最近、夢見が悪い。目が覚めた時、異様に息が上がっていて、全身に冷や汗をかいている。それでも、どんな夢を見ていたのか覚えていない。それが余計に不快感を煽った。



「総司、どうした? 具合悪ぃのか」


新聞から目を離し、心配そうにこちらを見る叔父を見て、しまったと心の中で舌打ちをする。顔には出さないつもりだったのにいつの間にか出ていたらしい。これから出張でしばらくいなくなるこの人に余計な心労をかけるつもりはなかったのに、気を抜いていた自分に苛立った。ただでさえ菜々子のことで気を張り続けているこの人に俺の子供じみた不安を打ち明けるなんてできるはずがない。
「いや、昨夜遅くまでテレビ見てて。ちょっと寝不足なだけだよ」 そっと笑って、誤魔化す。普段、驚くほど鈍いくせに突っ込んでほしくない所だけは勘の鋭い叔父は、しばらく俺を探るような目で見た後、そうか、とだけ呟いたきりだった。……気まずい。(こんな時にあの子がいたら、この気まずさも少しはマシになっていただろうか、なんて今思っても仕方のないことを考える)

「俺がいない間、菜々子の見舞い、頼む」
「もちろん」

大きく頷いて、もう一度微笑む。難しい顔をしていた堂島さんの顔が、そこでようやく和らいだ。立ちあがって玄関に向かうあの人の背中を黙って見送る。「総司も、俺がいない間あまり外に出るなよ」
振り向かれずに言われた言葉が叔父にしては少し過保護に思えて、思わず吹き出してしまった。17歳の男子高校生に言うセリフにしては、大げさすぎる。ちらりと振り返った堂島さんがムッとした顔で頭をかいた。ぶっきらぼうにいってくると呟いて、戸を開く。立ち込める霧の中で次第にぼやけていく叔父の輪郭。刹那、暑くもないのに全身から汗が滲んでいた。汗を吸ったシャツが肌に張りついて気持ちが悪い。堂島さんがいなくなったのを見計らって、急いで戸に鍵をかけた。早鐘を打つ心臓は何かを俺に伝えようとしている。でもそれが何か分からない。しんとした家の中に自分の呼吸する音だけが響いている。少し前までは、あんなに温かかった家が今は俺を冷ややかに拒絶しているような気がしてならなかった。堂島さんもあの子もいなくなった家は、ぞっとするほど静かだ。(また、嫌な夢見そうだな……)
刻一刻と迫る夜の足音に陰鬱な気分になりながら、ズキズキする頭を押さえる。早くみんな帰ってこい。ひたすらそれだけを願った。




不思議なことに、なぜかその日からの夢見は悪くなかった。相変わらず何を見たのかも覚えていなかったが、目覚めた時の異様な不快感はそこにはなく、シャツが透けるほどかいていた汗も全くかかなくなった。学校から帰ると、すでに玄関の鍵は開いていて、数日ぶりに見た叔父の靴にほっと安堵の息を吐いた。ただいま、と言う前に堂島さんの声に出迎えられる。
「どこに行ってた」

開口一番にそう言われて、思わず口ごもる。見れば分かるだろ、と鞄をちらつかせても堂島さんはなぜか眉を顰めたまま俺を見ていた。なんだろう、仕事で何かあったのだろうか。だとしたらあまり余計なことは言わない方がいいのかもしれない。何を言おうか考えあぐねていると、やがてはっとした顔で堂島さんが口元を押さえた。決まりが悪そうにすまん、と謝られる。
「俺が家出したとでも思った?」
冗談で言ったつもりだった。そんなことあるわけないだろ、と笑う準備もできていた。けれど、叔父はそこで一瞬顔色を変えて、俺を見つめた。何かを言いたげに唇を震わせる叔父をぼんやりと眺める。「……すまん、総司…………すまん」
だんだんと小さくなっていく語尾が普段のこの人らしくなくて、空気も読まずに笑ってしまった。そんな俺をほっとしたように見る堂島さんの肩を軽く叩く。(――、)

触れた瞬間、腰から何かが駆けた。寒気にも似た感覚は、何かによく似ていた。早鐘を打ち出す心臓。うるさい。

「総司…?」

気遣わしげに俺を見るこの人を心配させたくなくて、頭を振る。また寝不足か、と聞かれて、とりあえずそういう事にしておいた。呆れたような溜息の中に、この人の不器用な優しさを垣間見る。ふわりと髪を撫でて微笑んでくる叔父は、俺の不安をすべて取り払ってくれそうな、父親の顔をしていた。大丈夫、きっと元通りになる。あの子が帰ってきたら、また三人で散歩に行こう。仲のいい親子だと言われて照れる叔父さんをからかってやろう。(目を閉じて口元を綻ばせる。ぷつりと髪の毛がちぎれる音をきいた)




























酷く蒸し暑い夜だった。何度も寝返りを打って、息苦しさを誤魔化す。窓から漏れる外灯の光が今日はやけに眩しく感じた。無理やり目を瞑って、寝ることに集中する。静かだ。虫の鳴き声も車の音も聴こえない。まるで世界が死んでいるような、そんな静けさだった。はぁ、と息を吐く。熱のこもった自分の息がなんだかやけに気持ち悪かった。不意に、

……、……。

ギシギシと床が鳴る音が遠くから聴こえた。それはだんだんこちらに近づいている。ふと時計を見て、今が夜中の3時を回っていることに気がついた。こんな時間に誰だ。いや、誰といっても相手は一人しかいないんだけど。
音は俺の部屋の扉の前で止まった。けれど、そこから気配が動く様子はない。確かに扉の前に立っているのを感じるのに、扉が開かれることはなかった。微動だにしない気配に、なぜか皮膚が粟立つ。喉が渇いて仕方がなかった。何時間経ったんだろう。時計を見ると、まだ10分も経っていなかった。ゆっくりと扉が開く音に、呼吸が止まる。握りしめたシーツは手汗のせいか湿っていた。

「……」

ガチャリ、と扉が閉まる音と同時に、何かがゆっくりと近づいてくるのが分かった。こんな時間にどうしたの、そう言って振り返ろうとした身体は、ぴくりとも動かなかった。金縛りにあったように筋ひとつ動かすことができない。その間にも何かは着実に距離を縮めていて、後方で誰かが自分を見下ろしているのを背中越しに感じた。なんで俺は振り返れないんだろう。身体が動かない。
(……え………?)


眼前に何かが伸びてきた。無骨な手首に巻かれた腕時計には見覚えがあった。とっさに目を瞑る。鼓膜が破れそうなくらい心音がうるさく鳴っている。衣ずれの音、その中にカチャカチャと金属音が混じる。気配はどこか苛立っている様子で、小さな舌打ちを聞いた気がした。シュルリと何かが引き抜かれる。ジッパーを下げる音。ドクンドクン、心臓がうるさい。

「総司」

突然名前を呼ばれて、思わず声を上げかけた。ギリギリで呑み込んだ声を即座に寝息に擬態させる。落ち着け、落ち着け落ち着け、なにもおかしなことなんてない、だって相手は(叔父さん、だろ)

「寝てるのか」

やけにほっとしたような声だった。息だけで笑った気配。視界を遮断した俺に、今あの人がどんな顔をしているのかまるで見当がつかない。不意に前髪をめくられた。動揺を悟られないよう、あくまで眠っているふりをする。額に触れてきたあの人の手は、いつも俺を子ども扱いしている時のそれとよく似ていたが違っていた。ゆるゆると額を撫でる手つきは、少しぎこちなくて、それがこの人の不器用さを表していて、俺はそんな不器用なところが好きで。だから。

「……相変わらず細せぇな。ちゃんと飯食ってたか?」

頬から輪郭をなぞる手つきに、いつもの不器用さは見当たらなかった。慣れた手つきで唇をなぞられ、そのまま顎をくすぐられる。何が起こってるんだ。分からない。頭が働かない。
普段以上に饒舌に語る堂島さんの手つきは、次第に首筋から胸元へと滑っていった。シャツの隙間からゆっくりと忍び込んでくる指に背筋が凍りつく。冗談だろ、目を開けてそれを確かめたかったのに開けるのが怖かった。吐き出した寝息が不自然にならないようにするだけで精いっぱいだった。「どんな夢見てるんだ、総司」

ぞっとするほど甘い囁きだった。ぞっとしたのは、それがただの血の繋がった家族に向ける響きにしてはやけに生々しい音をしていたからだ。耳朶をやんわりと掴まれ、熱く濡れたものが押し当てられる。カンカンと遮断機のような警鐘が脳内で響いた。今ここで俺が目を開けて、彼を突き飛ばしたらどうなるんだろう。やめろ、と声を上げてこの人の腕から逃げだしたら。


(……どう、なるんだ……?)


分からない。想像できなかった。いや、もしかしたらただしたくなかっただけかもしれない。この人を拒絶した後に何が待っているかなんて。そんなの。


(…っ……!)


考え事に集中していたせいか、下腹部に伸びてきた指に気づくのに遅れた。スウェットの中へと入りこんだ指は、まるで俺が起きないことを確信しているような大胆な手つきで弄ってくる。血の気が引いて、全身の体温が下がっていく――はずが、俺の身体はいっこうに冷める気配がなかった。どんどん熱を持ち出す身体を気づかれたくなくて、無意識に身をよじる。一瞬、叔父さんが息を呑んだのが分かった。しばらく刺すような視線に晒される。バレたら終わりだ。それはむしろ叔父さんのほうなのに、なぜか俺までそんなことを思った。バレたらだめだ。だめだ。

「……感じたのか」

くくっ、と喉の奥で笑う声を聴いた。堂島さんの声によく似た、知らない誰かの声だった。これは悪い夢だ。そうに決まってる。早く目を醒まさなきゃいけない。早く起きないと。これ以上、俺の中のこの人をめちゃめちゃにされる前に、早く。




























はっと飛び起きた瞬間、全身を包む不快な感覚に眉を顰めた。ズキズキと痛むこめかみを押さえて立ち上がる。また酷い夢を見た気がする。陰鬱な気分で階段を下りると、ちょうど仕事に出かける堂島さんと鉢合わせになった。わけもなくざわつく心音に戸惑っている俺を、堂島さんが困ったように見下ろす。「また遅くまでテレビか?」
顔色が悪い、と頬を撫でる手つきは、優しかった。少し緊張しているような、ぎこちない手つき。
「ごめん」
「ったく……今夜は早く寝ろ。お前まで倒れられたらかなわん」

呆れたように苦笑され、そのままくしゃくしゃと頭を撫でられる。なぜか泣きそうになった。なんでかは分からなかったが、不意に込み上げてくるものがあって、それを必死に堪えた。


その日の夜も、酷い夢を見た。喉が渇いて仕方がなくて、視界に入ったものに真っ先に飛びついた。咥内に広がる苦味に咽る。吐き出したくてたまらなかったのに、それは許されなかった。目が覚めて、即行で洗面所へと走る俺を堂島さんが心配そうに見ている。「総司、お前本当に大丈夫か?」

隈だらけの顔で大丈夫だと言っても、きっと説得力なんてない。だから俺は何も言わずに首だけを横に振った。その動きだけで胃からせり上がってくる不快感に呑まれる。洗面台に胃液をぶちまける俺の姿は、傍から見たらさぞ情けなく映ってるんだろうと思った。背中に気配を感じる。いつもの、あの人の、「総司」

背後からやんわりと抱きしめられて、前髪をめくられる。鏡に映る自分の顔は、まるで生気がなかった。チクチクと頬に堂島さんの髭が当たる。近いよ、笑って距離を取ろうとした俺の身体は、堂島さんの太い腕の中でぴくりともしなかった。首筋に息がかかる。深呼吸をするように深く息を吸って吐いた叔父さんの腕により力が込められる。かちかちと、なぜか寒くもないのに奥歯が鳴った。鏡に映った光景を他人事のように見る。耳裏に押し当てられた鼻、首筋に寄せられた口元。いつも難しい顔をして、眉間に皺を寄せた不器用なあの人とはまるで似てない恍惚とした表情。



「眠れねぇなら、今夜は俺の部屋で寝ろ」



菜々子にもそうやって添い寝してやったもんだ、と笑うところはどこにでもいる普通の父親だった。一気に視界がぼやけて霞む。また込み上げてきたものを堪えきれなくて、俺は再び洗面台に突っ伏した。背中をさする叔父の手つきは優しい。ぎこちなくて、ぶっきらぼうで。ふと視界の端にあの人の腕時計が映った。また今夜も夢を見る。そして、俺はきっと今日その夢にとどめを刺される。




(2011.8.18/あなたはそれを愛という/Izabella
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