step:01
あいつの名前





「はるか」

その三文字だけを発するのにどれ程の時間が過ぎたのだろうか。彼が彼女の名前を呼ぶか呼ばないかと悩み始めてからと考えれば数えるのが面倒な位、時間が注ぎ込まれたというのは事実の話。しかも本人が居ない所でこの調子だ。彼女を目の前にして名前を呼ぶ事だけにあと何年……というのはオーバーな話かもしれないが、あとどれ程の時間が必要になる事だろうかと考えれば、蘭丸は自然と頭を抱えてしまっていた。

(いつまでもこのままでいきたくねーしな………)

以前までの蘭丸であればそんな事は考える事すら皆無に等しかっただろう。
好きであるだからこそ呼びたい。その気持ちは十二分にあるのだが、蘭丸の性格上照れ臭さがあるのだろう。上手く形にする事が出来なかった。

「はる……は、るか…………」

唇が震える。
言葉が詰まる。
喉元の熱が上がる。
嗚呼、どうしてこんなにも悩まされるのだろうか。蘭丸は半ばやけくそに頭を掻き回し、どかりとソファーの背もたれに丸めていた背中を預けた。身体を大きく伸ばして背中を反らし、差ほど高くない天井へ大きく仰向いて長い溜め息を吐いた。
と同時にある存在が蘭丸の視界に入り、蘭丸はソファーから勢い良く跳ね上がった。

「ななななんで、おまえっ!ここに……っ!?」

その勢いのまま振り返り、プルプルと小刻みに震える指を呆然と目を丸くさせた春歌に強く指した。

「その、仕事帰りで近くを通ったので声を掛けようとノックをしたのですけど、返事が無かったのでいらっしゃらないのかと思って帰ろうとした時、寿先輩がいらして……」
「いや、もういい……あいつの無茶なノリに流されたって想像は着いたから」

律儀に答えようとする春歌に蘭丸は溜め息をつきながら片手を上げてそれを制した。
それにしても何故気付かなかったのだろうか、それだけ気を逸らす事すら出来ないくらい余裕が無かったのだろうか。蘭丸はそう考えると、とにかく何処でもいいから埋まって、そのまま忘れ去られて欲しいぐらい羞恥に塗れてしまっていた。
不幸中の幸いなのは嶺二が仕事で詰まってたからなのか、この楽屋に留まらなかったと言う事だ。
もしこの場に居合わせたとすれば煩くて敵わなかったに違いない。

(こいつ……さっきの独り言聞いてなかっただろうな………?)

ちらり、と横目で一頻り春歌の表情を伺った。多少おどけた表情を浮かべてはいるが、気まずくて目を逸らして動揺するなどといった様子は見せていない。

(聞いて、なかったみてぇだな………)

気になる点はあるにはあるが、それを訊くという選択肢は早々に蘭丸の中から除外されてしまっていたからか、そこはもう気にしない事にした。
彼女は何も聞いていなかった。
蘭丸は自分にそう言い聞かせながら、机に散乱していた私物を鞄の中に纏め始めた。

「ほら、そろそろ次の収録で入る奴が来っから、とっととずらかるぞ」

私物を全てしまい込み、最後にベースを肩に担いで扉の方まで早々と歩いて行く。

「おまえの事だから挨拶ついでに曲の事で訊きたい事でもあんだろ?」
「っ!は、はい!」
「近くでどっか落ち着ける店でも見っけて、そこで曲の打ち合わせすんぞ」
「はい!」

はっきりと良い返事はしたものの春歌の表情はどこか曇っていた。どうしようか、言ってしまおうかコンマ三秒悩んだ末、意を決したのか再び春歌は口を開いた。

「………えっと、その……蘭丸さん!」
「なんだ?」
「名前、呼んで下さらないのですか……?」

覚束ないが、ちゃんと意思を垣間見せたその声に蘭丸は目を丸くさせた。そして声がした方へと振り返ると、そこには顔を赤くさせてパッと慌てて自分の口を押さえている春歌の姿があった。

「す、すみまふぇん!でふぎた真似をしてしまひまひた!今いったこひょ、わふれてください!!」

春歌自身でも何故口に出してしまったのだろうか。そんな疑問と混乱と後悔が一度に渦巻き、彼女は目を回して、へこへこと頭を下げた。
口を押さえながらもがもがと喋りながらのその姿は相当動揺しているとしか思えない。
この様子だとさっきの事は全て春歌に聞かれてしまっていたのだろう。

「顔上げろ、あと謝んな。それになんでそんなカミカミなんだよ」

蘭丸は嘆息を零しつつ春歌に振り返ると、その大きな手は春歌の小さな顎を捕らえて、そのまま俯いていた顔を持ち上げた。
その支えは、目を背く事さえ許されないかのように力強く、そして安定している。
合わさる視線に春歌は目を丸めて息を呑んだ。


「春歌」


するり、といった効果音が一番適切だろうか。先程まで悩んでいたのが、まるで嘘であるかのように落ち着いた様子でその三文字は紡がれる。

(ただ、こいつから……)

求められている。そう感じたから余計で、ちっぽけにしかならない見栄なんて何処か遥か彼方へと吹き飛んでしまっていた。
ややあって春歌の瞳が緩まり、ふやけた笑みが浮かんだ時には、蘭丸の口から小さく安堵の息が零れるのだった。








(今の……すごく、ずるいです………)
(はぁ!?お、おまえが名前で呼ばないのかつーから……てか、おまえの方がずりぃよな)
(それじゃあ、おあいこですね)
(なんだそりゃ)



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蘭丸先輩が物凄く春ちゃんの名前を呼ぶ練習してたらいいですねってお話。
2012/10/05
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