初めてのチョコ

別に特に深い意味はなかった。たまたま煙草のついでに入口にあったチョコをひとつ手に取って鞄の中に。今日がバレンタインなのは知っていた。誰かにあげる予定はなかったが、そっと鞄に忍ばせていつものように馴染みの店の扉を叩く。

いらっしゃいといつものようにマスターは私の顔を見るなりいつものお酒を私が座ったタイミングで置いてくれる。ここは随分長く通っている店なのでこういう気遣いをしてくれることもありがたいし無理せず居られる空間なので居心地が良い。

一口飲んで中の氷がカランと音を立てる。今日は暇なようでマスターは私に世間話を。私はそれに相槌を打ったり私が最近の話をしたり。暫くすると、私の横に座る男。入ってくる時の声でそれが知っている男であるのはわかっていた。

「なんやおるんやったら連絡してくれてもええやないか。」

「来る予定はなかったんですけど、仕事が早く終わったから来たんです。」

「ほぉ…。」

男は酒が来ると一気に飲み干し煙草に火を。相変わらず元気な男だ。横目でそんなことを思いながら同じように紫煙を燻らせる。

この横顔が私は好きだ。他のどんな男よりも似合うと思っている。グラスを傾け紫煙を燻らせるその様が。今まで似たような姿を見てきたが、この男に勝てる人は今後も現れることはないだろうと思っている。勿論、本人には言わないけれど。

「最近はどないや?」

「最近はまぁボチボチですよ。」

「そうか。ボチボチか。」

真島さんとは特に深い話をする訳ではない。それは最初に出会ってからずっとそうだ。最初にこの奇抜な姿と素肌に散る墨を見て瞬時に深入りしてはいけないと思ったからだ。向こうはどう思っているかは分からないが、私に対しても当たり障りのない会話をしている。それがまた心地よい。

別に品行方正に生きている訳ではない。呼べばすぐに来る男も何人かいる。時に暇があればその男達と夜を楽しむことはある。羽目を外すが外し過ぎない。ルールに則って卒なく遊ぶ。それが大人だと思っている。

「今日はここで終わりか?」

「そうですよ。飲み過ぎても明日に響きますからね。」

「そうか。」

真島さんはまた紫煙を燻らせている。私はお店の壁掛け時計を見ながらそろそろ帰る頃合いなのかと思い始めていた。

「マスター、お会計を。」

「ワシもそろそろお暇させてもらおうかのぅ…。」

同じように立ち上がる真島さん。この後はタクシーを拾って家に帰ってちょっとのんびりしよう。そんな事を思いながら鞄から財布を取り出した時にチョコの存在を思い出した。

「タクシーで帰るんか?」

「はい。まぁ、拾えればいいですけど。」

少し歩けば見つかるだろうとそんな風に。ちょうど夜風に当たって酔いを醒ましてもいいと思っていたからだ。

「ほな、見つかるまで一緒にいたろか?」

「いいですよ。真島さんもお疲れでしょ?」

「気にすんなや。椿ともうちょっとおってもええやろ。」

そう話しながら交通量の多い道路へと歩みを進める。ふと鞄に視線を向けるとまだチョコが入っていることを思い出す。

渡してみようかな。

それはほんの気まぐれだった。差して深い意味はない。このまま自分で持って帰ってもいいけれど、どうせなら。そんな気持ちだった。

「真島さん!」

「何や?」

目の前にチョコを取り出して渡すと驚いていた。そんなに驚くことなのかと思っていたらすぐにいつものようにニィーっと笑みを浮かべている。

「椿がこないなことするのも珍しいのぅ…。」

「たまたま買っただけですよ。持って帰ってもあれなんで。」

「ほぉ…。」

ちょうどその時流しのタクシーが空車になっているのが見えた。すかさず手を挙げるとするにタクシーは目の前に止まる。

「じゃあ、これで。」

タクシーに乗り込もうとしようとしたが、腕がすっと伸びて後ろに引かれた。驚くのはそれだけではなかった。

「ホワイトデー楽しみにしときや。」

そう話して私の唇にキスをひとつ。すぐにほなまたなと言って真島さんの背中をぼんやりと見つめる。現実に戻ったのは運転手から乗るか乗らないのかと言われた時だった。すみませんと言ってすぐに乗り込んでタクシーは動き出す。

唇からは先ほどの余韻と真島さんが飲んでいたバーボンの香りがする。別に期待した訳ではなかった。けれど、どこかで期待していたのかもしれない。

やっぱり良い男だ。あの真島吾朗という男は。そんなことを思いながらシートに深く座り込んで余韻に浸る。

そういえば…。
私が人生で初めてあげたチョコレートだったということに今更ながらに気づく。
初めてにしてはなかなかのものだった。
そして思う。
次に会う時はどんな楽しみが待っているのだろうと思いながら。



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