「もしかして轟君機嫌悪い?」

 緑谷にそう言われて、そこで初めて轟は自身が苛立っていることに気が付いた。
 林間合宿二日目の夜。女子と男子に別れ、それぞれ就寝前の数少ない自由時間を満喫していた時だった。盛り上げメンバーは補習に連行され、その他の面子は早々に床に着いたりトランプで遊んだりしている。そんな中、男子部屋の端にある広縁では緑谷と轟と飯田が鍛錬の反省会という名の雑談を繰り広げていた。
 轟は唐突にそんなことを言い出した緑谷に、飯田と揃って目を瞬かせる。

「確かに。夕方くらいから何か考え込んでいたみたいだが何かあったのか?浮かない顔をしているぞ」
「そうか?自分じゃ気が付かねぇもんだな」
「もしかして誰かと何かあったの?」

 態度には出していないつもりだったが、どうやら口数の少なさや表情で見抜かれてしまったらしい。胸の奥に潜む不快感の原因が分からず話に集中できなかったから、緑谷の鋭い指摘には舌を巻くばかりだ。
 だが厳密に言えば、轟は誰かと揉めた訳ではない。考えれば考える程それは一方的で、身勝手な感情であると言える。だからこそ、当の本人は対処法が分からず密かに当惑していたのだ。

 轟の悩みの種――――それは、クラスメイトである名字名前が主な原因だった。

 思えば轟は苛立ちの始まりですら原因を理解していなかった。その時は初日の入浴時間で、男女が薄い壁を挟んで露天風呂を満喫していた時だった。
 いつも通り峰田が性欲を拗らせて、下劣極まりない言葉を並べながら女子風呂を覗こうとしていた。それに関しては轟も「またやってんな」くらいの認識で、特に何ってことはなかった。

「オイラにもその!汗水滴るエロ腹筋と乳房を!拝ませろぉおおお!」
「速ッ!」
「壁とは超える為にある!”Plus Ultra”!」
「校訓を汚すんじゃないよ!」


 けれどひとたびその標的が名前であると知った瞬間、胸の奥からムクムクと不愉快な気持ちが膨れた。

「なんつーか…あんだけ騒がれると想像力掻き立てられるよな…。正直俺も覗いてみたい気持ちある」
「よせよお前峰田と同類なんぞ」
「いやでも男なら気になんね?」
「そりゃまぁ…ね?」

 くびれが。胸が。向こう側の楽園から聞こえてくる艶かしいワードに上鳴達が鼻の下を伸ばしている。脳内は恐らくA組女子達の姿で埋め尽くされているが、その中に名前のあられもない姿が入っていると思うと轟は無意識に睨まずにはいられなかった。
 そんなことは露知らず、轟の無言の圧力に咎められていると捉えた面々は湯の中にいるにも関わらず身震いをする。

「(轟に下ネタは禁物だ!)」

 そんな見当違いな解釈をして、口を閉ざすのだった。当の本人は突然湧き上がってきた苛立ちに首を傾げ、疲れているのだろうと結論付けてさっさと風呂から上がる。
 どんな理由であれクラスメイトに八つ当たりをするべきではない。内心反省しながら大広間で飯田と共に緑谷の帰りを待っていると、程なくして女子勢も脱衣所からぞろぞろと出てきた。その最後尾に、恥ずかしそうに俯く名前の姿がある。
 声を掛けようか迷った。しかし、今度は轟自身の脳内に芦戸と名前の際どいやり取りが過ぎって、気付けば一歩足を踏み出したまま硬直していた。そんな想像をしてしまった自分にも信じられなかったが、途端に突き付けられた異性の形に少なからず動揺してしまったのが事実だった。

「あ…」
「…」

 名前と目が合う。遠慮がちに歩み寄ろうとしてくるのが見えた瞬間、轟は勢いで外方を向いてしまった。
 視界の端で衝撃を受けている名前とそれを慰める耳郎の姿がチラつく。けれど到底言い訳をしに行けるような余裕は轟にはなかった。こんなこと今までなかったのに、どうして今になってと混乱する他ない。

 次に不快感を感じたのは丁度今日の夕方…夕食のカレー作りの時間だった。
 轟は初日の態度を謝ろうと決めていて、名前に声を掛けるタイミングを見計らっていた。しかし炎熱の個性を持つが故に火起こし役であっちこっちに引っ張りだこ。斯くいう轟自身も毛嫌いしていた個性で皆が喜ぶ姿に悪い気はしていなくて、せっせと釜戸に火を起こしていく。
 遅かれ早かれ順繰りに名前の班に着地するだろうと踏んでいたが、そんな期待はある存在によってあっさりと裏切られた。

「なぁにぶすくれてんだ!それが礼を述べる奴の表情かぁ!?」
「いだだだあ、ありがとうございまふッ!」
「ふん。分かりゃいいんだよ」

 既に爆豪によって火は灯され、仲睦まじく戯れ合う二人の姿が視界に飛び込んでくる

「(…まただ)」

 ムクムクと湧き上がってくる胸の奥の違和感。更に今度はチクチクと細い針で何度も突き刺されたような痛みまで伴って、等々普通ではない感覚に病気の存在を疑った。
 目に見えない自身の心臓を見下ろして、それから名前に顔を向ける。耳郎と笑い合ってる姿がやけに目に焼き付いて離れない。その笑顔を捉えてから、胸の痛みがすっかりなくなっていることに気付く。
 あまりにもガン見をしていたせいか、視線に気付いた名前が轟に目を向ける。突然噛み合った視線に、轟は真顔ではあったものの内心で焦った。何も疚しいことなどないのに、どうしてか後ろめたさを感じでまた顔を背けてしまった。

「(何やってんだ…俺)」

 幸いあちらは気にしていない様子だったが、罪悪感と自身への不信感に苛まれてそれどころではなかった。
 合宿先に向かうまでのバス内では何も問題なかった。何故今になって体調が悪くなってしまったのか。悶々と考え込んでいる内に、その日口にしたカレーの味も忘れてしまった。


 振り返ってみると名前との関係は歪だったなと轟は思い返す。正直に言って入学当初は隣の席でも全く興味関心が無かったし、エンデヴァーへの復讐で頭がいっぱいでなんで突っかかってくるんだくらいにしか認識していなかった。
 その認識も体育祭最終種目での戦いで氷ごとぶっ壊され、如何に彼女が自分と似た存在であったかを思い知った。正に反面教師。己の愚かな行いを客観視することができたし、おかげで冷静に周りを見ることができるきっかけを貰った。名前と轟がまともに言葉を交わすようになったのも、そこからだ。
 とはいえ、当時は殆ど轟が一方的に歩み寄っていただけで名前自身は突っぱねていた部分もあるが、蓋を開ければ案外気が合うのか専ら二人で過ごすことが増えていった。
 なんてことはない純粋な友情だ。だかその根元部分は同族意識。はたまたお互い愛に飢えた者同士の、無意識の傷の舐め合いだったかもしれない。それでも、二人はとりわけ仲の良い友人として日々の学生生活を送っていた。…それが一体どうして、たった一人のクラスメイトにここまで一喜一憂するようになってしまったのか。以前の轟からは考えられない変化だった。誰が何をしようが歯牙にも掛けなかったのに、どうしてか名前に対してだけはそれができない。
 この胸の蟠りが気持ち悪い。早く取り除きたい一心で、轟は未だに心配そうに自分を見つめる緑谷と飯田に相談することにした。

「緑谷に飯田。ちょっといいか」
「うん?どうしたの?」
「俺達で良ければいくらでも聞くぞ!」
「…聞きたいんだが、特定の人を見て感情の起伏が激しくなったり胸が痛んだりする病気ってあるか。検索してもそれらしいのが見当たらなくて、困ってんだ」
「…へ?」

 深刻な様子で吐露する轟に緑谷が目を丸くする。何やらどこかで聞いたことがあるような症状だが、あの轟君に限ってまさかな…と慌てて思考を振り払っていると、中々返事をしない緑谷に轟が小さく肩を落とした。

「お前は色々博識だろ。だから分かるかと思って聞いたんだが…やっぱ病院行った方が確実か」
「ま、待って轟君。一つ心当たりがあるんだけど…僕も確信が欲しいから、その症状が出る時の状況とか詳しく教えてくれないかな?」

 心当たりがあるという言葉に轟は反応を示すと、顎に手を当てて考え込む仕草をする。

「そうだな。そいつがA組の女子以外と話してるの見ると心臓が重くなる」
「…ちなみに確認させて欲しいんだけど、轟君の言ってる特定の人って…女の子?」
「?そうだ」
「ヴッ!…ご、ごめん。それで?」
「あとは…笑い掛けられると今度は心臓が痛ぇ。そういう系の個性でもねぇみたいだし、毎回同じ箇所が痛むから心臓の病気としか考えらんねぇんだが」

 真顔でとんでもないことをつらつらと語る轟に、緑谷は飲み掛けていたお茶を何度も吹き出しそうになるのを必死に堪える。飯田に至っては眼鏡が曇ったままあんぐりと口を開けていた。
 話せば話す程押し黙っていく二人に、轟は「やっぱりどっか悪いんだな…」と不安気に足下に視線を落とす。こんなに弱気になっている轟は珍しい。だが、それだけ悩んでいるということなのだろう。
 緑谷は真実を言うか言うまいかで迷っていたが、友として彼を助けてあげたい気持ちが勝った。それに、とんでもない勘違いをしたまま今の小っ恥ずかしい話を他の人にまでしてしまったらと思うと尚のこと放っておけない。

「いや…その、僕はお医者さんじゃないけど、それは間違いなく病気では無いと思うよ…」
「そうなのか…?念の為病院で診てもらおうか迷ってんだが」
「えぇ!?大丈夫!全然必要ないよ本当に!」
「?そこまで言うってことは何か分かったのか?」
「分かったと言うか…何というか…」

 歯切れの悪い緑谷に轟が不思議そうに首を傾げる。緑谷は思わずちらりと隣の飯田を見上げるが、どうやら彼もその症状の原因を察しているようなので、思い切って切り出すことにした。

「轟君は、きっとその子のことが好きなんじゃないかな」
「え、」
「病気なんかじゃなくて、君は恋をしているんだよ」
「こい…コイ、鯉?」

 譫言のように繰り返す轟にすかさず緑谷が「違うよ轟君!恋だよ!」と訂正をしてあげる。
 耳で聞いて意味を理解していながらも、脳の処理が追い付いてこない。

「恋……こい…」
「見事に放心しているな。自覚が全く無かったみたいだから致し方ないが…」

 飯田が放心している轟の眼前でぶんぶんと手を振ってみるが、何も見えていないかのように反応がない。完全に自分の世界に入ってしまっている。
 そもそも彼のことをよく知っている身からすれば、女子に興味すら無さそうなあの轟が恋をしている時点で合宿中に雪でも降ってきそうだし、本人のこの反応にも納得できる。恐らく思っている以上に脳内はパニックになっているに違いない。
 そこで飯田はビシッと腕を出すと、励ますように声を張り上げた。

「男子たるもの、恋愛の一つや二つ経験しておくべきだと兄さんが言っていたぞ!良かったじゃないか!一足先に成長できる!」
「そ、そうだよ!そこまで誰かを好きになれるって素敵なことだと思うよ」
「うむ!それに、名字君はとても魅力的な女性だ。君が虜になるのも分かる」
「…へ?え、ええ!?飯田君何で名字さんって知ってるの!?」

 ひっくり返りそうな程驚く緑谷に飯田はきょとんとする。しかし思った以上に大きな声が出てしまい、トランプで遊んでいた尾白達の視線が一斉に広縁に向いた。
 緑谷はしどろもどろになりながら「ご、ごめん!何でもないよ!」と全力で首と両手を振って誤魔化す。すると、集まっていた視線が再び散っていった。

「ごめん…つい…。それで、何だっけ」
「あ、あぁ。轟君が懸想する相手など寧ろ名字君くらいしか思い付かないんだがって話なんだが…」
「た…確かに…。言われてみれば二人は基本的に一緒にいることが多い…」
「そうだろう!俺は学級委員長として周りをよく見ているからな!」

 腰に手を当てて誇らし気にしている飯田に対し、緑谷は顎に手を当てていつものぶつぶつぶつぶつを始めてしまっている。当然、今この場に「恋愛まで分析か!」とツッコミを入れてくれる者はいない。
 完全に置いてけぼりだった轟は名前の名にパッと顔を上げると「すげぇな飯田。アイツってよく分かったな」としみじみ感心したように呟く。轟は妙にすっきりした顔をしているが、再び足下に視線を落としてしまった。

「虜…か。確かに、ここんとこ布団に入ってもアイツの顔が頭に浮かぶし、そういうことなのかもしんねぇな」
「け、結構重症みたいだね」

 暫く無言だったと思えばまたしてもそんなことを言い出すので、緑谷は思わず苦笑いを浮かべる。同時に虜という言葉にはてと反応をすると、不思議そうに飯田を見上げた。

「二人が特別仲良しだからっていうのは分かるけど、飯田君的には他の理由もあるの?」
「む?」

 仲がいいということだけが根拠ならそこまで過大評価する必要はない。飯田は基本的に良い意味でも大袈裟ではあるが、一人の女子に対してそこまで言い切る何かが彼の中であるのだろう。
 そう見込んだ緑谷は隣に座る飯田に問い掛ける。轟も気になるのか、無言のまま視線だけはしっかりと飯田に向けられていた。

「俺の中で特に印象深いのは保須市での彼女だ」
「あの時の…?」
「あぁ。普段から皆と共に昼食を取ることは多かったが、あの時俺は初めて彼女の根元の部分を見た気がしたよ」

 過去の記憶を思い返すように飯田は瞼を閉じる。あの日の忌々しい記憶はまるで昨日のことのように脳裏に浮かぶが、同時に肩に置かれた優しくも力強い手と慈愛に満ちた名前の微笑みも蘇ってくる。

―――― 私も、ごめん。苦しい時程頼れないものって分かってたのに、飯田君が話してくれるまで待とうなんて考えてた。辛かったよね。無傷とはいかなかったけど、飯田君が無事で本当に良かった。

 少なからず飯田にとってあの時の名前は普段のどこか冷めたような印象とは真逆の、心から相手を労る温かみのある人間に見えた。

「うむ!あれは正に聖母というに相応しかったな!」
「(完全に私情だッ!!)」

 私情どころか何かしらのフィルターまで掛かっているんじゃないか…と緑谷は感無量と言わんばかりの飯田を唖然と見つめる。どちらかというとそれ飯田君が虜って話なんじゃ…。
 というか、その聖母に恋している友人が目の前にいるというのに、ここまで具体的な話をして平気なのだろうか。ただでさえ彼は名前が他の男子と話しているだけでも嫉妬してしまうなどととんでもない症状を打ち明けてくれたというのに。
 緑谷はバッと慌てて轟に顔を向ける。その頬には冷や汗が流れているが、危惧していた友人の表情が思っていたものでは無かったのを捉えた瞬間、更にもう一筋流れた。

「そうだな。確かに、あいつの笑顔を見ると安心できるってのは分かる気がする」
「え…」
「どうした緑谷?」

 あれ、普通だ…。
 ほけーといつものように気の抜けた顔の轟はとてもではないが嫉妬に燃えているようには見えない。いや、もしかして普通に見えて案外内心はメラメラなのでは…という考えも浮かんだが、緑谷の知る轟はそれなりに感情が顔に出るタイプだ。

「女子以外とって言ってたけどもしかして実際は男子の中でも特定の相手に絞られるのかなよく考えてみると名字さんは口数が多い方ではないし普段から会話してる人は限られているからもしかしたら僕達は平気ってことなのかもぶつぶつぶつぶつ」
「大丈夫か緑谷?」
「またいつもの癖が出てきたな」

 どうやら一部の人間に対しては特に嫉妬心は芽生えないらしい。緑谷は自身の見解にほっと胸を撫で下ろす。
 友達の恋路は勿論応援するが、緑谷にとっては同じ増強型である名前との意見交換や鍛錬の時間は有意義なものであるだけに今後の会話に支障が出るのは避けたかった。しかし、どうやら見た所緑谷と飯田が彼女に関わる分には特に何とも思っていないらしい。
 そうなると次に気になってくるのは"一体誰に嫉妬してしまうのか"という所だ。根掘り葉掘り尋ねるのもどうかと思うが、ここははっきりさせておかないとと緑谷は意を決して轟を見上げる。

「轟君はさっき名字さんが他の男子と話しているのを見ると心臓が重くなるって言ってたけど、具体的に相手が誰だとそうなるのか聞いても良い?」
「滅多に起きねぇけど…多分、爆豪…とかじゃねぇかな」
「かッッッ……」

 かっちゃん????予想の斜め上をいくクラスメイトの名に緑谷と飯田は目を点にさせる。それもその筈、爆豪と名前が不仲であることは衆目の一致する所だ。緑谷も大概だが、一部からは良い勝負とも言わしめる程の仲の悪さなのだ。
 それの一体どこに嫉妬する要素があるのか皆目検討もつかない二人だが、轟が「あいつ等、仲良いよな」とぽつりと呟いたのを聞いて無理矢理そう思うことにした。人と違う視点を持っているのは良いことだ。

「それはそうと、轟君はその気持ちを伝えるのか?君の友人として勿論盛大に応援をするが…」
「…」

 飯田の言わんとしていることを理解し、轟はまたしても足下に視線を落とす。
 好意を伝えたとて必ずしも相手がそれを受け入れてくれるとは限らない。最悪の場合が起きたとして、共にヒーローを目指す者が授業等での連携に私情を挟むのは好ましいとは言えないだろう。飯田が委員長として、クラスメイトの関係に亀裂が生じないか心配するのは当然のことだった。

「…いや、言わねぇ」
「ど、どうして」
「今は自分の気持ちを整理するだけで精一杯だ。それに…あいつを困らせることはしたくねぇ」
「轟君…」

 気を遣った訳ではなく、本心だった。違和感の正体に納得するだけで胸の蟠りは消えたし、すっきりもした。だからこれでいいのだと自分に言い聞かせる。

「さっきから緑谷達何の話してんの?」
「!!」

 トランプを箱に戻しながら尾白や障子、常闇達が視線を向けてくる。緑谷と飯田はギクリと身を強張らせると「な、何でもないよ!もう寝ようかって話してたとこ!」と両手を振って見せた。
 勢いで出てきた言葉だったが、実際にもう床に着いても良い時間だ。飯田は「早朝の訓練に障るぞ!皆寝よう!」と誰よりも声を張り上げるとてきぱきと寝る準備を始める。轟も、そんな彼らに続いて布団に潜り込んだ。

「(あいつは…名字はどう思ってんだろうな)」
 
 飯田が消灯する音を聞きながら、轟は名前の姿を思い浮かべていた。緑谷達のおかげで気持ちの整理もできたし、明日こそは声を掛けてみよう。そんなことを頭の片隅で考えながらゆっくりと意識を沈ませていく。

 ―――― そう、これでいいのだ。この時までは、確かにそう思っていた。

 異変が起きたのは肝試しの最中だった。
 成り行きで名前は爆豪とペアを交換し、轟と共に肝試しのコースを回った。それまで感じていた若干の気不味さもいつの間にか消えており、以前のような状態で言葉を交わせたことに安堵してゴールを目指しているさなか奴等は来た。
 "敵連合"。開闢行動隊。雄英が敵に悟られまいと慎重を期して選んだ合宿先に、何の前触れも無く現れた。

「哀しいなぁ―――― 轟焦凍」

 ワープゲートから伸びてきたツギハギの手が、名前と爆豪が圧縮された球体を既の所で轟から掠め取る。勢いだけで飛んでいた体は支えを失って、容赦無く鼻から地面に打ち付けた。

「…なぁ。この女、お前にとって何なの?興味あるなぁ」
「ッお前、何なんだ!そいつ等を離せ!」
「まぁいいや。Mr.、確認だ。”解除”しろ」
「ッだよ今のレーザー…。俺のショウが台無しだ!」

 何故自分の名を知っているのか。何故そうも親し気に語り掛けてくるのか。問い質したい気持ちを堪えて轟は地に伏した上半身を持ち上げる。今は何よりも連れ去られそうになっている二人の奪還が最重要だ。
 Mr.コンプレスがパチンと指を鳴らした瞬間、爆豪と名前の姿が弾けるようにして目の前に現れる。二人は状況を把握しきれていないのか、緩慢とした動きだ。その首筋に、荼毘の指先が蛇のように纏わり付く。

「問題、無し」
「かっちゃんッ!」
「名字!」

 轟と緑谷が駆け出す間もワープゲートの渦はどんどん小さくなっていく。目の前の二人と敵の体が沼に沈むように消えていく。
 ダメだ。行くな。間に合え…!

「…ッ!手を伸ばせッ!」

 もう、意地だった。腹の底から絞り出すような叫びに、一点を見つめていた名前の瞳が轟を捉える。その薄い唇が何かの言葉を紡いだ。けれど、聞き取れなかった。全身が闇に溶けて消えていく。
 ―――― そこにはもう誰の姿もなかった。


 生徒四十名の内意識不明の重体十五名。重・軽傷者十一名。無傷十三名。そして、行方不明者二名。正に、完全敗北。誰もが心待ちにしていた林間合宿は、こうして最悪の結果で幕を閉じた。

 翌日、家に送り届けられた生徒達は自宅待機を命じられた。しかし、居ても立ってもいられなかった轟は早々に身支度を終えると、緑谷や他のクラスメイトが入院している病院に出掛けた。
 病院に向かったところで何かが変わる訳でも、行方不明になった二人が戻ってくる訳でもない。それでもジッとして悔しさに苛まれているよりかはずっと良かった。家にいるだけでもあの日の後悔ばかりが脳裏に焼き付いて、碌に眠れもしなかったから。
 それは轟だけでなく切島も同様だった。補習を受けていた切島は他のメンバーと共に施設から出ることを禁じられ、友の危機に助けに行くことすら出来なかった。しなかった。悔恨の念に、気付けば二人は病院の受付前で偶然鉢合わせをしていた。

「ここで動けなきゃ俺ァヒーローでも男でもなくなっちまうんだよ!」

 敵は何かしらの目的があって二人を攫った。しかし、だからと言って殺されないとも限らない。それならば今すぐにでも行動に移さなければ手遅れになってしまうかもしれない。爆豪と名前の救出作戦の誘いに、轟は二つ返事で頷いた。勿論、幼馴染を助けられず一番苦しんでいるであろう緑谷にも声を掛けた。当然ながらA組の面々には全力で止められた。
 プロに任せるべき。子供の出る幕ではない。自分達のやろうとしていることは、敵のそれと同じ。皆の言い分は尤もだった。冷静を繕っているが、轟ですら感情論で動いているだけに言い返す余地もなかった。

「まだ手は届くんだよッ!」

 どれだけ言い含められても、一縷の可能性があるならばそれに縋りたかった。どう考えても無謀な挑戦だ。そんなことは自分が一番良く分かっている。けれど、事態は一刻を争うのだ。到底落ち着いて待っていることなんてできる筈がなかった。
 緑谷と飯田のおかげで漸く気付いた自分の気持ち。生まれて初めて抱いた感情だった。それなのにまだ――――…。

「(まだ俺は…お前に何も伝えられちゃいねぇ)」

 ヒーローを目指す者同士、余計な感情で輪を乱すべきではないと本音を押し留めるつもりだった。気の置けない友人として彼女の傍にいられれば満足だった。
 だけど、こんな望んでもいない形で失われるくらいなら一層のこと奪って自分のモノにしてしまった方が幾分もマシだ。この想いを、無かったことにだけは絶対にしたくない。

 クラスメイトの説得を振り切り、轟と切島と緑谷は作戦を決行する。そこに、万が一のストッパー役として八百万と飯田も同行した。

 実行日は今晩。失敗は許されない。戦闘無しの隠密行動で奪還するというお世辞にも冷静とはいえない作戦を掲げ、――――五人は夜の街に身を躍らせるのだった。




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