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09
しゅくふくの
すずらん


呼吸が、軽い。
うめきながら、”瞼”を開ける。夢見心地だった体が一斉に覚醒し、ここは、と辺りを見回す。真っ白い天井に、清潔なベッドとシーツの上。たしか、たしかここは。

「よかった、目が覚めたようだね」

ふわりと高くくくられた長い髪を揺らしながら、穏やかな顔を浮かべて誰かが私の顔を覗き込む。私は、一体。
混濁する頭でなんとか体を起こそうとするが、がくがくと力が入らず”腕”が震える。なぜだか先程から感じる違和感に首を傾げ、私を覗き込む彼をぼんやりと見上げる。
気持ち悪かったり、体が痛むところはあるかい、とこちらを気遣う言葉に、ひとまず該当しないのでふるふると”首”を振る。

「うん、体調は良好。除去した汚染されてた部分も悪さしていないようだし、このぶんならすぐに良くなるよ」
「あの……誰、ですか?」

訝しげに見つめれば、ポニーテールの男性はしまった、と顔をして。自身の失態を照れくさそうに苦笑して流す。

「ぼくは、ロマニ・アーキマン。カルデアの医療部門を担当していて、今はここの仮の責任者さ」
「かる、であ……カルデアっ!?」

もたげていた違和感の正体が分かり、体を無理に起こそうとして上手く立ち上がれずベッドから落ちる。”体が動く”。いや、そもそも、なんで”生きている”
次々にわく疑問に混乱する私の傍に駆け寄り、ロマニ・アーキマンと名乗った彼は心配そうにさすり、私の体を優しく抱えてゆっくりベッドへ下ろすと。傍にあるイスを持ってきて、目の前に腰掛ける。

「その様子だと、直前まで自分がどこにいたのか、ちゃんと把握しているようだね」
「…そんな…どういうことなんですか…私、死んだんじゃ…」

どこかで同じようなことを言った。でもあれは、夢のようなところで。今度こそ私は死んだはずだった。それなのに今、生きている。しかも、カルデアに戻っている。
一体今がいつで、なにがどうなっているのかと一つ一つ聞いていきたいけれども。混乱する頭ではなにから聞けばいいのかすら正常に選択出来ず、頭を抱える。
彼はこれを予期していたように、病衣をまとう私の肩を優しくさする。

「大丈夫、大丈夫…まずはゆっくり、キミが無理しない程度に。話してあげるから」
「…はい」

さあ深呼吸だ、と促され、ゆるゆると言われた通り深呼吸を繰り返す。
久し振りに、自由のきく体に酷く驚いてしまう。

「さて。まずはキミが一番知りたがってることから、説明しようか」
「…どうして、ここにいるのか」
「その答えは、ダヴィンチちゃんと…君と共にいたシロウ・コトミネくんの、仕業だね」

ロマニ・アーキマンから、思わぬ二人の名前が出て目を見開く。
どういうことかと視線で促せば、ドクターロマニは給湯器で入れたお茶をこちらに差し出しながら、ゆっくりとこちらの混乱を解きほぐすように説明を始めた。

…そもそもの二人の接触は、初めに私が倒れた時のこと。
アンカーでつながれていた私が倒れたことで二人が接触出来、互いに状況を説明しあい、状況を把握することが出来た。ここまでは、私も話しに聞いていたので、知っている。

問題は、そこから。私はそこで連絡を断ってしまったが、シロウさんは定期的にダヴィンチちゃんと連絡をとっていたようだ。こちらとあちらで、時間がズレていこうとも。自身の魔力と引き換えに、私を延命させながら。ダヴィンチちゃんとの連絡をとるための魔力も捻出しながら、ずっと私が生きられる道を模索していた。
その間、マリスビリー所長の娘、オルガマリー所長が新しい所長としてカルデアに就任したらしいが。カルデアが襲撃を受け、その際に死亡。カルデア以外のすべてが人理焼却により、閉じ込められた。
そうして、ドクターロマニが仮のトップとなったことで、たったひとつだけ方法が生まれた。

それが、強制的にこちらにレイシフトさせ、戻すこと。

レイシフトはもともと、各機関の承認がなければ出来ない事になっているため、これが一番簡単に出来て。一番安易にとれない手段だった。
だけどそれを承認する機関が消え、それを止める所長もいなくなったことで、不幸中の幸いというべきか。私を戻す手立てが、生まれた。
でもシロウさんは、最後まで迷っていたようだ。救われなくていいと言った私の願いを、無視することを。日に日に衰えていく私を見て、本当にこのままでいいのかと。迷って、たくさん迷って。決めたらしい。
何度もシロウさんから逃げようとした私を、シロウさんは最後まで向き合って。そうして、自分が憎まれてもいいから、私を救いたいと決意した彼の話しを。ドクターロマニから聞きながら、私はぼう然としていた。

「…それで、キミはここに戻ってこれたわけなんだけれど。体のほとんどが、無茶なレイシフトで汚染されていてね。今少ない人員でなんとかやっているから、キミの回復に手間取ってしまって。ようやく先日、除去が完了したんだ」

あとは衰えた筋力を取り戻せば、すべて元通りだとドクターロマニは言った。

「あの…ひとつ、いいですか」
「なんだい?」
「もう一度、彼のところへレイシフトすることは、出来ますか」

縋るように問う。もう一度、今度は無茶のないレイシフトをすれば。もうなにも脅かされることなく、生きられるのではないかと。淡い期待を抱く。
でも、ドクターロマニは、沈痛な表情で首を横に振った。それは出来ないと。もともとまったくの偶然で飛ばされただけの、偶然座標があっただけの時空軸と時間。数少ない機材でなんとか私という人間を把握出来ていただけで、座標を割り出すだけのリソースはなかったと。
だから、もう二度と会えない。

「…彼は、天草四郎時貞と、名乗ったらしいね。このカルデアなら、”彼”を呼び出すことは可能性としてあるだろう。でも、キミとともに在った”シロウ・コトミネ”としての彼は、おそらく」

おそらく、会えない。
英雄とは、英霊の座にそのすべての魂が存在する。数多の時空で呼び出されるその魂は、みなその魂のコピーとして召喚される。だから、同じ存在だからといっても、現界した時のその記憶と、経験は、他の存在には、記録のものとしてしか受け継がれない。同じ、人間ではないのだ。

だから、私が愛したシロウ・コトミネという、天草四郎は。もう、二度と会えない。

うそつき、と口の中でこぼす。
ぬるくなったお茶を強く握りしめると、ドクターロマニは眉根を寄せ私の手を両の手で優しく包み、力を抜こうとさする。

「…まずは、少しずつリハビリしようか。それから、職務復帰だ」
「…私に、魔術は使えません」

魔術回路のない私に、ここで出来るサポートなどたかがしれている。
ここでの私の価値など、ない。

ドクターロマニはその回答に気を悪くするわけではなく、むしろふわりとゆるやかに笑って「キミにも、ちゃんと魔術回路はあるよ」と不思議なことを口にした。
何を言ってるんだと眉を顰める私に、彼はだらしなくゆるい顔でえっとね、と私の腕を撫でた。

「キミは、自分の起源がなにか知ってるかい?」
「…いいえ」
「起源てね、すべてのモノの原初の方向性なんだ。そうあるべきモノとすべてが定まっている、本能みたいなもので。ボクにも、キミにもある。キミの場合は、『解く』が起源になっているんだ」
「ほどく…?」

起源についてはそれなりに知識はあるが、今まで自分の起源など知ったところでどうなるわけでもないと、調べたことがなかった。それを彼は、私の治療の際に知ったのだろう。

解く。繋がりをほどく。命をほどく。回路を、ほどく。

私の魔術回路は、存在はするらしい。
けれどそれをつなげるパスが、私の起源のせいでぶつかり、一時的に繋いだとしても。すぐに解けて機能しないだけらしい。だから最初にこれを診断した魔術師も、ないものと判断したのだろうと。でも、それがなんだというのだ。それが分かったところで、なにも変わりはしない。役立たずの、ままだ。
不機嫌さを露わにする私を前にしても、ドクターロマニはにっこり笑う。

「ほどく、てほぐすとも書くだろう?緊張をほぐすとか、心をほどくとか。意味は様々になる。レオナルドからキミの近況を聞く限り、キミは誰かの心をいつもほぐしてきた。今この切迫したカルデアと、人類最後のマスターにとって。キミの価値は、なによりも得難いものになると。ボクは思うよ」

事実初対面の女の子なのに、ボク今、なぜかすごい心が落ち着くんだと、ドクターが言った。

価値があると、彼は言った。
魔術をつかえなくとも、私のこの性質があれば、ここでやれると。だからいていいと。
正直、どうしたらいいのか分からない。ココ以外に今居場所はないのは事実だけれど、だからといって、ここでやっていけると言われるとは思わなくて。

困惑する私の手から離れると、ドクターロマニは立ち上がって「少ししゃべりすぎたね。今日はもうゆっくり休んだほうがいいよ」と言い残し、医療室から彼は去って行った。
残された私は、そうは言われたものの、あれだけ眠かった体が嘘のように元気で。自由に動く体を持て余しているのが、もったいない気がして。
病衣以外になにかないかと探すと、ここの制服が出てきた。復帰した時ようのものだろうか。他に着るものもないし、大人しく袖を通し館内を歩き回る。

あちこちに修復の痕が見える。襲撃の詳細を簡単にしか聞いていないが、人理焼却とは。自分があちらで穏やかに暮らしている間に、大きな事態に巻き込まれているとは知らなかった。
シロウさんも少しは私に言ってくれればいいのに、と口の中で文句をもらすが、彼の性格からいって。生きるのに精一杯な私に、いらぬ懸念はかけられないとの配慮するのは、わかっていた。私の事をひどいと言うが、シロウさんも大概ひどい人だ。

もう手を繋いで、一緒にご飯を食べて。あの笑顔を、見ることは出来ないのか。
ここで、一人で生きていけというのか。

こつこつと、広く、静かな廊下に私の足音だけが響く。
いつもどこかに行けば、必ずシロウさんが隣にいたのに。今は誰もいない、ただの空間が。虚しく感じる。

少し歩きすぎてしまったらしい。元気になったとはいえ、病み上がりの体には少々厳しかったようで、なんとなしに歩いた先にあった部屋に入り、体を休ませる。
電気をつける場所が分からず、ただの暗がりの中。ぼんやりと立ち尽くす。

「シロウさん…」

もう、応えてくれる声はない。
まだ本調子ではない体のせいか、行儀悪く床にぺたりと座り込む。ただただしんと静まりかえっており、なにも見えない。この暗闇の部屋にいることで一層自分の孤独を思い知らされ、縋るように自分の体を掻き抱く。

「シロウさん…っ」

なんで、と答えはわかっているのに。疑問を抱かずにはいられない。
私を思ってここに帰したのはわかっている。けれど私は、そんなの求めていなかった。生きてほしいと、自分が憎まれても構わないと決断してくれた彼の苦悩を、理解出来ないわけじゃない。でも、でもそれでも。私は死んでよかった。シロウさんと共に生きた世界で、死にたかった。
これじゃあ、あんまりだ。
もう会えない場所で、いずれそれぞれ死んでしまっては。彼は何に私を思えばいい。骨さえあれば、生きた証が残る。墓があれば、それに向かって手を合わせられる。でもそれを、残せなかった。それでは、彼はなにに弔えばいい。死んで形として置いておけないなら、いつまでもシロウさんの胸に残ってしまう。そんなの、そんなの呪いでしかない。忘れてと言った、私のことを忘れて生きてほしいと。それなのにこれでは、意味がないではないか。

さめざめと暗がりに一人、哀れに泣く。
つたう涙を拭ってもぬぐっても、止まらない。ひどいことしたと、後悔しても。もうどうしようも出来ない。抗える体も、心もあるのに。それをする手段が、私の手の中にはない。

もう一度、会いたい。

残すことが叶わなかったならば、もう一度会いに行きたい。今度こそ、彼だけを残して逝かないと。死を数えながら生きるのではなく、彼と未来へ行くために生けたらと。切望して、羨望して、願って、縋る。
誰か、どうか。どうか、と。祈る神などいないのに。彼を見放した神など、憎たらしいとさえ思っていたのに。私は両手を握りしめて、祈っていた。


床が、ゆらりと光る。

右手が熱く痛みが走り、目を見開く。目の前にぼう、と光が赤く浮かび上がり、なにこれ、とうわ言のようにつぶやく。光が、ひとつひとつ形作っていくと、それがなにを意味する光陣か気付き、思わず口を手で覆う。

「…英霊の、降霊、陣……」

まさかと右手を見れば、赤くじくじくと痛む手には、赤い模様のような痣。文献で一度だけ目にしたことがある。これは、令呪だ。
なんで、だって私の魔術回路は正常じゃない。陣をひいた覚えもなければ、なにも唱えていない。魔力の高まる丑三つ時にだってなっていない。
絶えず疑問が湧く。私に、今まで魔術のひとつも宿らなかったのに。今になって、じくじくと痛む赤い令呪が、私に奇跡でも成せとでも言うのか。今の私なら、願ってもいいのか。
希望を、抱いてもいいのか。

赤く光る令呪に、私は祈るように目を一度閉じる。
やがて覚悟を決め、深呼吸をし。立ち上がって右手を陣へと向ける。

「……素に、銀と鉄」

召喚陣が呼応するように強く光る。
強く風がどこからか吹く。その力強さにふらつきそうになる体を、必死に踏ん張って耐える。

「っ…礎に石と契約の大公…!」

風と光の強さを増していく。それでも私は召喚の降霊呪文を唱え続ける。

閉じよ(みたせ)。閉じよ(みたせ)。閉じよ(みたせ)。閉じよ(みたせ)。

まだ、私はシロウさんとどこにも行けていない。あの閉じた場所でしか、私はシロウさんと歩けていない。全然、二人でいたら10年ぽっちじゃ足りない。
だから、どうか。どうか私にも、最後くらい奇跡を掴ませて。

「汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手―――!」

まばゆい光が一面を埋め尽くす。目を覆い、衝撃に耐える。
体を叩きつける風が、やがて静まり。光に包まれていた部屋が、元の暗がりに戻る。あまりの光度に目がちかちかと、瞳孔が上手く元に戻らず一層部屋になにがあるのか見えない。
儀式は、成功したのか。失敗したのか。

瞬きを繰り返し、ようやくなんとか視界が戻り目をこらす。
こつ、と誰かの足音がした。

「…サーヴァント、ルーラー」

それは、ずっと傍で聞いていた声。望んで止まなかった、あの人の声。
ゆっくりと、足音が私の目の前にやってくる。こらしていた目がようやく姿を捉え、ゆっくりと見上げる。

日に焼けた褐色の肌に、きらめく灰色の髪。カソックに身を包んだ、私と同い年ぐらいの男の子。
およそ二十にも満たない男の子がしないような、慈愛に満ちた達観した笑み。
私がいつも傍に見てきた、彼そのものだった。

彼は穏やかに微笑みかけると、私に頭を垂れた。

「名を、天草四郎。アナタの召喚に応じ、参上いたしました。―――”マスター”」

―――ああ、やっぱり。
わかっていたことだと、肩をすくめる。落胆するのは彼に失礼だと、努めて明るく背筋を無理に伸ばす。私に奇跡を成す力がないのは分かりきっていたのに、希望がぶら下がってやってきては、やはり切望してしまうのは、仕方がない。ああ、でも。
期待しなければ、よかった。

「…初めまして。みょうじなまえと、申します」
「……みょうじ殿、ですね。よろしくお願いいたします」

ゆっくりと握手を求められ、震えながら手を取ろうとして。彼に、みょうじ殿と呼ばれた瞬間、取れなかった。
ぽたりぽたりと自分の手に涙が落ち、慌てて拭う。不審に思われてしまう。だめだだめだと止めようとしても、溢れて止まらない。この人はシロウさんじゃない。シロウさんはもういない。泣いている私を抱き締めてくれるシロウさんは、もうどこにもいないんだ。だから、しっかりしなきゃ。

わかっているのに、気持ちとは裏腹に体が言うことをきいてくれない。ずっとやまぬ涙に、上手く口が回らない喉に苛立ちを感じていると、そっと褐色の指が、私の頬を拭った。

「泣かないでください…あなたは、泣いているより。笑ってるほうがすてきです」

ああ、どんな彼でも、彼は彼なんだなと。優しいその仕草に、いっそう心が泣いた。

つんとする鼻をおさえて顔あげる。記憶どおりの、優しく、こちらを労る穏やかな笑みに。その胸に縋りたくなる衝動を抑える。そして、ふと。なにか違和感を感じた。
赤い目をこすり、ぼやける視界をなんとかクリアにする。褐色に、金の瞳。カソックの服に…彼は、純銀の、ピアスをつけていた。
私と出会った時、シロウさんはピアスをつけていなかった。それは、私が彼に贈ったもので。すべての事象の彼に、それはないはず。なのに、なんで彼がそれをつけて。いやそもそも、史実の通りの天草四郎なら。カソックの服を着ているのは、おかしい。

それに今、笑ってるほうがと。
私はこの彼に、そんな顔を一度だって。

目を点にして彼を凝視していると、次第に彼はくしゃりと笑い、「なまえさん」と私を呼んだ。

「シロウ……さん…?」
「はい」
「なんで、だって……え…?」
「私、死んでしまったのですよ」

けろりと言い放った。
混乱する頭にとんでもない燃料の投下をされ、余計に困惑する。

「残念ながら、聖杯をとれませんでした」
「は…え…?」
「だからまた、サーヴァントに逆戻りです。せっかくなまえさんが色んな加護をつけてくださったのに、この体たらくとは情けないです」
「…あ…う…」
「だから今度はサーヴァントらしく、と思ったのですが。…すみません、まさか初めましてと返されるとは思わず。少し、意地悪をしてしまいました。…悲しい思いをさせてしまって、ごめん」

混乱しすぎてもはや呆然とする私に、シロウさんはいつもの調子で話しを続ける。その間、ゆっくりと、何度も頬を優しく指先で拭われる。確かに感じる温かさに、いまだ信じられず目をぱちぱちとまばたきするけれども。私に笑いかけてくれる、あの慈しむような瞳は。確かに私と過ごしたシロウさんの目で。
あまりにも信じがたいことに、おそるおそる本当に…?と繰り返し問う。

「本当に、シロウさん?」
「ええ、アナタと一緒に。冬木で過ごした、私ですよ」
「記録で覚えてるとか、ではなく?」
「どれだけの精度かと問われると自信はありませんが、確かに実感として。覚えていますよ」
「本当に…?」
「本当に」

シロウ、コトミネですよ。と、彼は言った。

じわりと、涙がまたこぼれる。今度はもう、本当に。決壊してしまった。こらえてもこらえきれないと、シロウさんの胸に飛び込み。声をあげて泣いた。
叫びながら、なじった。マスターとして呼ぶなどひどいと。名前で呼ばないなんてあんまりだと。どうしてあんなことをしたのだと。ひどいと、八つ当たりのようにたくさん叫んだ。
その度にシロウさんは私を強く抱き締め、何度もごめん。ごめんと、赤くなっているであろう瞼に何度も口付けを落とし、何度も頭を撫でながら私に謝った。

力の限り抱き締めても、伝わるぬくもりが嬉しい。顔あげれば、大好きな人がいる。
もうそれ以上は、今はなにもいらない。なにも言わなくていい。ただ、今傍にいるだけで、求めてやまなかったものにもう一度会えただけで。嬉しい。


今死んでもいいかも、とひとしきり泣き終えた後ぽつりとつぶやくと、シロウさんは慌てて私の肩をはがし「怖いことを言わないで下さい」と渋い顔で苦言をもらし。
ようやく私はへらりと笑った。

「死んでほしくないなら、シロウさん。今度こそちゃんと私の傍にいてくださいね」

じゃないと死んでやります、と脅しにも似た言葉を口にすれば。
肩をすくめてシロウさんは苦笑した。

「ええ、今度こそは。…世界の果てまでも、ずっと」

やさしく私の体を抱き締めて、ゆっくり瞼を閉じ。
婚礼の誓いの口付けように、唇を重ねた。


いつだって私達は、未来がないところからスタートしてきた。死の恐怖に怯えながらも、互いが苦しくても。この手を繋いで、笑って。ずっと戦ってきた。
だからもう、大丈夫。今度もきっと、シロウさんがついていてくれれば。大丈夫。それにもう、私は、誰かと共に支え合うことの大切さを、知っている。

もう二度と離さないと、離れないように、強くシロウさんの手を握りしめると。シロウさんも応えてくれるように、強く握り返してくれた。