相原 旭という女

相原 旭という女を初めて認識したのは、高校1年の夏だった。
あと数日で夏休みということで校内はどこか浮き足立っていた。普段からサボりがちの学生が多いとはいえ、夏休みという堂々と休める長期休みに喜ばない学生はいない。やれ海に行こう、やれ山に行こう、そんな話をする同級生たちの合間を縫って歩き目当ての人物を探していた。
真島 誠。西一番街で果物屋を営む家の一人息子。決して目立つ男ではなく成績も顔立ちも喧嘩も全て中ぐらい。不良でも、かと言って優等生でもない普通の男だった。
彼といる時間がいちばん気楽で好きなのだ。自分と同じ母子家庭で、心優しく賢いあの男と仲良くなるのにそう時間はかからなかった。今日の放課後もゲームセンターに誘おうと誠の背中を見つけたその時だった。ふと彼の脇に女がいることに気がついて足を止めた。
荒れた工業高校のため女子学生の数は極端に少ない。機械科である自分のクラスに至っては女子学生はゼロ。そのせいで隣のクラスでもなんとなく女子学生のことは把握していた。たしか、あの女の名は相原 旭。
しかし彼女もそんなに目立つタイプではないはずだ。名前しか知らない。誠と同じ、全てにおいて中ぐらいを維持する女なのだろう。隣のクラスに在籍する彼女と誠が会話する接点はなんなのか。それを考える間もなく、彼女はさっさと奴の隣を立ち去ってしまった。
そして彼女が横を通り過ぎる直前にマスクを押し上げつつもちらりと彼女の顔を見る。目が合った。彼女は不思議そうな顔をしつつも足を止めることなく去っていった。

「おータカシ、今日もゲーセン行こうぜ」

彼女の足音を振り返ることなく見送っていると、こちらに気がついた誠が駆け寄ってくる。
ふと、彼女のことを訊ねようとしたがやめた。相原
旭という女に興味がなかったし、こいつを不機嫌にさせてまでふたりの仲をいじりたくはなかったのだ。



「やりてえなあ」

昼休みの教室で隣の席に座るクラスメイトがそう下品に喚いた。あまり猥談が好きではない。興味がないと頬杖をついてそっぽを向く。

「うるせえよマサ、女でも買えば?」
「買うんじゃなくてさ、彼女欲しいんだよなあ」
「さっきはただやりたいだけって感じだったが」

しかし誠と数人のクラスメイトが彼の話に乗っかる。そしてその中のひとりがにやにやと下卑た笑みを浮かべながら周りの男を寄せ集めた。なぜか自分も巻き込まれ、マスクの下で不服に顔を歪める。 クラスメイトは小声で言った。

「相原にやらせてくれないかな」
「相原?隣のクラスの?」

そこで誠の顔が一瞬だけ引きつったのを見た。そう言えば夏休み前に2人が話をしていた。その光景をふと思い出した。

「あいつすっごい優しいらしいしさ、適当に口説いたら流されてくれないかな」
「馬鹿いえよ」

すると誠が真っ先に否定した。しかし少し苛立った彼の様子に気が付かないようにクラスメイトたちはわいわいと勝手な噂を口にし始める。

「おれは根も葉もない噂話なんて聞かないからな。勝手に話してろ、おい行こうぜ。タカシ」

そして下世話な噂話にうんざりしてきた頃、誠も嫌気がさしたのか輪の中から連れ出してくれた。クラスメイトたちはそれをきにもとめず、噂話を繰り広げ続けている。
誠はその場を一刻も早く離れようとしていた。珍しい光景、少しからかうつもりでその女の名前を口にした。

「相原 旭」

なんだよ、また誠が顔を引き攣らせ反応した。元カノか、片思いか。そう検討をつけるとなんでもないと首を振った。



また別の日、暇を持て余し教室で本を読んでいるとクラスメイトに名前を呼ばれた。

「安藤、彼女来てるよ」

彼女なんていない。なにをばかなことを言っているんだと思いつつ指さされたドアの方へ赴くと先日話題の的になった相原 旭の姿が見えた。ぎょっとしつつ近づいていく。

「相原・・・さん?」
「あ、安藤くん?」

相原 旭が自分の名前を呼んだことに驚いた。兄は有名だが自分の名前を隣のクラスの女が把握しているとは思わなかった。すると彼女はにこりと笑って教科書を差し出す。物理の教科書。彼女がそれをひっくり返して指名欄を指さすと粗雑な字で書かれた自分の名前があった。

「忘れ物、理科室に。安藤 崇くんだよね?」
「・・・ああ。悪いな、わざわざ」
「なくならなくてよかったね」

校内の治安は日本とは思えないくらい悪い。落し物は十中八九戻ってこなかった。
そんな中わざわざ届けに来た当たり前だが当たり前でない行為に意表をつかれて黙っているうちに相原はさっさと行ってしまった。



その日の夜、東池袋にある公営団地のとある一室。古ぼけた畳の上にごろんと寝転んでぼんやりとしていた。小さい頃から喘息を抱え激しい運動をしてこなかったせいか、体力がとんとない自分にうんざりする。なにもしていないのに夏バテになるのだ。

「おー、大丈夫か。タカシ」

そしてその様子を見たランニング帰りで汗を流す兄の安藤 猛がからかい混じりに近づいてきた。うざったい、そう内心毒づいて猛に背を向ける。
兄のことは尊敬している。だが思春期の心がその気持ちに水を指した。一生追いつけそうもない兄への嫉妬。入院を続ける母へあまり付き添いをしようとしないことへの苛立ち。
しかしその気持ちを知ってか知らずか、からかい口調調子で猛は話しかけてきた。

「お前、教科書なくしかけたんだってな」
「なんで知ってるの」

唐突に出たその言葉にがばりと起き上がり兄を見つめた。やっとこちらを見たと言わんばかり猛はにやりと笑う。やられた。そう思ってもう一度元の体制に戻って不機嫌さを顕にした。

「さっき繁華街でうちの学校の1年生の女の子が変な奴らに絡まれてたから助けたんだよ、そうしたらお前に教科書届けたことあるって言ってたんだ。いい子だな、あの子。お前ああいう子どうだ」
「あーもう!うるさい!」

兄のからかいに耐えられなくなると再び勢いよく起き上がり、適当に身だしなみを整えて家を出た。か弱い自分が嫌いだ。少しでもあの兄に追いつきたくてジョギングでも始めてみようかと思ったのだ。



あっという間に2年生になった。
相変わらず学校はつまらないし、母の病状は芳しくなく兄はボクシングに明け暮れ、真島 誠が唯一の親友だった。
そして相原 旭という名も忘れかけた頃、食堂で久しぶりにその女の名を意外な男の口から聞いた。
チャーシュー麺をつついていると後ろの席からその男の声が聞こえてくる。

「相原、お前・・・」

その声にぎょっとした。ドーベルマン殺しの山井だ。以前、この男は学校の近所で飼われていた凶暴なドーベルマンを殺し一躍有名になっていた。つい先日もなにかを盗んだだか壊しただかで停学処分を受け、復帰したばかりだったはずだったと身震いする。そんな凶暴なことが出来る精神を到底理解できるとは思えなかった。
しかし相原はそんな男に怯える様子もなく平然と話している。

「ともかく復帰おめでとう。次は停学じゃすまないだろうから気をつけてね」
「別にいいよ、どうせこの高校でたってろくな未来はない」
「そんなことないよ、中卒と高卒じゃだいぶ違うし。それにヤクザになるとしてもここの高校出ておけば卒業生の先輩に可愛がられるんじゃない?知らないけど」
「そうかあ?」

驚いた。あの山井という男が納得したような口ぶりで相槌をうった。
どうやって手懐けたか知らないが彼女をほんの少しだけ見直した。



東京の酷暑もようやくなりを潜め、兄の死後1度は池袋の王を名乗ったおれも高校卒業まではその王の座を一旦は別の男に譲った。学業と公務の両立は難しい。ミヤさんや森村さんも賛成してくれた。
そして49日の法要を終えたその日、おれは真島家で食事をしていた。誠のおふくろさんは優しい声音で声をかけてくれる。

「もう夜も遅いし泊まっていきなよ、いいだろ。マコト」
「おれは別にどっちでも・・・」

母を亡くしたばかりの親友の前で実母を邪険にするのも気が引けたのか、誠は曖昧な返事をしながらおれを連れて自室に引っ込んだ。

「風呂、どうする?さき浴びてこいよ」
「いや・・・ちょっと考え事したいから後でいい」

誠はなにか言いたそうだったが、結局はそうかと一言だけ残して下着と着替えを持つと部屋を出ていった。それを見送るとごろんと4畳半の畳に寝転ぶ。
母と兄の骨を父と同じ墓に納めるまであっという間だった。どうして早く死にたいと願っていた自分よりも早く2人が行ってしまったのか、そう思うとじわりと涙がにじんでくる。その矢先だった。

「あのさ、マコト。この前のことなんだけど・・・」

がらりと窓が開いてあの女の声がした。
驚いて起き上がると目を丸くした相原 旭がこちらを見つめていた。そのコンマ数秒後には泣き顔を見られたことに気がついて慌てて俯く。やられた。

「あ、安藤くん。ごめん・・・その、わたし」
「・・・別に」

慌てる相原に、出来るだけ冷静な声を絞り出しながら短く返事をした。泣いていたなんて、こんなことぺらぺら喋り散らされたら面目丸潰れだ。どうしたらよいものかと考えを巡らせた。

「・・・えっと、あの、その、ご愁傷さまでした、無理しないでくださいね。タケルさんが以前心配なさってたし・・・」
「・・・タケルが?」

しかし意外なその一言に顔をあげた。その事にほっとしたのか、おれを元気づけようとでもするように彼女は少し声のトーンをあげて話し出した。

「昔助けていただいたことがあって・・・ちょっと安藤くんの話をしたの。まだ1年生のときだったな、弟はいつかこの街をひっくり返すような大きな力を秘めてるから見てなって。でも大きな力を持てば孤独にもなる、自分も傍にいないかもしれない。だからそのときは助けてあげてって」
「・・・そうか」
「あはは、わたしなんてなんの役にもたたないけどね!ごめんね!全然友だちでもなんでもないのに、あの、その、タケルさん素敵なお兄さんだったね」

そういって彼女も少し涙ぐんだ。数年先が見えていた兄の遺した言葉に呆然とすると同時に、ほぼ他人みたいな女をここまで悲しませる兄の人望の厚さには一生勝てないなと悟った。

「ね、安藤くん。生きて、いや、その仕事頑張って。お兄さんのあと継ぐんでしょ」

それから彼女はそう言ってそっと窓を少し閉じる。生きて、の言葉にぎょっとした。おれが死にそうに見えたのか。このおれが。
別に具体的な自殺を考えていたわけじゃない。ただ、死ぬべきは母と兄ではなく自分だったのではないかと思っていただけ。しかし生きてのその言葉に死を願う深層心理を指摘されたようで衝撃を受けた。
そして旭は消え入りそうな声で言う。

「いや、あの、ごめんね。ほんとに、ゆっくり休んで・・・あとマコトにはこのこと内緒にして」

そしてぱたんと窓が閉じられる音。なんなんだ、親友の誠ならともかく、猛はあの女に何を感じてそんなことを言っていたんだ。いまはもういない兄を思って再び畳に倒れ込んだ。
それに生きて、か。今もなお死を無意識に求めていたのに気がつかされて、初めてその思いを断ち切って生きていこうと思った。
それと同時に隣の部屋の相原 旭という女に俄然興味が湧いた。全て包み込むような、真っ直ぐで優しい目をしていた女に。
きっと彼女とこの部屋の主、真島 誠とは幼馴染。それも無断で部屋に入ろうとしたとはかなりの腐れ縁。彼女は売春をしているだとか何とか噂が流れていたがどこかチームに所属していただろうか。

「先に浴びたぞ、お前も入れよー」

そこへ誠が呑気な声を上げながら部屋へ入ってきた。おれの顔を見て、なにかあったかと首を傾げるが相原 旭との秘密を守ってなにもきかないでおいた。



明日は卒業式だ。
荷物の少ない教室はがらんとしていて、使い古された机と椅子だけが並んでいる。その中のひとつの机に腰かけた。誰のものかは知らない。
そもそもここは、おれにとってなんの縁もない電子科の教室なのだ。
なんだかんだおれは、相原 旭という女を3年間も気にしていた気がする。最初は些細なことから。次は幼馴染らしいがあの山井を手懐けている点に感心したり、校内の事件を解決しているのを見たり、そして結局は心が弱っているときに優しくされたのがどうもだめだったらしい。
相原 旭はどうせ平凡な女だ。友だちが多いわけでもなく、なにか秀でた技能を持っているわけではない。ただ底なしに優しいぐらいだ。あの兄もその優しさをひと目で見抜いておれの話をしたのだろうし。
鞄から1枚の5000円札を取り出す。あの女をどうしても手に入れたくなったのだ。こんな始まりは最低かとも思ったが他に彼女をゆっくり口説く術を思いつかなかった。ということでひとつの噂話を信じてみることにした。
そして廊下からかつかつと音が響き、がらりと扉が開いた。
いるはずもない男を見た旭の目が見開かれる。そんな彼女に、おれは最低な一言をかけた。

「5000円で買えるって、本当か」


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