目が覚めた私を迎えたのは見知らぬ天井と全身の激痛だった。
「ここは…?」
轟君と戦ってからの記憶がない。それどころか、勝敗がどうなったのかさえ不明だ。窓の外を見れば既に空は茜色に染まっていて、静けさから体育祭は既に終わっていることを察する。 せめて最後の表彰だけでも参加したかった。 過ぎたことに項垂れていると、私が横になっているベッドを囲むカーテンが突如開かれる。そこにいたのは椅子に座ったままリカバリーガールだ。
「やっとお目覚めかい。あんた、あれからずっと眠りこけてたんだよ」 「あの、体育祭は…」 「そんなのとっくに終わったさね」
「ちなみにあんたは轟に負けて運ばれたんだ」リカバリーガールの言葉に目を見開く。
何を驚くことがある?もう、何となく分かっていたことじゃないか。目が覚めてから痛む全身と両腕に巻き付けられた包帯が何よりもそれを証明している。 実力を披露して、認めてもらえる最大のチャンスだった。許されるのは完璧な優勝だけだ。―――― それなのに私は、勝つことができなかった。 それどころか轟君を焚き付けておいてこのザマだ。右腕なんてギプスを嵌められる程の大怪我をして、一体どんな顔をして家に帰ればいいというのか。
「顔をお上げなさいよ」
唇を噛み締めて俯く私の頭をリカバリーガールの小さな手が触れる。まるで孫をあやすような手付きに思わず顔を上げれば、彼女は私を見つめて優しく微笑んだ。
「なんて表情してるんだい。あんたは精一杯やったよ」 「でも、私は…」 「こんな筋肉ズタボロになるまで戦って…。自分の実力を知るいい機会だったんだ。次頑張ればいいんだよ」
でも、でも…! 込み上がる悔しさはそう簡単に治るものではない。もっと上手く立ち回れた筈だと後悔ばかりが頭に浮かんでは消えていく。
ふと、保健室のドアがノックされた。リカバリーガールの返事も聞かずに誰かが部屋に入ってくる。響くヒールの音には聞き覚えがあった。
「失礼するわね。リカバリーガール」 「…名字、返事も聞かずに入ってくるんじゃないよ」 「それどころじゃなかったものでね。試合、見てたわよ名前」 「…ッ」
お母さんがベッドの前に立ち、私を見下ろす。その両目はどこか冷たく威圧的で、私は喉に石でも詰め込まれたかのように苦しくなって息を呑むのがやっとだった。
「あれしきのことでこんな時間まで寝ているなんて随分呑気なのね」 「…」 「エンデヴァーの息子に負けるなんてどういうつもり?」
一気に低くなった声色にビクリと肩が跳ね上がる。思わず俯いた先の布団をたぐり寄せるようにして握れば、お母さんは苛立たし気に鼻を鳴らした。
「十五年間。あなたを強くする為にいくらかけたと思ってるのかしら。そんな無様な姿を世に晒すなんて、お母さんは凄く悲しいってこと、分かるわよね」 「ご、ごめんなさ…」 「いい加減にしなよ!あんたは親としてこの子を労ってあげるのが第一だろ!?この子はあんたが思ってる以上に頑張ったよ!」 「口を挟まないで頂戴。私はこの子と話しているの」
お母さんはちらりと腕時計を確認すると、態とらしく溜息を吐いて踵を返す。 まさかそれだけを言いに、ここに来たのだろうか。呆然とその後ろ姿を見つめれば、リカバリーガールが目尻を吊り上げて「名字!」と叫んだ。お母さんは立ち止まって私を一瞥する。
「次は期待しているわよ」
それだけ言い残して、お母さんは出て行ってしまった。
「まったくあの子は昔からああだ」
暫しの静寂の後、リカバリーガールが特大の溜息を吐いて額を押さえる。私は魂でも抜けてしまったかのような気持ちでただお母さんが出て行ったドアを見つめることしかできない。 落胆させてしまったのだ。忙しい中時間を作って観に来てくれていたのに、望む姿を見せてあげることができなかった。 鼻の奥がツンとして、じわりと目の端が滲んでくる。同時にまたしても誰かがドアをノックしたのが聞こえて私は慌てて両目を擦った。
「失礼します。名字はいますか」 「おや、あんたかい」
間違いなく聞き覚えのある声色に信じられないとばかりに顔を上げれば、予想通りの紅白頭が私の荷物を抱えてそこに立っていた。 一体何でここに?愕然とその横顔を見ていると、私に気付いた轟君がどこか気まずそうにこちらを一瞥してくる。
「…帰りのHR終わって、相澤先生に頼まれたから荷物持ってきた」 「ど、どうも…。けど何で轟君が…」 「名字の相手は俺だったから”お前が行け”とだけ」 「はぁ」
脳内で寝袋に入った相澤先生が「持ってく奴決めるの面倒だからお前が行け」と言っている姿が容易に想像できたので納得は早かった。 荷物を持ってきてもらえるのはありがたいけど、あれだけ醜態を晒して尚且つ負けた相手にそう素直に顔を合わせることなどできる筈もなく、早く帰ってくれと言わんばかりに顔を逸らせば轟君が「ちょっといいか」と傍に歩み寄って来る。
「先生」 「私のことなら気にせずどうぞ」
背を向けて椅子でコロコロと机に戻るリカバリーガールに轟君は少し不本意のようだったが、すぐに私に向き直ってベッドサイドの椅子に腰を降ろした。 私としては話すことなんて思い当たらないし、何を言い出すのかと内心緊張しながら様子を伺う。轟君は少し考えるように間を置くと、意を決したように口を開いた。
「いつも、親にあんなこと言われてんのか?」 「……」 「悪い。ドアの前で立ってたら会話聞こえちまった」
驚いて目を見開く私に轟君は申し訳なさそうに自分の手元を見下ろす。まさか聞かれているなんて夢にも思っていなかった。これがマスコミだったら大問題だ。
「…別にいいよ。私だって緑谷君との会話盗み聞きしちゃったし。それに、ちょっと厳しく聞こえたかもしれないけどあれは私を思ってのことだから、」 「そんな訳ねぇだろ。あれは受け入れていいもんじゃないって本当はお前も分かってんだろ」
私の言葉を遮って言う轟君に怒りにも似た感情が込み上げてくる。 今まで私が何を叫んでも応えなかった癖に、事情を知った瞬間説教しだすなんてそんなの完全な後出しジャンケンだ。
「あなたに何が分かるって言うの!?負けた私に同情してるだけなら必要ないから今すぐ出て行ってッ!」
辛うじて残っている左腕で轟君の胸倉を掴み上げる。火傷と傷痕がズキズキと痛むけど、そんなこと気にしてる場合じゃなかった。
「名字の姿が、自分に重なって見えたんだ」
いつもの轟君なら、今の時点で睨むなり怒るなりする筈だ。それなのに、目の前にいる彼の表情はどこか虚脱したような妙な落ち着きがあった。吹っ切れたというには些か影があるが、それでも明らかに数時間前まで取り巻いていた棘は跡形もなく抜け落ちてしまっていた。 言い返す訳でもなく、哀しげに目を伏せる轟君に胸倉を掴む腕の力が徐々に抜け落ちていく。どうして今更そんなことを言うのか分からなくて、私は言葉を詰まらせた。
「お前のことを知って、それから緑谷と戦った時、アイツも俺の左側を"俺の個性"だって言った。ひたすら親父を否定することだけを考えていた俺にとって思いもしない考え方だったんだ」 「……」 「俺は正直突っかかってくるお前のことを疑問にしか思っていなかったが、試合が終わってから思い返してみると、あの時のお前は正に緑谷に突っかかる俺と同じだったんだなって気付いた。そりゃ緑谷も何で自分にって不思議に思うよな。目の前のやつは一つのことに囚われて周りなんて見えちゃいねぇんだから」 「何が、言いたいの」
らしくない程に饒舌に話す轟君に私はただ困惑する。いつしか掴んでいた腕をゆるゆると解けば、轟君は今度こそ私に顔を向けた。
「悪かった」 「は、」 「名字のおかげで気付けたことがある。まだ精算しなきゃならねぇものがあるけど、まずは謝りてぇと思った。それと、」
「お前は強いよ」そう悔し気ながらも薄く笑う轟君に、私の中の何かがプツリと音を立てて崩れていく。
―――― お母さんは凄く悲しいってこと分かるわよね。
「完全に気圧された。正直、負けたかと思った」
―――― エンデヴァーの息子に負けるなんてどういうつもり?
昔から"オールマイトみたいに強いね"と言われてきた。ステージでの声援もそうだ。皆からしたら最上級の褒め言葉だったのかもしれないけど、私自身の個性を褒められた気がしなくてずっと嫌だった。
―――― 次は期待してるわよ。
一度だけでもいいから、言って欲しかった。頑張ったねって。強くなったねって。今の私の全てを、ただ受け入れて欲しかった。 また鼻の奥がツンと痛くなって、ぐしゃりと口元を歪める。けれど、ダメだと思った時には堪えていたものが堰を切ったように溢れて止まらなかった。
「喧嘩はよしなよ。ほら、ティッシュ」
今まで黙って背を向けていたリカバリーガールがそっとティッシュの箱を手元に置いていくと、すぐに椅子ごとコロコロと机に戻っていく。 私はせっかくもらったティッシュを取る余裕すらなくて、涙が次々に布団に染みを作れば轟君は隣で「やっぱお前、俺に似てるな」と哀しげに笑った。
「似て、ないよ。私轟君みたいに…挨拶無視しないから」 「…?」
泣いてる所を見られるのが恥ずかしくて嫌味を言えば、轟君は頭に疑問符を浮かべて首を傾げる。 その姿に、止まらなかった涙が思わず引っ込んだ。
「…え?何その顔?」 「いや…。無視ってなんのことだ?」 「はぁ!?」
ここが保健室だということも忘れて叫べば、轟君はビクリと肩を跳ねさせて不可解そうに私の顔を見た。 …彼は一体何を言っているんだ?わなわなと震える腕に轟君はまたしても気不味そうに目を逸らす。
「わり…。多分、聞いてなかったと思う」 「あっそう!!いいよもう絶対次からしないから!」 「悪かったって。次はちゃんと返事するから」 「絶対いや!」 「あんた達これ以上騒ぐなら外でやりなさい!」
鞄ごと廊下に放り出された私達。リカバリーガールはぷんぷんしながら「そんだけ元気なら早く家帰ってご飯食べてしっかり寝んさい!」と叫ぶと、困惑する私達の目の前でドアをパタンと閉めてしまった。 …あれ?私一応怪我人だよね? 頭上にはてなを浮かべまくる私の隣で轟君は立ち上がると、「帰るか」と手を差し伸べてきたので驚いた私は思わず外方を向く。
「な、なによ」 「…俺が左側使っちまったせいで火傷ひでぇんだろ」 「別に自分で立てるから!」
本当は割と痛いし右腕も使えなかったけど、素直になれなかった私はど根性と気合いだけで立ち上がった。轟君はそんな私に何か言う訳でもなく、依然として物憂げな表情をしている。 まるで中身ごと別人に入れ替わってしまったのではと疑いたくなるような変り様に何だか調子が狂ってしまった。
「…体育祭終わってから様子変だけど、体調悪いの?」 「言っただろ。お前等の言葉を聞いて、色々考えたくなったんだ」
轟君自身もそれなりに怪我をしていたから調子が悪いのかと思っていたけど、どうやら違うらしい。私はずっと気絶をしていて緑谷君との試合は見れなかったが、彼と何故か私の存在は轟君に大きな影響を与えたようだった。 しかしそれは私も例外ではないように思う。今回の結果は心の底から悔しかったし、絶望した。けれど私も轟君と関わって、どこか胸のしこりが軽くなったような感覚があった。
「何でついてくんの!」 「俺、家こっち方面だ」 「……」
歯車が音を立てて回っていく。今日この日、確かに私達の中の何かが動き出した。
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