カッカッカ、と足早に慣れたマンションの階段をのぼる。右腕の腕時計を見れば針は6時ぴったりを指していた。――木曜日の今日、ベルトルトが五限の授業を終えるのは6時。帰ってくるまでの時間は見積もりを立てると30分。それから、いつも夕食は7時にとっている。

「クソッ」

 速足から一転、悪態をついて階段を駆け上がった。木曜日は四限で終わるし、今は普通なら夕食の支度をしている時間だった。それが実験の演習でペアになった奴が上手いことスムーズに実験を進められなかったせいで大幅に時間をオーバーしたのだ。
 ベルトルトとひとつ屋根の下で生活する中で、食事は俺の係だった。その代わり洗濯や掃除などの作業はベルトルトに多くやってもらって快適な作業分担にしている。
 あいつと一緒に住み始めたのは二年前、大学に進学する時だ。俺たちは高校の同期で、なんというか、まあ、その時から所謂恋人同士というヤツだった。俺たちの性質からして、その上男同士で、別に俺たちは甘くとろけるような関係でもなかったし、大学合格が決まった時点でお互い寂しくてだとか愛を深めあうために同棲だとかいう概念は頭の片隅にさえなかった。
 ただ、お互いAOと指定校でさっさと決まった大学の最寄り駅が近かったことと、ベルトルトが陰鬱気味に「炊事、どうしよう……」と呟いたことがそのアイデアを驚くべきスピードで実現たらしめたのだ。
 ベルトルトの料理の腕は彼の幼馴染をして前衛的と言わしめた。前衛的とはつまり、目の前に誰もいないということだ。その形容に絶する料理の腕前は俺も調理実習でお目にかかったことがあるが、成程確かに前衛的だった。後は推して知るべし。

「ただいま!」

 鍵をあけて部屋に入り、靴を放り出すように狭い玄関に投げた。鞄を床に捨てて冷蔵庫を開け、中の食材を確認してから不精が続いて少し長くなった髪をゴムで結びハンドソープで手を洗う。その頃に投げ捨てた靴が目についてしっかりと二足揃え(こういう時母さんの躾けが身に染みていると実感する)、炊飯器の内釜を抜きとった。
 米を入れているケースから二合分、虫が寄り付かないように入れている鷹の爪とローリエを避けて掬い、それから別の袋から雑穀米を一合分だけ掬って水にひたす。それをさっさと捨て、もう一度水を注いでからせっせと米を研いだ。
 何度か研いで水を流した後、予め水に浸しておく時間もないため水を三合の目盛より少しだけ多く注ぎ、炊飯器をセットした。そこでふう、と一息つく。なんだかそんなに急がなくてもいいような気がしてきた。ベルトルトも少しくらい夕飯が遅れて文句を言う奴じゃないし。
 そう思うと先程までいかっていた肩がすとん、と落ち、心まで落ち着いた。こうなったらいつもより時間のかかるものを作るかという気にさえなった。だから――そうだな。ベルトルトが俺の料理で、好物以外で特に気にいってくれた料理でも作ろう。

 そうしよう、と思うと口許にうっすら笑みが浮かんだ。ああクソ、浮かれてるみたいで恥ずいな。
 浮かんだ笑みの自分を誤魔化すために顰めっつらで冷蔵庫を再び開け、人参とウインナーを取り出した。常温で保存しているジャガイモと玉ねぎも取り出し、ウインナーを五本薄めの輪切りに、それから洗って皮を剥いた野菜を1cm角に切り揃えた。
 鍋にオリーブオイルをたらりと流し入れ、小さじ一杯程度のチューブのニンニクを入れた。ニンニクがきつね色になり、想像以上に食欲がそそられる匂いがしてきたら切った材料を炒め、2カップ水を注ぐ。あとは今日のメインが時間がなくて味が弱めになりそうなので、濃いめに調節するためポイポイとコンソメキューブ2つ、小さじ一杯のマジックソルト、ローリエを投入して5、6分煮ながらメインの製作に取り掛かるため再び冷蔵庫を開けた。
 先程入れたマジックソルトというのが本当になんにでも使えて、正に魔法のような調味料だ。しかも一袋105円という良心的な値段で学生にはもってこいの一品だ。

 冷蔵庫に貼ったキッチンタイマーを6分に合わせ、ベルトルトの実家からの仕送りの塩麹と鶏モモ肉を取り出す。先にグリルにアルミホイルを敷いて準備をしてから鶏肉に適当に包丁をさし込み、塩麹を揉んでいる時に玄関の扉が開いた。

「ただいまー……わ、いい匂いする」

「おかえり。悪い、実験が長引いて夕飯いつもより遅れるわ」

 帰ってきたベルトルトは自分のリュックをおろして、床に捨てられた俺の鞄を定位置に移動させながら首を傾げた。

「嗚呼、全然構わないよ。なに作ってるの?」

「ミネストローネとか。お前好きだろ」

「ほんと!? エレンの料理はなんでも美味しいけど、僕それが特別好きだよ」

「そりゃ作り甲斐があるな」

 ベルトルトのくさい発言に肩を竦めながら塩麹を引き続き揉み込む。別に俺も元々料理が得意だったわけじゃないが、二年も料理をしていれば人並み程度の腕はつくというものだ。母さんが料理上手なこともあって舌は馬鹿じゃなかったし手順もなんとなくで覚えていたし。
 ベルトルトとの同棲生活をなんとなく思い出しながら作業し、揉み終わって手を洗っているとぴぴぴぴ、と高い電子音が聞こえ、セットした6分が終わったことに気付いた。鍋にたっぷり水を張って火にかけながら振り向くと、料理する俺をやけに楽しそうに見ていたベルトルトと目が合い、その毒気を抜かれる表情に俺もゆるく笑った。

「悪い、タイマー止めてくれるか?」

「分かった」

「それから20分にセットしてくれ」

「うん」

 にこにこしながら時間を調節しているベルトルトを横目に、カットトマトの缶を開けて鍋に投じる。あとは本当に、弱火で20分煮込むだけだ。手間より時間をかけることでミネストローネは美味しくなる。それは今から焼こうとしている鶏肉も同じだが、平日は如何せん漬け込んでおいたりする時間がない。
 前日にやればいいという意見もあるだろうが、その前日でさえ帰って来てからやるとなると億劫なのだ。まあ、ひと手間加えることによって更に美味しくなるということはあっても、ひと手間を惜しんでまずくなることはないので常々そこそこの料理を口に運んでいるわけだ。料理にあまり頓着しないベルトルトに甘えているとも言う。

 グリルに鶏肉を投下した後は冷蔵庫からキャベツとブロッコリー、キュウリに人参を取り出し、その時しっかりタイマーの経過時間を確認する。引き出しからツナ缶も取り出し、キャベツ一玉を半分にし、それをまた適当な大きさに切っていく。それを先程火にかけてぐらぐらし始めた鍋に塩を入れ、一緒に茹でる。その間にボウルに汁を切ったツナ缶、1:1の割合で(今回はミネストローネが濃いのでちょっと少なめに大さじ2.5ずつ)マヨネーズとケチャップ、砂糖とコンソメスープの素も1:1の割合で(小さじ1ずつ)入れ混ぜ合わせる。茹であがったキャベツの水気をしぼって切り、よく混ぜたら味を見て塩コショウで整える。

「ベルトルトー、タイマーあと何分?」

 レポートの参考文献に使うらしい本を読んでいたベルトルトは、んー? と口にしながら顔を上げた。

「えっーと、あと5分だよ」

「さんきゅ」

 もう一品料理らしい料理をつくろうと思ったのだが、5分という時間を見たベルトルトがいそいそと食器や箸を揃え始めたので、これ以上待たせるのはどうにも可哀想でブロッコリーを茹でるだけにするかと頬を掻いた。
 鍋に水を張ろうとおもったがお湯が沸くまで待つ時間がなんだか面倒くさくなって電子ポットに手を掛け、保温されていたお湯を鍋に注いだ。ブロッコリーの枝分かれしている茎を手でさき、太い茎の部分を切る。それから枝分かれしていない茎を枝分かれしている茎と同じぐらいの大きさにさき、茎の硬い部分を削いで食べやすい大きさに切る。そうして小さくなってから水で洗い、これをキャベツと同じように塩茹でするだけだ。
 それからキュウリと人参を水洗いしてスティック状に切ったものをグラスに挿し、今日の朝卵サンドに使った、茹で卵を適当に小さく切りマヨネーズと塩コショウで整えたものと一緒にテーブルに運ぶ。明太子があるしマヨネーズとレモンを混ぜてソースを作ろうと思ったが、キャベツのオーロラソースのサラダがあるのでやめることにした。
 あとは両面ともこんがり焼いた鶏肉をグリル取り出し、ざくっざくっと切っていく。ふっくらした身にカリカリに焼かれた皮は包丁を入れるたびにいい音を奏でる。熱い鶏肉は切るたびに肉汁がしみだし、それを皿に並べてアルミホイルに溜まった旨味の広がったソースを上からかけた一品は簡単ながらも最高に腹が減ってくる。
 それもテーブルに運ぼうとすると本日二度目の高い電子音が鳴って、鍋にかけていたミネストローネをひと掬いして味見用の皿によそった。タイマーを止めてくれたベルトルトに感謝を述べてから皿を差し出す。

「味見して」

「いいの? ……うん、おいしいよ!」

「よかった」

 胸を撫で下ろして皿を受け取ろうとすると、ベルトルトは皿を返さずににこにこ笑った。

「エレンは味見した?」

「いや、」

「じゃあ僕がよそうよ。エレンも食べてごらん」

 ごらんって、俺が作ったんだけど、と思いながら立ち上がってそろそろとお玉で小さい皿によそう姿が予想以上に可愛らしくて不覚にも笑ってしまった。

「な、なに!?」

「ううん、なんでも。ああ、ありがと」

 笑いながら皿を受け取り、小さなそれを飲み干す。ベルトルトが困惑しながら辺りをきょろきょろする様子は迷子の犬みたいで更に可笑しかった。

「うまいよ、うん。……くくっ、ふ、ははは」

「……なんなの」

 不機嫌そうに唇を片方だけ上にぎゅっとあげ、眉を顰める190を超える巨体は普通可愛いと思われることはないんだろうけど、惚れた欲目というか死ぬほど可愛くて笑いがこみあげ、彼に抱きついて尚笑いに震えた。

「えーれーんー」

「いや、いやいや、悪い。このままのお前でいいよ。このままのお前が好きだから」

 抱きついている俺の肩を掴んで少しだけ自身の体から離し、俺の顔をじっと見つめたと思うと「ほんとになんなの。僕は僕だよ」と呟きながら前屈みになって額と額をコツンとくっつけた。目を瞑る彼の睫毛は常人より少し長く、手を伸ばすとほっそりとした顎が指先でするりと滑った。その刺激にうっすら目を開けたベルトルトに微笑み、回した手で背中をぽんぽんと叩いて彼から離れる。

「料理、折角つくったのに冷めちまう」

「うん、そうだね」

「スープ盛るからベルトルトは炊飯器のご飯混ぜて、茶碗によそってくれるか?」

「ああ」

 少し不服そうにして離れたベルトルトは炊飯器の方に向かい、俺は食器を片手にミネストローネを、ベルトルトの方だけ多めによそった。ベルトルトが米をよそってくれてテーブルには雑穀米、ミネストローネ、ツナとキャベツのオーロラサラダ、塩麹のグリルチキン、キュウリと人参のディップ、ブロッコリーが並んだ。
 二人で四人掛けのテーブルに斜め同士にに座って、両手を合わせていつものように呟いた。

「いただきます」

 初めに雑穀米に手をつけ、口許に運ぶ。ぷちぷちした食感ともちもちした食感が噛むたび味わえ、噛めば噛むほど甘みが広がっていく。次に鶏肉に箸を伸ばす。噛んだ瞬間に肉汁がじゅわっと広がった。鶏肉なのにしっとり柔らかい。皮はパリパリで、奥歯で噛みしめるたび上の歯でカリッと、下の歯でしっとりとという感触が楽しめた。それに塩麹独特の優しい味わいがする。その次にオーロラサラダに手をつける。ツナのしっかりとした歯ごたえとキャベツの程良い柔らかさに、こってりとしたオーロラソースがよく合う。こってりしているのにくどさはなく、バランスを考えて食べようと思うのに思わず次々と手が伸びてしまう。キュウリと人参のディップは卵のマヨネーズあえの味が濃いのに、一口分だけ乗せるとその後はさっぱりして次々口に運んでしまう。ブロッコリーも同じだ。
 最後に箸をスプーンに持ち代えてミネストローネに口をつける。――心底、ほっとする。嗚呼、うまい。うまいってこういうことだ。スープに溶けだした野菜の味がほっこりと体を温める。柔らかくなったじゃがいもと玉ねぎが味はしっかりしているのに優しくて、思わず笑みが浮かんでしまった。柔らかい野菜に隠れる人参が少し硬めで、噛む楽しさを思い出す。具沢山の野菜にひょっこり現れるソーセージが舌の上で確かに存在感のあるうまみを発揮して、酸味控えめなスープを完全に纏めあげた。
 気付いたときには俺もベルトルトも黙々と飯を食っていた。



「ごちそうさま。すごくおいしかった」

「お粗末様でした」

 後ろに手をついて前身を斜めに倒し、はあ、と一息ついた。同じくベルトルトも満足そうに長く息をついた。

「明日の夕食、ミネストローネを煮詰めてハンバーグのソースにするけどいいか?」

「うん、なんでも。エレンの料理はおいしいから、なんでもいいよ」

「……お前の料理が前衛的すぎるだけだよ」

 褒められるのにはどうも慣れていない。恥ずかしまぎれに皮肉を言うとベルトルトは苦笑した。

「エレンがこれからも毎日、ごはんをつくってくれればこれ以上の幸せはないんだけどなあ」

「なんだよそれ、プロポーズじゃん」

 からりと笑うと、ベルトルトはなんてことない様子で頷いた。

「うん、プロポーズ」

「は、」

 きょとん、と。俺の周りだけ時が止まった。ベルトルトは変わらない表情で俺を見ている。上手く言葉の処理が出来なくて、汗やら何やらで凄いことになっているだろう俺の顔を見てベルトルトは漸く慌てるように口を開いた。

「あっ、でもまだ指輪も用意してないし! ご両親に挨拶とかも今すぐってわけにはいかないけど、あの、その、そういう気持ちでいるっていうか!そう!確約をね!?」

 手の平を体の前でぶんぶん振るベルトルトの様子は可笑しくて、震える体で縋るように抱きついた。あわあわ言っていたベルトルトは俺のその態度にぴたりと黙り、「エレン?」と俺の名前を呼んだ。

「……エレン、泣いてるの?」

「…ばか、ちげぇよ……おまえがおもしろ、くてさ。そのま、んまの……おまえが、すきでさ」

「……うん、さっきも言ったじゃないか。僕は僕だよ」

 そっと背に腕を回され、背中をぽんぽんと叩かれた。顎に指を回され、するりと顔を掬いあげられる。長い睫毛が揺れて、口許が笑んでいる。それが、俺の口許と触れ合って、頬の水滴を辿り、瞼の裏にもひとつキスを落とされた。
 ――こっそりと彼が囁く。

「しあわせの味がする」

「ああ、ほんとうにとても。とても」

 しあわせの味がする。とても、しあわせなことに。



14.1.19

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