あえて黒、ひとつ

いつもあの男は突然だ。
そう思いながら鳴っていた電話を取り、営業用の高い声が一気にトーンダウン。
やっぱり奴は突然だ。

「今日、今から行ってもいい?」

「何度もいってるけどここ予約制だから。」

「勿論、知ってるよ。」

分かっているのならば前もって予約してこいと言いたくなるが、この男は分かっていたとしても予約などしないのだろう。ちょっと待っててと電話を保留にして現在施術中の具合を確認して再び受話器を耳に。

「一時間後は?」

「了解。あとでね。よろしく。」

変わらず軽い口調で電話が切れてスタッフの女の子には今のお客さんの応対が終われば今日は上がってくれていいよと告げる。
私は溜息をつきながらこの後の準備。…といっても大したことはしないので基本的な準備をするのみ。前回が2ヶ月くらい前だったからそろそろか。スタッフの女の子がお先に失礼しますという声を聞いて奴がくるのを静かに待つ。
予定の時間まではまだ余裕はあった筈だけれど突然目の前の扉が開く音がして俺、せっかちだからさぁと言いながらごく自然に目の前の椅子に腰かけている。変わらず傍若無人、読めない男だ。

「で、今日もいつも通りでいいわけ?」

「そうだね。じゃあ、よろしく。」

そういって差し出された10本の綺麗な長い指が目の前に。私は溜息を尽きながら指輪とか腕についてるジャラジャラしたのを先に外してもらえると助かるんだけどと言って予め用意していたアクセサリートレイを趙に差し出す。ひとつひとつゆっくりとした所作で外されるのを横目で見ながら私はネイルの用意。

まずは塗っていたネイルを落す作業。やすりで削り、爪の周りにオイルを塗る。リムーバーを染み込ませたコットンを置いてアルミホイルで巻く。ここで一端一息つく。
そろそろかと思うところでホイルを外し、ウッドスティックで黒のネイルを剥がす。変わらず綺麗な自爪だなぁと思いながらも趙は黙ったまま淡々と私がしている作業を見ている。

「黒でいいの?」

「あぁ…。でもさぁ、今日は左の小指だけは塗らなくていいや。」

「えっ…?」

この男との会話は全てここで始まりここで終わる。多くを知っているだけではないが、この男の職業はマフィア。そしてその小指だけ塗らないというのには何かしら意味があるのだろう。その意味に関して考えると嫌な予感しか感じられない。

「ひとつだけ塗らなかったら変でしょ。」

こういう時にもっと可愛らしい言葉が出ればいいのにいつもと同じような喧嘩腰。可愛くない自分。そんな私の動揺に気づいているのか定かではないが、趙はいいから1本だけ塗らずに9本塗ってくれたらいいからと言っている。

「…でも…。」

「いいからいいから。」

急かされるように言われて私は爪を整えてベースを塗って硬化して黒を指に重ねていく。さっきまでは黙っていたのに塗り始めると趙は取り留めのない会話をしてくる。私はうん、そうだねと言っているが、会話が全然頭に入ってこない。

私の予想が正しければ、この男、死ぬつもりなんじゃないのか。

ふとそんな事を思った。

意に反して小指も塗ってしまえば…。そう思っていると椿と呼ばれて私の腕がとられる。さっきまで指を見ていた視界が急に趙の顔に変わる。距離が近い。いつものようなちょっと余裕のある笑みを浮かべた顔ではなく真面目な顔。

おそらくこれがボスとしての顔なんだろう。

「これはさ、一種の願掛けみたいなもんだからさ。」

「願掛け?」

「そ、無事で生きて帰ってこれますようにって。」

「趙…。」

突然ぽろぽろと涙が零れて視界がぐちゃぐちゃに。そんな様子に趙は泣くことないじゃん、まるで俺が死ぬみたいじゃんと変わらず軽い。本当に軽い男だ。私が動揺している間にライトの電源を入れて黒を定着させている。

「じゃあ、俺、行くわ。」

「待って!まだトップコートしてない!」

「じゃあ、続きは帰ってきてから頼むわ。」

そういって腕と指にアクセサリーをつけて立ち上がっている。追わないと…。何か言わないと。でも、言葉が出ない。
背中越しに手を上げて去って行くその姿をぼやける視界でただ見つめるだけ。
綺麗な黒がそこには映えていた。











平穏な日常。
予約の人数を確認して、毎日変わらずたくさんの人の指に色を塗り、綺麗に仕上げていく。出来上がった指を見て喜んで帰っていく人達。そう、以前はその日常に嬉しさを感じていた。

でも、何かが足りない。

いつ来てもいいように準備をしているのに一向にあの男は現れない。もう2か月以上も経っているのに。それでも私はここで待つしかない。あの男のまた来るという言葉を信じて。

「じゃあ、オーナーお先に失礼します。」

「気を付けてね。」

片付けをしながら今日も来なかったという事実だけ残る。どこをほっつき歩いているのかそれとももうこの世にいないのか。

カラン…。

目の前の扉が音を立てる。もうそれは反射的だったと思う。誰かも分かっていないのに私は勢いよくその胸に飛び込んだ。

「熱烈な歓迎じゃん、椿。」

「馬鹿!!」

私の流れる涙をそっと拭う趙の指を見る。もう全然手入れされてなくてそれでも綺麗な黒が9本。そして塗っていない1本には少しくすんだ赤色。何があったかは分からない。でもどうやら無事のようだ。

「今日はいつも通りでいいわけ?」

「そうだね。…でもその前に椿を食べてもいい?」

「…馬鹿!!」

言葉とは裏腹に私は趙に口づけをひとつ。
小指に久し振りの黒が戻るのはまだ少し先。

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