今日失恋しました
嬉しい時や悲しい時。人は誰かに話を聞いてもらいたいものだ。私もそんな中の一人。今日の場合は嬉しい感じではなく悲しい感じ。そんな気持ちを抱えながら、歩きなれた道を歩いていく。
カラン。
少し重い扉を開けるとそこにはマスターがいて話を聞いてくれる。けれど、今日は違っていて、見知った人物が一人。グラスを傾けて、私の方を見て手を振っている。
「マスターはいないんですか?」
「なんかさぁ、今日は町内会の集まりがあるんだってさ。」
「そうですか…。」
じゃあ、帰ろうかなと奥まで入らず出ようとすると声が掛かる。
「一人で飲むのにも飽きたから一緒に飲まない?」
「えっ…。」
正直、私はこの趙さんのことが少しだけ苦手だ。飄々とした態度で掴めない感じが好きではないのだ。
「じゃあ、少しだけ…。」
気乗りがしていないという意味を込めて隣に腰かける。いつもだったら、マスターにオススメのものを作ってもらうのだが、今日はそれが無理だ。趙さんは私の前に慣れた手つきでカウンターからグラスをひとつ取って置いてくれる。そして、自分の傍にあった瓶を私に注ぐ。黒い瓶でおそらくウイスキーの類だと思われるが、この人から注がれると何やら怪しい酒の一種にしか見えない。
「飲まないの?」
「の、飲みます…。」
しばらくその琥珀色の液体を見つめていたが、怪しまれたようだ。誤魔化すように一気に飲み干すと灼けるような熱さが喉を伝っていくのがわかる。怪しい割には良い香りのするお酒だ。ふぅ…と飲み終えて一息。横からすぐにいい飲みっぷりだね、椿チャンと声が。
たぶん、気分が良ければもっと美味しく感じるのかな。このお酒も。
悲しい気分で飲むお酒は美味しくない。いつも私の隣にいた人は楽しくお酒を飲む人だった。でも、その姿を見ることはもうないだろう。そうなることは初めからわかっていた。あと少し、もう少しだけ。そんな気持ちでいつも傍にいる時はその時間を大切にしていた。
先輩のこと、好きだったんだ。本当に。
でも、その先輩は長らく付き合っていた人と結婚する。それも初めからわかっていた。無理だと思っていたから、想いは告げなかった。ただ傍にいてその時間を共有していたかった。でも、それも今日で終わり。先輩は来週から遠方に転勤になったから。ただ傍にいて楽しそうにしている姿も見ることができなくなった。
だから、悲しいのだ。ただ只管に。
「そういえば、今日は連れの人と一緒じゃないんだね。」
「あぁ…。先輩のことですか?」
「そうそう。」
「転勤になったから、もう来れないと思いますよ。」
「ふぅん…。」
この人のこういう所が苦手なんだ。何も知らない風な感じで知っているような感じが。わかりやすい私のことだから、きっとこの会話の中で全てを悟っているのだろうと。会話が終わり、急に店内がしんとなる。BGMしか聞こえない店内。時々、聞こえるのは趙さんがグラスの氷をくるくると回している音だけ。
そろそろ頃合いかな。
鞄の中から札を1枚取り出してカウンターの上に置く。趙さんは黙ったままのその様子を見ている。私は静かに立ち上がり、そろそろ行きますねと声を。
もう、ここにも来ることはないかな。ここは先輩ともよく来た場所だから。きっと、来たら思い出してしまうから。
「いいお酒、ご馳走になりました。」
趙さんは黙ったまま。何かを考えているようなそんな様子に見える。動きがあったのは、私がちょうど、扉に手を掛けた時だった。
「待ちなよ。」
思いの外、響いた声に反応して動きが止まる。そのまま私は動けない。趙さんが静かに私の元に近づいてくるのをぼんやりと眺めていた。驚くのはまだ早かった。趙さんは私の肩に手を置いてそっと耳元に口を寄せる。
「心変わりの相手は俺にしてみない?」
「えっ…。」
何を言っているんだ。その言葉の真意を読み取っていると、趙さんはふふっと笑みをひとつ。あぁ、揶揄われたのか。その意味を理解して、私は置かれた手をそっと払う。
「そうやって、私のこと馬鹿にして楽しいですか!」
「椿チャン…。」
言ってからわかった。趙さんは本心で言っていたんだということに。私の言葉に目尻を下げてこちらを見ているのがわかったからだ。でも、私にはその気はない。だって、私は今日、失恋したばかりなのだから。
でも、この人はやはり、一筋縄ではいかない人だったのだろう。
怯んだ私の腕を取って、抱き留められる。軽いパニックのような状態で私はその抱擁から逃れようと試みるが、強い力で逃れることはできない。なんて人だ。
「ずっとさ、俺は見てたの。椿チャンのこと。」
「趙さん…。」
「すぐには無理かもしれないけど、俺のこと考えてみない?」
「………。」
わからない。そんなのわからない。だって、まだ自分には整理が色々ついていない。急にそんな事を言われても困る。
どうすれば…。
そんな事を思っている内に、抱擁から解放される。でも、私はその場を動けなかった。何か言わないといけないけれど、言葉がうまくまとまらない。
「また来ます。近いうちに。」
「うん。待ってるよ、椿チャン。」
今、言える言葉がこれだけだった。趙さんのことはまだ全然わからない。けれど、少しだけわかったことがある。抱きしめられた温もりはとても心地よかったことに。この答えは次回、ここに来るときまでの課題としよう。次にこの店を訪れる時には、趙さんへの印象は大きく変わっているだろう。
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