったとなれば、その名はたちまち世に知れ渡ることになるだろう。あるいは、鉢屋に恨みを持つ者ならば、その命をかえて殺しに来たのかもしれない。
生まれて初めて、自分の命が狙われるという感覚を得て、三郎は途端に怖くなった。

情けない。変装の腕は昔より断然上がったのに、いざ危機が迫れば自分はまだ身を隠される立場だ。大好きな母親は、身を呈して三郎を守ろうとしているのに。

ぎゅっと自分の体をたまごと抱きしめる。震えていた。
三郎はただ、時が過ぎるのを待った。梅雨がもう大丈夫よ、と言って迎えに来てくれるのを。
しかし、予想よりも早く開いた扉の先に待っていたのは、三郎が待ち構えていた梅雨ではなかった。忍装束に身を纏った、知らない人間だった。家の者ではない。

三郎は咄嗟に立ち上がり、距離を取る。相手は三郎を前にして瞳の色を変えた。頭巾で隠れているせいで口元は見えない。しかし、その目は気持ち悪いくらいに弧を描き笑っていたのだ。


――殺される


三郎がそう思ったのは、正しい判断だった。

一歩、体を後ろへ下がらせる。目の前の忍は鋭い刃を三郎に向けた。そして、勢いを付けて三郎が走り出す前に、命の危機はすぐ目の前まで迫っていた。刀が振り下ろされる。

(やだ…死にたくないっ!)

しかし体は思うように動いてはくれない。刃が襲いかかる直前、死ぬ、と意識した三郎の前に、黒い影が立ちはだかった。


――キィン!


鉄と鉄がぶつかり合う音。
間一髪で、三郎は助けられた。家の者によって。
顔は見えないが、三郎はその背中を知っていた。忘れるはずもない。
鉢屋弥之三郎――自分の父親を。


「ちち…」
「三郎、梅雨のところに行け!近くの忍は既に始末してある」
「は、はい…!」
「ちっ、当主のお出迎えか…」
「悪いが、私が当主である限り、家の者に…息子には指一本触れさせはしないさ」
「相変わらず鉢屋は甘いな。そうやって、いつまでも子を隠し甘やかし続けるのか…なるほど、奇襲しかできぬ訳だ」
「さて…それは結果を見てから、言うんだなっ!」


敵の忍と弥之三郎が武器を手にやり合っている間に、三郎はたまを連れて狭い部屋の中から抜け出した。
擦れ違い様に聞こえてきた二人の会話。敵は、鉢屋のことをよく知っているような口ぶりだった。そして意外にも父の口から語られた、三郎を庇護する言葉に驚愕する。
どうして、どうして。
頭の中は混乱するばかり。自分は、守られている。その自覚は十分にあった。何せ、梅雨が酷く三郎を可愛がるからだ。
しかし、父である弥之三郎にはどうだろう。幼き日より、甘やかしてもらったことはほとんどない。いつもいつも、精進しろと言われ続けてきた。でもそれは、梅雨がいたからだろうか?梅雨が優しくしてくれる分、弥之三郎は厳しく接していたのかもしれない。

こんな状況の中で、三郎は今まで隠されていた事実に気付き始めていた。
けれど、今は弥之三郎に言われた通り、一刻も早く梅雨の元に向かわねばならない。何より、一人でいることの方が恐怖だ。

三郎はたまを抱えて走った。愛する母親の姿を探して。
廊下や部屋のあちこちには、黒い何かが転がっている。三郎はそれを見て見ぬふりをして、先を急ぐ。見てしまったら、余計怖くなる。
だから、早く梅雨に会って、抱きしめてもらって、その胸で思い切り泣かせてもらおう。三郎は、そう思っていた。
色濃くなる人の気配―――これは、梅雨に間違いない―――をたどって、とある部屋にたどり着いた。中は悲惨な状況だった。
梅雨はクナイで蠢く影を射殺し、その山を築きあげていた。三郎がやってきたことに気付くと、反射で振り向いた。


「は…はうえぇっ!」


三郎はようやく見えた梅雨の姿に安堵し、もはや矢羽根など使う余裕もなく、飛びつこうとした。
しかし次の瞬間梅雨の目に映ったのは、大切な我が子を狙う一つの大きな影。何の躊躇もなく、梅雨は駆けだした。三郎の命を守る為に。
そして激しい血飛沫が、三郎の目の前で上がった。





「あ…あぁ…あ…はは、うえ…?」


三郎は、目の前で倒れる梅雨の姿を、茫然と見ていた。
どさり、と音を立てる体。その後ろでは、黒い影が刀を構えていた。

どうして、こんな…

あまりの衝撃に、三郎は状況を理解できずに立ちつくしていた。三郎の手から滑り落ちたたまが、梅雨の元に駆け寄りにゃーにゃーと鳴いた。それから何度も手を舐めて、必死に起こそうとした。


「手ごわい教育係がいるという話だったが、あっけなかったな」


影は、そう言って刀に付いた血を払った。ぴしゃ、と三郎の顔に掛かる。
生温かい感触に、三郎は全身の血が引くのを感じた。
嘘だ。嫌だ。なんで、ははうえが……
じりじりと距離を詰めてくる影に、たまが飛びかかった。にゃー!と鳴いて影の手に噛みつく


「っ、何だこの猫は!」


影は腕に噛みついたたまを力づくで振りほどくと、思い切り床に叩きつけた。そしてやめて、と手を伸ばそうとした三郎の前で、無残にも踏みつぶす。


「たまっ…!!!」


たまは、鈍い声をあげて絶命した。
そんな…どうしてたまが…大切な家族なのに、どうしてこんなやつに…!
三郎は恐怖と悲しみに身を震わせながら、尚も迫ってくる影を前にしてその場に泣き崩れた。


「うぅっ…うぁっ、たま……ははうえぇっ…」
「小僧、鉢屋三郎だったか…?恨むんなら、鉢屋に生まれた事を恨むんだな」


ふん、と下品な笑いを浮かべた影が刀を構えたところで、背後から声がした。




「鉢屋に生まれたことを恨め、ですって?冗談じゃないわ」

「――!?」

「そんなことで三郎の人生が終わるだなんて、私は許さないわ。絶対、三郎は立派な忍者にしてみせる。歴代きっての、鉢屋衆の長に…」




突然聞こえた声に驚いた影が振り向くと、そこには血だらけになった梅雨がかろうじて立っていた。
三郎は泣くのも忘れ、梅雨の姿を見上げる。
まだ生きていたのか、と影が再び刀を梅雨に向けるが、それよりも早く梅雨の手が動いた。両手に巻きつけた鋭い糸が、影の首に絡み締め付ける。


「っぐぁ…!」


影は声をあげて首を抑える。梅雨は容赦なく締め上げた。


「鉢屋に仇成す者は許さないわ」


ぐい、と最後に思い切り力を入れた。影は泡を噴いて絶命する。どさりと、肉塊となったものが倒れ伏した。


「ははうえ…?」


三郎は小さな声で梅雨を呼ぶ。梅雨は三郎が無事なのを確認すると、ふっと目を細めて笑った。そして、同時にその場に崩れ落ちる。三郎は慌てて駆け寄った。


「ははうえ、しっかりして…!死なないで!!」
「あぁ、三郎…良かった。無事で…」
「わたしは大丈夫だから…ははうえは、死んじゃやだ…ははうえ、ははうえ…!」
「大丈夫よ…私は、死ぬことはないから……三郎を守れて、よかった…」
「ははうえ!!」


そこまで口にすると、梅雨は気を失った。
三郎は何度も梅雨に呼びかけるが、梅雨が目を覚ます様子はない。傷口からどくどくと、血が流れ続けていた。このままでは死んでしまう…涙が零れそうな時だった。


「下がれ、三郎」
「ちちうえ…!」
「梅雨は死なない…絶対に。だが、手当はしなければならない。お前は家の者と一緒にいろ」
「でも…!」

「お前の母上は、絶対に死なせないから」


心配で仕方がない三郎は、梅雨の側から離れたくなかった。
しかし、弥之三郎の強い意志がこもった言葉によって、大人しく引き下がる。その目には今も大粒の涙が溢れていて、梅雨の横たわる姿を映していた。


「ははうえ…死んじゃ嫌だよ…わたし、一人になってしまう……」


大好きなたまが死んでしまって、頼る相手がいなくなった三郎は一人で膝を抱えていた。
甘えられる相手は、誰もいなかった。

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