「お母さんのお見舞い一緒に来てくんねぇか」

 それは何の前触れもなく、唐突なお願いだった。

 ランチラッシュで一緒にお昼を食べていた私達。口内に運ばれる寸前だったスプーンを止め、手元のプリンまで降ろす。食べ損ねた一口がつるんとプラスチックのカップに戻っていった。

「お見舞いって、轟君と二人で?」
「ああ。お母さんに名字の話したら会いたいって」
「それは嬉しいけど…私なんかが一緒に行っていいの?せっかくお母さんとお話できる機会なのに」

 ただでさえ補講と全寮制の導入で外出が難しいのに、貴重な親子水入らずの時間に他人の私がいていいものだろうか。そんな私の不安が伝わったのか、轟君は「お母さんがそう言ってるんだからお前が来ないと意味ないだろ」ときっぱり言い切る。
 いや、けど…ううん。友人の親御さんに挨拶するというシチュエーションが今までなかっただけに、余計に気構えてしまう。それが轟君のお母様相手なら尚更だろう。

「外出許可はもらえたの?」
「これからもっと行けなくなるだろうからって相澤先生に頼み込んだら渋々了承してくれた。門限付きって条件で」
「随分妥協してくれたね」

 全寮制となった経緯もあるから生徒の外出はなるべく控えるように言われているが、理由が理由なだけに融通が効くらしい。
 けど、流石に私まで一緒に行くのは無理なのでは…と思っていたら、どうやら轟君は私の分の外出許可証ももぎ取ってきたのだとか。油断も隙もない。

「同行者ってことで特別に許すって言ってた」
「じゃあつまり後は私の同意だけと」
「ああ。ダメか?」

 しゅんと眉尻を下げる轟君。まだ何も言っていないのに、奥の手を出して来るのは大分卑怯だ。恐らく彼は無意識だろうが、私はその縋るような表情に滅法弱い。
 とはいえ、轟君と轟母のお願いとあれば私も断るつもりはなかった。ただかなり緊張するってだけで。

「分かったよ。一緒に行こう」
「!そうか。ありがとな」

 私の返事に轟君は仄かに微笑みを浮かべる。些細なことでもお母さんのお願いを叶えられることが嬉しいのだろう。それだけ大切に想っているのが伝わってきて、私まで温かい気持ちになった。

 こうして突如決まった週末の予定。

 どんな話をしようとか、ちょっとはこ綺麗にしとかないとなとか、緊張しながら身支度をする。今日は学校も補講もないので、午後から病院に向かうことになった。

「お待たせ」

 準備を終えて待ち合わせ場所に行けば、私服姿の轟君がポケットに手を入れて立っていた。私の声に振り返ると、私の格好を見て「そういうの珍しいな」と目をぱちくりさせている。
 今日の私はいつものジーンズにシャツというラフな服装ではなく、スカートとブラウスで上品目に仕上げている。一応轟母からの視線を気にしての格好だが、まさか轟君に反応されるとは思っていなかった。
 女子のファッションなんてまるで興味なさそうなのに、ちゃっかり見てるなら普段から気にしとけばよかったな…。

 内心後悔しながらも何だかんだプライベートに出掛けるのは初めてなのもあって、少し浮き立つ気分で駅へと向かう。電車を乗り継ぎ、お花屋さんでお花を選んで病院に到着した私達。

「そんなに緊張しなくても平気だ」
「そ、そんなしてるように見えるかな」
「まぁ、割と…」

 受付を済ませて戻ってきた轟君が、椅子に座ってガチガチに硬くなっている私に向かって淡々とそう言う。――― 出発前までのドキドキも、病院に到着してしまえば全く別のものに変わっていた。
 するなと言っても緊張してしまうものは仕方ない。大丈夫かな私どこも変じゃないよね。「え、この子が…?」なんて思われた暁には暫く立ち直れないかもしれない。
 そんな私の心情を知ってか知らずか、轟君は私の手を掴むとずんずんと廊下の奥へと進んで行く。そしてある一室の前で止まると、パッと手を離して控え目に扉をノックした。「どうぞ」中からの返事を確認し、ゆっくりと開く。

「お母さん」
「あら、いらっしゃい焦凍。それと…その子は、」

 清潔感漂う部屋のベッドに座っていた女性が、窓の外に投げていた視線を此方に向ける。彼女は轟君を見て穏やかな笑みを浮かべると、次に私を捉えて瞠目した。

「クラスメイトの名字だ。前に手紙で話しただろ。今日一緒に来てもらった」
「はじめまして!名字名前です。お会いできて嬉しいです」
「まぁ…あなたが…」

 轟君のお母さんは目をぱちくりさせている。その仕草や透き通るような美しい白髪は轟君にとてもそっくりで、親子なんだなぁと実感させられる。彼の端正な顔立ちは母親譲りらしい。

「焦凍のお話では凄くお転婆さんのイメージがあったのだけど、まさか名字さんがこんなに可愛らしい子だったなんて」
「(一体何の話したんだ!?)」

 余程想像と違っていたのか、驚いた様子の轟母に私は気恥ずかしくなって俯く。彼女はそんな私に小さく笑うと、「二人共どうぞ掛けて」と近くの椅子に座るよう促してくれた。「あ」と轟君が言葉を漏らす。

「俺、先に見舞いの花生けてくる」

 私が先に座ると、轟君は思い出したように花瓶を手に取って部屋のシンクへと向かってしまった。
 蛇口から静かに水の流れる音が響く。自然と二人でお話する体勢になり、轟君のお母さんは柔和な笑みを湛えて私を見つめるとぺこりとお辞儀をする。

「焦凍がいつもお世話になってます」
「いえそんな!こちらこそ焦凍君にはいつも仲良くしてもらってて…」
「ふふ。焦凍ね、いつもお手紙であなたのお話を楽しそうにするの。とても仲が良いのね」
「え、」

 思わずシンクに立つ轟君を見ると、此方の様子を横目で窺っていたのかパッと顔を背けられてしまった。「照れなくてもいいのに」轟君のお母さんがくすくす笑う。
 轟君は常に冷静で何事にも動じない質かと思っていたが、母親の前だと頭が上がらないのか年相応の少年に見えるのが何とも微笑ましい。

「焦凍は学校ではどう?良かったら名字さんからも色々聞きたいわ」
「はい、勿論です!」

 彼女が病院にいる経緯は、体育祭での緑谷君との会話で知った。それからは轟君自身から打ち明けてくれた話もあったが、少なくとも二人が親子らしいやり取りをするようになったのはそう昔ではないのが事実だった。
 長い間息子と離れていた分、きっと本人からだけではなく彼と親しくしている人の視点も気になるのだろう。空いた隙間を埋めるように、絆を取り戻そうとする母の姿に応えたくて、私は前のめりに返事すると過去を思い返すように目を伏せる。

「焦凍君とは…体育祭をきっかけに話し始めるようになりました」

 最初は嫌な奴ーなんて思ってたっけ。一向に此方を注意する気配がない上に緑谷君にしか興味がなくて、爆豪君と揃って躍起になったのを覚えている。

「私はあまり同年代の子と関わる機会がなくてつい素気なくしてしまうことも多かったんですが、焦凍君は気にせず私とも接してくれるようになって…。無理矢理一緒に帰ろうとするし」
「そんな強引な感じだったか?」
「そうだよ!体育祭明けの二日間くらい送るって言って聞かなかったじゃん」
「お前結構な大怪我だったからな」

 いつの間にかお花の入れ替えを終えた轟君が丸椅子を引いて隣に座った。
 轟君のお母さんは、私達のやり取りに目を細めて耳を傾けている。

「それからは偶然だったけど一緒にインターン行ったりとかして…あ!少し前に合宿もあったんですけど、焦凍君とは行きのバスも隣同士でした!あの時も私の好きなお菓子持って来てくれたよね。ずっと寝てたけど」
「悪い。チョコ食ったら眠くなった」
「それと、皆でカレー作ったのも楽しかったよね」
「そうだな…。初めて料理したけど、結構難しいもんなんだな」
「轟君が切ったにんじん大きさバラバラすぎて面白かった」
「まぁ。ふふふ」

 一度振り返るとあれもこれもと話題が出てきていよいよ私の口も止まらなくなる。それでも轟君のお母さんは優しく微笑んだまま、どこか偲ぶように相槌を打って聞いてくれた。
 思い返してみると轟君との出会いは複雑だったけど、いつの間にかそんなことも気にならなくなってしまうくらい彼との思い出が重なって色を塗り替えていた。沢山助けて助けられて、互いに必要な存在になってしまっていた。

「えっと、それから…」

 二人にもこれから沢山思い出を作っていってほしい。
 長い間傍にいられなかった分、どうにか学校での様子を伝えたくて過去の記憶を虱潰しに引っ張り出してくるけど、話が上手く纏まらない上に気付けば私ばかりが喋ってしまっていて膨らんだ風船がしゅるしゅると萎んでいくような気持ちになる。

「す、すみません一方的にベラベラ喋っちゃって…」
「そんなことないわ。学校が楽しそうで凄く安心した」

 意気消沈してしまった私に、轟君のお母さんは顔を覗き込むようにして告げる。白くて冷たい手が上からそっと私の手を握るけど、その声色はとても温かくて、包み込むような安心感を与えてくれた。
 
―――― 焦凍とお友達になってくれてありがとう」

 窓から射し込む陽光のせいか、グレーの瞳が水面のように揺れていた。
 触れたら溶けて消えてしまいそうな、儚くも優しい微笑みを向けられて、私は二の句が継げなくなる。

「(あ、)」

 一番伝えたいことが上手く言葉にできなくて自分の拙さに落ち込んだけど、彼女の言葉で漸く腑に落ちた。
 日々の楽しい思い出もそうだけど、私は…それをくれた存在にずっと感謝していて、ありがとうって言いたくて――――
 轟君だけじゃない。無愛想で可愛げのないこんな私を、A組の皆は凝りもせず何度もお昼に誘ってくれた。一緒に帰ろうと声を掛けてくれて、いつだって凄いねって心からの言葉で認めてくれた。馴れ合わないなんて全く素直じゃない私の意地をあっさりと壊して、皆して心に入り込んできた。

「ち、ちが…違くて」
「名字?」

 友達なんていたことがなかった。他愛もない話で盛り上がることに憧れていた。
 そんな暇もなかったけど、でもまた幼い頃みたいに突き放されるのが怖かったから自分からは近付かないようにしていたのに、いつの間にか私は沢山の人から優しさをもらっていた。空っぽだった私に、ヒーローを志す意味を齎してくれた。挙げ句の果てにはこんな私を好いてくれるなんて、あまりにも勿体無い話だと思う。
 だから、お礼を言うのは私の方で――――

 無理矢理押し上げた口角が引き攣る感覚がする。本当に最近の私はダメだ。轟君のお母さんとお話ししている最中なのに涙腺がうるうると悲鳴を上げ始めて、二人がギョッと目を瞠る。

「ちがうんですッ…私が、私の方がいつも焦凍君に助けられてばっかりで」
「名字さん…」
「こんな私を友達だって言ってくれて、嬉しかったんです。だから、お礼を言うのは私の方で…」

 こんな時に限って上手く言葉が出てこなくて自分が嫌になる。唐突に目を潤ませる私に轟君のお母さんは驚いたように目を瞬かせていたけど、私の要領を得ない話をゆっくりと頷きながら聴いてくれた。

「ご、ごめんなさいいきなり。ちょっと感極まっちゃって」
「ふふ。いいのよ。…焦凍、本当に素敵なお友達ができたのね」
「…ああ」

 我ながら情緒不安定すぎやしないかと内心呆れていたのに、お母さんはただにっこりと笑って私の手を握り続けてくれた。
 お見舞いに来た側が心配されるというまるっきり逆転した状況に私ははっと冷静になると慌てて顔を上げる。色んなものが垂れそうになって落ちてこないように踏ん張ると、隣にいた轟君が机の上のティッシュを二、三枚取ってくるなりふぁさと私の顔面に乗せて、それからゴシゴシ拭き出した。

「ふぉあ!?」
「名字、顔がひでぇ。拭いてやるからじっとしてろ」
「え……ぶはっ!ちょッ、窒息するって!」

 轟君は真剣な顔で私の鼻を乱暴に拭くと、ご丁寧に目も拭いてからティッシュを丸めてポイした。母親の前だからか、まるで「面倒見てやってます」とでも言わんばかりの満足そうな顔で戻って来るが、おかげで難を逃れたので気にしないことにする。

「あの、焦凍君は本当に優しい人で、寧ろ友達になってくれてありがたいくらいで…。どうにか伝えようと思ったんですけど、これじゃあ締まりませんね」

 ニコニコしたまま轟君のお母さんが見つめてくるので照れ隠しに後ろ髪を掻いていると、「そのことなんだけど」と椅子に座り直した轟君が何やら神妙な面持ちで手元に視線を落とした。
 どうしたんだろう。二人して顔を向ければ、轟君は唇をぐっと引き結んで、それから意を決したように開いた。

「お母さんに、報告したいことがあって」
「報告?」

 ちらりと私の方を見るので席を外すべきか小声で尋ねれば、「いや、平気だ」と首を降られてしまった。

「お母さん、俺…」
「うん。どうしたの焦凍?」
「名字と付き合うことになった」
「……ん?」
「あらあら」

 どこか緊張した面持ちのままはっきりとそう告げた轟君。固まってしまった私に対して、轟君のお母さんは上品に口元に手を当てると、目を丸くさせた。
 …実は病院に来る前、私達の関係を伝えるべきか話し合っていたのだが、まだ初対面だしびっくりさせるのも良くないからと一先ずは友人のていで会うことになっていた…筈なのだが。

「あらあらまぁまぁ」
「(ちょっと待って轟君打ち合わせと違くないですか??)」

 目を白黒させるもやっぱり聞き間違いではなかった。
 そりゃあどのみち知られることとは思うし、実の親に言ったってなんら不思議ではないけど、それなりに心の準備というものがありましてね?っていうか、今までの会話からしてめちゃくちゃ友達ってワードが強調されていたし、何だか後出しをしたみたいで罪悪感が湧いて来る。
 轟君のお母さんは口に手を当てたまま固まっているようで、私は開いたままになっていた口を慌てて閉じると素早い動きで彼女に向き直った。

「ごめんなさい!順番前後してしまったんですけど焦凍君とは、その…お付き合いさせていただいてます」

 轟君とは友達以上の特別な関係であるとは認識していたけど、これまでお互いにはっきりと恋人であると断言したことがなかった。それだけに、改めて口に出して言ってみると恥ずかしさやら擽ったさやらで顔に熱が集まってくる。
 今となっては轟君のお母さんがとても優しくて綺麗で素敵な人だと分かるけど、突然の爆弾発言に対する反応をどうしても窺ってしまう。いや友達ちゃうんかいって私なら思うもの。
 しかし、彼女の反応は私達の予想を見事に裏切るものだった。先程は面食らった様子だったが、何故か今は別段驚いた様子もなく、心なしか嬉しそうに見える。

「やっぱりそうだったのね。まさか焦凍から教えてくれるなんて思わなかったわ」

 その言葉に、今度は私と轟君が目を皿にする番だった。

「え?なんで…」
「ふふ…お手紙の内容と二人を見てたら何となくそうかなぁって。実はね、夏くんも最近彼女ができたみたいなの。焦凍も夏くんももうお年頃なのねぇ」

 なんと。既に勘付かれていたとは、流石母と言うべきか…。
 大人の余裕で小さく笑う轟母に、私達は二人して下を向く。恥ずかしすぎてとてもではないが直視できそうにない。

「名字さん」
「は、はい!」

 咄嗟に返事をして声が上擦ってしまった。轟君のお母さんはそんな私に口元を緩めると、もう一度私の手を握った。今度は少しだけ力強く。

「不器用な子だけど、焦凍のこと…お願いね」

 愛情の込もった眼差しで、慈しむように囁く。―――― それが、私にはとても眩しく見えた。

「はい。任せてください」

 動揺していた心も気付けば落ち着いていて、私は自然とそう口にしていた。破顔した私に、轟君のお母さんは安心したように晴やかに口元を綻ばせる。

「ありがとう」


***
 


 アスファルトに二人分の影が伸びている。
 私達がこうして自然と手を繋ぐようになったのはまだ記憶に新しい。二人共そんなにお喋りではなかったからお互い無言が多いけど、苦ではなかったし寧ろ心地良いから私はこの時間が好きだ。

「お母さん嬉しそうだったね」
「ああ。今日はありがとな」
「ううん、こちらこそ」

 またしても無言の時間が流れるが、今度は轟君が何か言いたそうにしているのを感じ取った私は先を促すように隣に顔を向ける。轟君は、遠慮がちに口を開いた。

「名字の方は、最近どうだ」

 皆まで言わなかったものの、それが私の母親についてであることはすぐに分かった。轟君は一度うちの家庭事情を目撃しているから、気に掛けてくれたのだろう。
 その問いに対する私の答えは曖昧だ。可もなく不可もなく。苦笑だけを浮かべた私に轟君は気を遣ってくれたのか、それ以上何も言ってこない。

「そういえば」
「ん?」
「何で普段から焦凍って呼んでくんねえんだ?」
「…」

 会話の前後に脈略がなさすぎないか。今に始まったことではないけど。
 純粋に疑問といった様子の轟君に、「今までのは相手も轟だから下の名前で呼んでただけだよ」と当たり前のことを言えば轟君は少しムッとして私を見る。

「そうだけど、俺は学校でも名前で呼ばれたい」
「いつも名字なのに急に名前で呼んでたら違和感でしょ!」
「大丈夫だ。皆すぐ慣れる」
「どっから湧いてくるのその自信」
「頼む」
「仮免許取れたら考えてあげる」
「じゃあ明日までに取って来る」
「無茶苦茶言うな」

 わがままか!珍しく駄々を捏ねる轟君を宥めるが、一向に諦める気配がない。

「免許取ったら考えてくれるんだな」
「ん…?まぁ、そうだね。二人の時だけとかになるだろうけど」
「分かった。約束だ」
「う、うん」
「その代わり、今一回だけ名前で呼んでくんねえか」

 真顔で言ってのけた轟君。何だか必死にお願いしてる姿が途端に愛しくて、おかしくて吹き出してしまった。急に笑い出した私に轟君は頭上にはてなを浮かべている。
 中々引いてくれそうにないし、これはちゃんと約束守らないと後が怖いな。

「あはは!はーもう…」

 繋いでいた手をぱっと離して、轟君の正面に回り込む。いつもは素直じゃない私だけど、今だけはほんの出来心から轟君の反応が気になって真っ直ぐ見つめてみる。

「ほら、早く帰ろう焦凍」
「!」
「梅雨ちゃんが今日の夜ご飯肉じゃがだって」
「…おお」

 あ、嬉しそう。目に見えて喜んでいる轟君にどうにか笑いを噛み殺して手を差し出す。すると、心なしか照れ臭そうに下を向きながらゆっくり握り直してくれた。
 手を引いて、歩みを進める。すると、一歩踏み出したところで腕がぐんと後ろに引っ張られた。振り返ると、私の手を握ったまま立ち止まった轟君と目が合った。

「名前」
「え、」
「名前、呼んでみたかった」

 夕陽を背にとんでもなく柔い笑みが私を見つめている。やっぱりお母さんにそっくりだなぁなんて頭の片隅で思いながらも、慣れないその呼び方に心臓が握られたみたいに痛い。唇からは空気だけが漏れて、唾を飲み込むだけで精一杯だ。

「…今日だけだからね」
「ん」

 二人分の影が並んで、また動き出す。躊躇なく呼び合えるのは、きっともう少し先の話だ。




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