夜漁り
あの日、私は色を失い、感情を捨てた。
そう、たった5文字の言葉で私は無になった。
私にはあなたしかいなかったのに…。
◆◇◆
「隣、いいですか?」
「どうぞ。」
さっきから舐めるような視線をひしひしと感じていた。おそらく声を掛けてくるだろうと思っていたら案の定そうだ。ほんと、男というものは単純な生き物だ。ちょっと派手な格好をして一人でグラスを傾けている女がいると誘いやすいと思っているのだろう。
そう、これくらい馬鹿な方がいい。
私はわかっていてそうしているのだから。さっき会ったばかりの男に笑顔を向けて乾杯を。さて、今日はどんな夜になるのだろうか。
夜は好きなようで嫌いだ。一人の夜は嫌いだ。誰かといる夜はいい。特に今日のように相手がいて何も考えられなくなるような夜は特に好きだ。何も考えずにただ本能の赴くまま眠りにつけば朝になるのだから。
「これは私からの奢りです。」
「ありがとうございます。」
お手洗いから戻るとグラスが新しいものに変わっていた。ピンク色の綺麗なカクテル。これは確か…。口をつける前に思い出そうと考えていると横にいる男はピンクレディですと話している。そう、それだ。頂きますと言ってから口をつける。卵白のふわっとした口当たり、爽やかな喉越し。
うん、美味しい。
何も疑うことはせず、グラスはすぐに空になった。空になる頃には身体に異変を感じていた。時すでに遅し。私の身体は重く、意識が遠くなっていくのを感じていた。あのカクテルに何か盛られていたのか。危険な状況にも関わらず脳内は至って冷静で別にそれでもいいかと楽観的に考えていた。
そう、私は痛みを感じなくなっていたからだ。
あの日から。
次に意識を戻した時はベッドの上だった。どうせ、誘うならこんな卑怯な手を使わずともついてきたのに。スマートなフリをしてやっている事は下衆だな。そんな事を思いながら寝っ転がりながら近くにバッグがないか手を伸ばして探す。意識がはっきりしてきて思ったことは衣服に乱れもないし、行為の後の感覚もない。
では、相手はどこに?
耳に意識を集中させると聞こえてくるシャワーの音。あぁ、そうか。先にシャワーを浴びているのか。まぁ、いい。それならば待っていればいい。見つかった鞄の中からスマホをタップして時間を潰していると声がした。
「椿、久しぶりだねぇ。」
「………。」
あまりの事に言葉を失った。だって、それもそうだろう。さっき、私の横にいた男とは違う男がいるのだから。いや、違う。正確にいうと私はこの男を知っている。そう、よく知っている。
だって、この男は…。
私の世界を無にした張本人なのだから。
◆◇◆
あの頃の自分はその幸せが永遠に続くものだと思っていた若輩者だった。それくらいあの頃の私は一途に恋をしていた。それくらい必死だったのだ。
「ごめん。ちょっと遅れた。」
「ううん。今、来たところだから。」
「じゃあ、行こっか?」
「うん。」
恋人と歩く街。いつも歩いているその街は手を繋いで歩くと鮮やかな色に変化した。何の変哲もない食べ物は特別な食事に。触れられるととてもドキドキして一緒にいると何も考えられなくなるくらい夢中になってただ好きという気持ちが溢れていた。
「天佑、好き。」
「俺も好きだよ。」
何回言っても言われてもその言葉は飽きることなくアップデートされていくと思っていた。その言葉は色褪せることなく永遠に続くと思っていた。
でも、あの日、全てが終わったのだ。
「別れよう。」
「えっ…。」
私の身体は石のように動かなくなった。いつも見ていた背中が遠くなっていくのをただ見つめていた。
どうして?なんで?
問いかけることはできなかった。一方的に私は恋を終わりにされて、無になった。そこで初めて知った。失った恋の深い痛みを。そして思った。もうこの痛みを永遠に感じない身体になりたいと。
だから、何も考えない生き方をすることにした。それが一番楽で一番生きやすいから。もうあんな想い2度としたくないから。
それから、一人の夜は嫌いになった。一人になると悪い事ばかり考えてしまう。考えないようにする為に取った術。誰かに抱かれていれば考えなくて済むから。それから私は夜漁りをするようになった。
それなのに…。
「なんで、天佑がいるの?」
「さぁ、なんでだろうねぇ。」
あの頃と寸分変わらないその様。大好きだった顔なのに、今は動揺してうまく見ることができない。変わらない飄々とした態度に怒りにも似た感情が芽生える。そう、この男はいつもそうだった。それも好きだった。あの頃の私は。
でも、今は違う。
「…帰る。」
さっとハンドバッグを手にして立ち上がる。バーにいた男はどうなったのかなんてもうどうでもいい。今は一刻も早くこの場所から出たかった。すると、パシッと腕を掴まれる音。反射的に顔を上げて睨む。あぁ、変わらないな、この男は。笑みを浮かべて私を見ている。
「お礼くらい言ってくれてもいいじゃん。」
「お礼?」
「だってさぁ、あのままだったら只では済んでなかったよ。」
「別に。そうなっても良いと思ってたから結果オーライ。」
「そう…。」
会話の必要がなくなったので、手を離してと伝えるが、変わらずその力は緩まない。一体何を考えているのか分からない。私は睨んで振りほどこうとするが、黙ったまま。それが私の怒りに火を点けた。
「私のことはもう放っといてよ!」
「放っとけるかよ。」
今度は私が黙る番だった。こんなにも威圧感のある天佑の態度を見たのは初めてだったからだ。付き合ってから別れるまでこんな風に声を荒げるようなことはなかった。私の前では少なくとも。だから、驚いていたのだ。
「驚かせちゃったねぇ。でも、椿のせいだよ。」
「なんで、私なの?」
「なんでだろうねぇ。椿の姿を見たら放っておけなかったんだよ。」
「何を今更…。」
「そう。ほんと今更だよね。」
天佑はふっと笑みを浮かべているが、目元はちょっと困ったような感じになっている。あぁ、調子が狂う。この男の悪い所だ。いつの間にか自分のペースに持っていって私に主導権を握らせようとしない。
「もう終わったことだから。」
「そうだねぇ。終わったことだよ。」
ようやく解放された腕。白い肌にはうっすらと赤い痕ができている。痛みはないが、その部分を見つめる。引き留めてまで天佑が言いたかったことがこんな事なのか。思わず溜息が零れる。そう、もう全て過去のことで終わったことなのだ。
「椿?」
そう、終わったことなのに。なぜか涙が零れて溢れて止まらなかった。あの日以来流してこなかった涙は止まることを知らなかった。嗚咽を漏らしながらただ泣いていると、そっと天佑は自分の元に引き寄せた。
狡いなぁ、この男は。
女の涙を止める術を知っているのだ。あぁ、懐かしい感覚だ。暖かくて落ち着く。随分と感じていなかった感情。あの日、置いてきた感情が一気に押し寄せてくる。どのくらいそうていたかはわからなかったが、暫くその場で私達は抱き合っていた。
「じゃあ、私、帰る。」
ひとしきり泣いて気持ちは随分軽くなった。泣くということがこんなにも心地よいなんて感覚は久しかった。もう大丈夫。今日の夜はただイレギュラーだっただけ。ここを出ればまた色の無い世界で生きていける。
「椿!」
「何?」
「帰ったらまた一人で泣くつもりでしょ?」
「天佑に私の何がわかるの?」
「わかるよ。だって、好きな子のことだもん。」
「………。」
あぁ、また私は言葉を失った。本当にこの男は狡い。全部過去のことはなかったことにして私の心のあの当時のキラキラとした時の自分に簡単に戻そうとする。それくらい今も魅力のある人だ。
「図星だった?」
「天佑の馬鹿!」
天佑はふふっと笑って私を見ている。実に悔しい。この男の手の平に転がされているのが。そして私はひとつ心に決めた。天佑の形の良い唇が動くのを確認して私は行動に移した。天佑の掛けていたサングラスをさっと取り払い、口づけをひとつ。次に天佑の口が開くことはなかった。次の一言は私が抑え込んだ。
「椿…。」
長い口づけが終わり、目を開けると驚いた顔をした天佑。そう、この顔が見たかったのだ。私はあの頃の私とは違う。
さぁ、帰ろう。
ある意味吹っ切れたような気がする。自分の中で恋を終わらせることができたのが良かったのかもしれない。これで過去の思い出も綺麗に見えるはずだ。
「椿、今更だけど、今でも好きだよ。」
「もう遅いよ。」
「遅くないよ。」
再び腕を掴まれて私の動きは止まる。ドアまではあと少しなのに今日はこのドアまでの距離が永遠のように思える。堂々巡りのようなこのやり取り。本当はわかっているんだ。もう自分の心の中は。
「私もずっと天佑のことが忘れられなかった。」
「やっぱりね。」
また傷つくかもしれない。またたくさん泣くかもしれない。また色が無い世界になるかもしれない。それでも、私は一生この男を超えるような人には出逢えないと知っている。
「良かった。」
天佑は私を再び抱きしめた。今度はもう泣くことはない。この温もりをそっと噛みしめて愛おしく感じる。本当に自分は馬鹿な女だと思う。
色の無い世界にいるのに疲れてしまったんだ。
再び私の世界に色が帯び始める。
「ほら、早くこっちおいでよ。」
「はぁ…。」
「呆れてるけど、椿もする気だったでしょ?」
「なんか色々ありすぎてそんな気持ちどっかにいってた。」
「そう?じゃあ、しないでそのままで寝る?」
「うっ…。」
変わらず私を試すようなこの男。まぁそれも良いでしょう。離れてからどれくらい私が成長したか見せつけてやろうじゃないか。天佑の身体をそっとベッドに倒してそのまま馬乗りに。天佑はふっと笑みを浮かべて大胆じゃんと嬉しそうにしている。
私達の第2幕は今始まったばかり。
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