あの人は言った。
ここは自分の庭だと。
その時は何気なく聞いていた言葉が今となっては意味の為す言葉になっている。
突然の俄雨で地面はまだ少し湿っていて履きなれている靴なのに足元を取られる。
早く、ここから出ないと。
見つかってしまう、あの人に。
◆◇◆
晴れ渡る空、そして私の気分も少しだけ上向き。
理由は…。
そっと触れるお腹。
そう、大事な人との新しい命。
そしてその人に早く伝えないと。
どんな顔をするだろう?
驚く?喜ぶ?泣く?
それとも…。
そっと心に影がかかるが、そんな事はないと信じて向かう。
いつもの様に彼の所に行く。そしてそっとドアを開ける。
そしてそのまま歩いていけばいるはず。
私の愛しき人。
それなのに私は動けない。
見た事のない靴がそこに、派手なドレスが乱暴に脱ぎ捨てられて。
そう、そのまま進めばわかるよ、その答えが。
それなのに、進んでしまった先を見たくない、自分。
思いのほかドアを閉めるときに音がしてしまったのか。
後ろから声がしたような気がした。
でも私はそのまま何も見なかったことにして走る。
そっとお腹を押さえながら。
そしてあの人の言葉を今、身をもって体感している。
黒いスーツを着た人達があちらこちらに。
見慣れた人達を見てすぐにわかった。
私を探しているということに。
絶対に見つからないように。
今のこの状態で私はあの人に会う訳にはいかない。
だって、会ってしまったら…。
私が私でいられなくなる。
そして、この命は私が必ず守る。
だからこそ、この街から出る方法を考えなければ。
すでに大きな通りには組の人達で包囲されている。
確か、どこかに外に通じている道があった筈。
追手から隠れるようにして道を進む。
進めば進むほど、この街から出られなくなっていくような迷路のような街を走る。
そして気づけば行き止まり。
ヒタヒタとした水音とカツンコツンと靴の音。
大丈夫、ここは少し暗いし、たぶんやり過ごせる。
小さくなって身を隠していればただやり過ごせるといい聞かせ息を潜める。
それなのに、音は段々と近くなってきて、それと共に鼓動が早まる。
お願い、早く消えて。
「椿、やっと見つけたで。」
その声、その姿、私をじっと見る瞳。
それは紛れもなく、さっきまで一番会いたいと思っていた人で今、一番会いたくない人。
「真島さん…。」
そっと距離を詰めて私の腕を掴む。
「嫌!」
私は掴まれた腕を振りほどき、睨む。
「俺から逃げられると思ってんのか、椿。」
私の行動に驚きつつも少し怒った口調の真島さん。
「ほら、行くで。」
そう言いながら再び先ほどよりも強い力で腕が掴まれて私は抵抗できず、ただ、どうしていいか分からない。でももう一緒にはいられない。
「お願い、離して!」
再び振り払おうとすると急に視界がぼんやりと。
薄れゆく意識の中で見えたのははっとするほど綺麗な真島さんの顔だった。
◆◇◆
再び目を覚ました時は見慣れた部屋。
そして数えることができないくらい過ごしたベッドにいる。
そして私を心配そうに見る真島さん。
「大丈夫か?」
先ほどとは違い、優しい声。
そしてあの後、急に倒れたから運んだと告げられる。
そっと分からないように触れるお腹。
大丈夫なのだろうか。ちゃんと息をしているのか。
早く、病院に行かないと。
立ち上がろうとすると制される。
「なんで黙っとってん。」
「…………。」
「さっききた医者が言っとった。できたんやろ。」
「真島さんには関係ない。」
「誰の子なんや。」
なんで、そんなの聞くの?
じんわりと込み上げてくる涙。
誰って目の前のあなたしか考えられないじゃん。
疑ってるの?
自分は他の女といた癖に。
「この子は私の子。1人で育てるって決めたから。」
茫然としている真島さんのスキをみて立ち上がる。真島さんは待ちやと声がするが、関係ない。もう終わったことだ。
「俺がヤクザやからあかんのか?」
その声にふと立ち止まる。
そんな事一度も考えたことはない。
ううん、最初からそんな風に見ていなかった。
だって普通の男の人として見ていた。
そう、普通の人以上に愛してくれていた。
それなのに裏切られた。
「……違う。」
そんな風に思われたくなったし、思ってほしくなかったからつい出た言葉。
立ち尽くす私に真島さんはそっとそれならええんやと言って優しく抱きしめる。裏切ったその最低な男なのに。
それでも私はこの人しかもう愛せない身体になっている。
「お腹の子は真島さんの子供です。」
そっと告げて真島さんはそうか、良かったと優しく言う。
許してしまう自分、そう1度だけならと思う自分。
もう一度ここからやり直してみようと私もそっと抱き返した。
「なんで、逃げたんや?」
「真島さん、女の人と部屋にいたから。」
「はぁ?」
そして惚ける真島さんに朝にみた光景を告げると真島さんは軽く笑い立ち上がる。
「これやったら、俺のや。」
「えっ…。」
昨日使ったゴロ美ちゃんセットだと告げられる。
私の勘違いだったのか。
そう思いながらも真島さんは妬いてくれたんかと嬉しそう。
一日の間に嬉しい気持ち、悲しい気持ち、暖かい気持ち、冷たい気持ちを体感して一気に疲れてそれとともにほっとする気持ち。
「楽しみやな。」
そういって触れられるお腹。
「そうですね。」
やっぱり私の大好きな人は私が一番思っていた最高の方法で迎えてくれた。
春になる頃にはもっと好きな顔が見られるのかな。
そう思うと私も自然と頬が綻ぶのを感じた。
4.湿った路地裏
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