壊れぬ愛は伝わるか

濡れた髪にタオルを乗せて水を滴らせたままキッチンへ赴き冷蔵庫をあけた。自炊なんてろくにしないので、中身はペットボトルのミネラルウォーターが数本と何本かのビールと簡単な酒の肴だけだ。
その中から迷わず青いZIMAの瓶を手に取って栓をあけ中身を煽った。清涼感のある味が熱いお湯で火照った身体に心地がいい。開封した栓をゴミ箱に放り込むとふう、ため息をついて冷蔵庫に寄りかかりながら一息ついた。
そしてはやく髪を乾かさなくちゃ、だとかかろうじて化粧水だけは叩き込んだけれどもっときちんとスキンケアをしなくちゃ、だとかそんな面倒なことを頭の隅に追いやる。
お酒を開ける前にやれば幾分か楽なのはわかってる。でもそれが出来るほど理性的な人間ではなかった。むしろ濡れた髪のまま酒瓶を持ってベッドに倒れこまないことを褒めて欲しいくらいなのだ。
だがこの部屋にはこんなわたしのことを褒める人間も怒る人間もいなかった。冷蔵庫の微かな作動音だけが孤独を慰めている。
人生、これでいいのかなとふと思う。
高校を出て、家業を継ぐと思ってたのに。気がつけばグレーゾーンの女王だなんて、クレジットカード審査にも書けない仕事をすることになっていた。
そりゃ、この仕事は楽しい。日本という法治国家の影に近い場所で、自分たちの信じる正義を追求できる。こんな素晴らしいことはなかった。
しかしそんな仕事にもネックはある。それは紛れもないビジネスパートナーである安藤 崇という男だ。
喧嘩は負け知らずで、テレビの中のアイドルに劣らずかっこよくて、それでいて頭が切れる非の打ち所のないクールな男。そんなだから、確かにビジネスパートナーとしては最高だった。それなのに。
今日は仕事中たまたま、彼と目があった。切れ長の瞳が投げかける、場違いな熱い視線に驚いてわたしはふいと目を逸らしてしまった。
最近、こんなことばかりだ。前髪をかきあげてまたため息をつくと、横にいたGガールがどうしたんですか、と心配そうに訊ねてきた。なんでもないよ、と返してラップトップにのめり込んだ。逃げ出したくてたまらなかった。そんな今日の昼間の出来事。
彼の視線の意味がわからないほどわたしは馬鹿じゃない。
あれは僅かな愛と溢れんばかりの劣情だ。いろんな男からその眼差しで見つめられてきた。時に不快で、時に心地よかった。そして今、あの瞳にそう見られるのはなんだか居心地が悪かった。
気がつけばビジネスパートナーだった男。それ以上にもそれ以下にもしたくない。これがわたしが出した答えだ。
それなのに。最初は勘違いだと思った。あの完璧な男がわたしなんかに手を出すはずがないのだ。しかしあの視線に気がつく回数は次第に増えていき、流石に無視できないほどになっていた。またひとつため息。そして瓶の中身を一気に煽って空になったそれをシンクに置いた。うだうだ悩んだって仕方がない。あの視線が嫌なだけ、べつに触られた訳でもない。別にいいじゃないか、それよりいい加減髪を乾かそう。そう思った矢先だった。
静かだった部屋に携帯の着信音が鳴り響く。ああ、どこに置いたっけ。音を頼りに玄関からリビングへと向かう途中の廊下に捨てられたように置かれたサンローランのバッグの中から黒電話の合成音を鳴らす携帯を取り出して耳に当てた。
どうせ緊急の呼び出しだろうと思った。別にいいけど、人が死んでないといいななんて人には言えない考えが頭がよぎる。ナンバーディスプレイも見ないまま携帯を耳に当て通話を開始した。

「はい」

きっと側近の申し訳なさそうな声。しかし鼓膜を震わせたのは予想を裏切る冷たい声だった。

「いまなにしてる」

ああ、キング。先程までわたしを悩ませていた男に動揺して言葉を失った。
あの無駄を極端に省く彼がまさか恋人でもない女にこんな電話してくるかな。そう真意を図りかねて少しの沈黙の後に恐る恐る次の言葉をひねり出した。

「特に、なにも。考え事してゆっくりしてた」

なにか変なものでも食べたのだろうか。しかし今日は朝から晩までほとんど一緒に行動していたけれど特にそんな覚えはなかった。いつも通りマンションの下で落ち合い、午前はグレーゾーンの裁判をして昼は昼食を兼ねて付き合いのある暴力団の人たちと会食をして、午後はチームのヘッドたちと集会をしたり世話をしてるクラブを回ったりした概ねいつも通りの日常。
するとそんな動揺のなか、彼はいつも通りの冷たい声でそうかと返事をした。

「飲みに行こう。20分後に、エントランスで」
「え、ちょ」

有無を言わさずガチャ切り。むかつく、なんなんだ。そんな言葉の前にわたしは立ち上がって洗面台へと駆け寄ってドライヤーを手に取った。
時刻は22時10分。女王なんて名前だけ。本当はわたしも王様に翻弄される下々の者のひとり。



生乾きだったがこれでいいだろうとドライヤーを置いて化粧下地を手に取り、一瞬悩んだが結局はもとの場所に戻した。
どうせ彼だけだ。ほとんど接点はなかったとはいえ、あの人は高校時代のわたしのすっぴんを知っている。多少の照れはあったがそう思えば途端にどうでも良くなってアイブロウを手に取って眉だけ軽く整えて最後に申し訳ない程度に色つきリップクリームで唇に赤をのせた。
それから少しゆったりとした黒のワンピースに身を包むとキングが指定した時間ギリギリになるようにエントランスへと降りていった。キングを振り回す女ならばっちり化粧を決めて遅刻するくらいでいなきゃだめなんだろうけどさ。そんな気概のない哀れな女だった。
そんな女を見て当然先に待っていた池袋の王はまだほんの少し濡れている髪を一瞥する。

「風呂上がりなら、言ってくれればよかったのに」
「言ったら強引に呼び出さなかった?」
「待ち合わせの時間を引き伸ばしていた」

ちょっとした嫌味をさらりと受け流した彼はそのまま行くぞとまるでひとりごとのように言って歩き出していた。待って、と薄手の夏物のシャツに覆われた筋肉質な背中を追いかける。腰がきゅ、と引き締まっていて抱きついたら心地いいだろうなとセクハラ紛いのことを頭の片隅でぼんやりと思った。
そのままエントランスを出ると熱されたコンクリートで温められたビル風がむわりと頬を撫でる。その不快な生暖かさに髪を撫で付けた。

「あー、ボディガードつけないで歩いていいの?」
「この池袋におれより強い人間がいると思ってるのか」

薄い唇が不敵に口角をあげる。はいはい、そうでした。もうそれ以上なにも言わずにすたすたと歩く男の斜め後ろを歩くことに徹した。高校卒業前日の放課後と変わらない距離感。
あの日からずっと、いつも近くにいるのにわたし達は互いの名前を呼びあったことすらない。タカシ。心の中でぽつりと呼んでみた。まだ少し違和感。安藤くん、の方がまだ口に馴染む。そんな下らないことを考えていたのでその名の男が立ち止まったのに気が付かなかった。背中に額をぶつけ急停止。怪訝な顔で振り向かれたので小さく謝って顔を背けた。

「ここ、入るぞ」
「行きつけ?」
「そんなでもないが」

しかし彼はぶつかったことに関しては特に何も言ってこずに目の前にある扉を開ける。重たい木の扉。慣れたように敷居を跨ぐその後ろについて今度は慎重に距離を保ちながら店に入った。中は本当によく見る普通のバーだった。暗い店内、グラスを磨く黒いベストのバーテンダー、所狭しと置かれた酒瓶。
暗いのはいい。すっぴんで隠せなかった粗を隠してくれる。少し安心した。
彼が背の高い椅子を引いて座るよう促した場所に腰掛ける。そのあと王は悠然に右隣に座った。すかさず出されたおしぼりで手を拭きながらメニューを覗き込んだ。
ずらりと並んだお酒の名前。好きなお酒はあるといえど、これだけ並べられると迷ってしまう。

「どうしようかな」
「ゆっくり選べ、おれはもう決まってるから」

彼はきっとシンプルでおいしいウイスキーのロックを頼む。わたしは、そうだな。結局はメニューを閉じてたまたま目に入った酒瓶の名前をバーテンダーに告げた。ヒプノティック。夏にぴったりなトロピカルフルーツの爽やかな味と、南の海のような鮮やかなターコイズブルーが好きだった。そして隣の彼はやっぱり山崎18年をのロックを頼んでいた。ほらね。
それからしばらくしてやってきたグラスを各々手に取り、なにも言わずに静かに乾杯した。グラスを合わせるのはマナー違反なので形だけ。
しかしひとりで飲むのも別段苦じゃないだろうに。どうしても誰かと話がしたいだけならマコトの方が適任、そう思って彼の呼び出しの意味を考えた。
まさかクビの宣告とか。別にいいけど。マコトに笑われるだろうな。

「それで、どういう風の吹き回し?」

それから考えても仕方がないと恐る恐るそう質問した。
すると彼は苦笑する。なんだか見慣れない、どこか甘さを含んだ表情だ。少し緊張して背筋を伸ばしながらお酒をまた一口飲んだ。

「そう喧嘩腰になるなよ」
「違うよ、こんなこと初めてだから緊張して・・・」

手練手管とは言わないけど。いろんな男の人と飲んだりしたけどこうも相手のことが読めず焦ってしまうのは安藤 崇という男だけだった。
嫌われたくない、見捨てられたくない。でも必要以上に好かれたくない。我ながら面倒くさい女だ。
それでも嫌なのだ。男に振り回されるのが。くだらないプライドだと笑って欲しい。どうせ最初は可愛がって数ヶ月経てば飽きられて大事にされないのが分かりきっていた。そんな扱いされるなら淡白なワンナイト若しくは触られないのが1番。それがわたしの信条だった。
白い細く長い男の指がロックグラスを弄んでいる。その指が昔、わたしの太もも撫でたあの瞬間を思い出してぞくりとした。

「初めて、ね」

そんなわたしと裏腹に男は余裕そう。意味深にそう呟く口はなにがそんなに面白いのかまだ上向きな弧を描いていた。

「なによ。そりゃあキングのモテっぷりには敵いません」

この前だってクラブで引っ掛けた女と夜中消えたのをわたしは知っている。側近もみんな気づいてる。でも口にしないだけ。このストイックなキングだって人間であることをみんな知っているのだ。

「どうだっていい女にもてたって仕方がない。便利なときもあるがな」

そして彼は腕をこちらに伸ばしてきた。肩を抱かれる。そう身構えて身体を固くした。しかしその手はそこまで来ずに耳元で止まった。

「ピアス、こだわりあるか」

なに、急に。びっくりしてしまった。彼がおしゃれなのは知っていたがそんな話がしたくて呼び出したのか。
わたしは落ちつかず耳元のピアスを撫でた。小ぶりでシンプルなパール。何にでも合うので、寝る時すら横着してほとんど付けっぱなしだった。まあ、そのくらいなのでこだわりはない。

「重くなくてかわいけれ買ってるかな。あんまり付け替えたりしないけど」

学生時代に友だちとノリで買ったドン・キホーテの1000円もしないピアッサーで開けた穴。
そしてキングの人差し指が耳たぶに触れて緊張が走った。冷静を装って、彼を横目で見る。

「なあに」
「・・・気に入るかわかんないけど」

それから彼は優しくそう笑って小さなアクセサリーケースをカウンターに滑らせて私の前に置いた。黒いパッケージに見覚えのあるロゴ。一生手が届かないと思っていたハイブランドジュエリーブランド。顎が外れるかと思った。思わず彼に向き直る。

「冗談でしょ」
「そんなわけあるか」

つき返そうとすると不貞腐れたように頬杖をついてそっぽを向いてしまう。開けていい?ときくと無言で頷くのでそそくさとケースをあけた。黒いクッションの上にはサファイアとダイヤモンドがあしらわれた上品で小ぶりなピアスが鎮座している。値段が全く想像出来やしない。震える声を必死で抑えた。
だって、そんな、普通名前すら呼んだことがない女にこんなもの、渡すかな。

「何考えてるの、受け取れないわ」
「お前のために買ったんだ」
「だって、そんな」

言葉に詰まって彼の瞳を見つめた。泣きそう。どうしたらいいのか全くわからなかった。こんなもの貰ってしまったら高価な首輪で縛られたも同然。
わたしのことが純粋に好きだからこのプレゼントを?そんなはずがない。彼がわたしなんかに惚れるはずがない。仕事ぶりに対する褒美なら贅沢すぎる。
彼は動揺するわたしを見て、ため息をついた。呆れられただろうか。
そのままキングはそっとケースの中に手を伸ばし、バーの僅かな照明の中でも光り輝くそれを持っていく。そのまま両手を自分の左耳に持っていった。そしてその手が離れる頃にはあのピアスうちひとつがそこに輝いていた。彼にとても似合ってる。王の器を持って生まれた人はやっぱりハイブランドにも負けないんだなと思った。
しかしそう思った矢先にキングの両手がわたしの右側に伸びてきた。仰け反る間もなく捕らえられ、付けていたピアスを外されたと思ったら残りのもうひとつのピアスを付けられた。慌てて右手でそれに触れる。

「せめて半分は受け取ってくれ」

しかし外そうと思った矢先にそんな冷たい声が鼓膜を震わせた。
もう、いいや。力なく頷く。そして青く輝くヒプノティックを飲み干した。それからわたしも山崎の18年をロックでと注文した。43度のアルコールでこんな複雑な気持ちをかき消してしまおうと思ったのだ。
お揃いのピアスだなんて、まるでバカップル。落ち着かないな。満足そうにわたしを眺めるキングが小憎たらしくて仕方がなかった


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